第八章 ビスケットが焼けるまでに 3
「……チャールズは誰?」
「私の母方の従兄。チャールズ・ミドルトンっていって、海軍士官なの」と、シシーは誇らしそうに言った。
「まあ、わたくしの長兄も海軍務めよ。今は外洋に?」
「ええ」と、シシーは沈んだ声で応えた。「私はチャールズに手紙を書いて、どうにかして本物の護符を手に入れて貰いたいと頼んだの。カルアッハのパーシー家の誰かがジョンに魅了魔術をかけているかもしれないからって。そしたらチャールズは引き受けてくれた」
「――失礼だけど代価は? 信頼性の高い本物の護符は若い海軍士官がポケットマネーで気安くプレゼントできるほど安くはないと思うのだけれど」
訊ねるとシシーは眉を歪めた。
「代金は私が自分の貯金から出したの。家庭教師の仕事で貯めていたのを半分送っちゃった。それでも前金にしかならなかったけど」
「残りは後払い?」
「そう。私が無事ミセス・ジョン・クルーニーになれたら三割増しで請求するって」
「……手数料にしちゃ割高ね。他に頼れる従兄弟はいなかったの?」
「残念ながら選択肢がチャールズしかなかったの」と、シシーがため息をつく。「でも、チャールズは急に出航が決まったらしくて、結局何も送ってくれないまま外洋に出て行っちゃったの」
「じゃ、あなたは前金を送ったきり、現物を手にしていないの?」
「そういうこと」と、シシーが肩を落とす。「チャールズに言われるまま貯金を全額送らなくて本当に良かったと思っている」
完全に諦めきっている。
エレンは怒りを感じた。
「シシー・エヴァンス、何を気弱なことを言っているの! そのチャールズ・ミドルトンが帰ってきたらすぐさま返金させなさい。返さないっていうならわたくしが弁護士を紹介しますから」
「ありがとうエレン。でも落ち着いて。今の問題はそこじゃないと思う。あなたの調べている事件と私の事件がつながるとしたら、チャールズが手に入れた護符が、そのサウスエンドで殺された女の人のところにあったものだっていう可能性が高いんじゃない?」
「あ、そうでした」
エレンはようやく自分が何を調べていたのかを思い出した。
シシーがくすりと笑う。
そのとき、外からドアが叩かれて、嬉しそうな声でメイドが告げにきた。
「お嬢様がた、ビスケットが焼けましたよ――!」
タビー特製の焼き立てビスケットは大層美味しかった。
きつね色に焼けた表面はサクサクのカリカリで、真っ白な内側はふんわりとした湿気を帯びている。バターを挟むと金色に蕩け、気泡のなかにしみ込んでいく。その上からさらに黄金色の蜂蜜を垂らしながら、エレンは深い満足のため息をついた。
「最高ね」
「でしょ?」と、シシーが得意そうに応じる。「ねえエレン、これからどうするつもり?」
「とりあえず、あなたの教えてくれたことをみなタメシスの警部補に報せるわ」
「あの花の見張りは? 私が続けていい?」
「いえ、それは必要ない。――この村のどこかに隠れ魔術師が潜んでいるとして、あの花を採取するなら、自分では赴いていないと思うから。『怠惰な恋の花』は上古の繊細な植物だから人間には採取できないの」
「なら、使い魔に摘ませているってこと?」
「あるいは契約魔にね。わたくしの予想では空気精霊か風乙女だと思う」
「どうして?」
「さっきも話した通り、あの森は極めて土と水の息吹が濃いの。傍のあの小湖水が水妖の小世界に通じていることはサラが言うには間違いないみたいだし、森自体にも、地上に残ったまま眠っている地侏儒か泉乙女がいるのは確実だと思う。そういった領域で、同じ性の魔をうごかすのは難しいの。だから動けるのは焔か風――でも、焔の性の魔だと、花を摘むのはちょっと難しいでしょ? だから消去法で風ってわけ」
「へえー―」と、シシーが感心する。「じゃ、そっちの見張りはエレンが?」
「ええ。どうにか何か考えます」
「私は何をすれば?」
「しばらくじっとしていて」
「了解。リネンに刺繍でもしています。ところでサラって誰?」
「ああ、折角だから紹介するわ」
エレンは掌を広げて呼んだ。
「サラ、出てきて頂戴。新しい友達ができたの」
途端、淡い金色の光が立ち上り、赤々と輝く小さな火蜥蜴が現れた。
「うわあ」
シシーが目を瞠る。「綺麗―-」
「お若い貴婦人よ、お褒めに預かって光栄の至り」
「え、しゃべるの!?」
「然様。実はしゃべるのじゃ」と、紳士的な火蜥蜴は不本意そうに応じた。