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第八章 ビスケットが焼けるまでに 2

 前庭では鶏が飼われていた。

 玄関の前に柊が植わっている。


 呼び鈴の紐を引っ張ると、ガラン、ガランとカウベルみたいな音が響いて、痩せた小さなしわくちゃのメイドが現れ、胡乱そうに訊ねてきた。

「どちらさまですか?」

「ミス・エリザベスの新しい家庭教師(ガヴァネス)です。ミス・シシーのお見舞いに参りました」

「ああ、それではあなたさまが!」

 メイドはぱっと顔を輝かせ、今しがたとは打って変わった親切さで屋内に迎え入れてくれた。

「どうぞこちらでお待ちください。今二階に報せて参りますから」

 シシーはすぐに現れた。

 エレンを見るなり嬉しそうに笑い、自室へ来るようにと促す。

「タビー、まずは熱いお茶をお願い。それから出来立てのビスケットも出してさしあげて。あなたが作るのはこの村で一番美味しいんだから」

「はいはいお任せくださいな」

 小さなキッチンメイドが得意そうに応えて台所へ引っ込んでゆく。

 エレンはシシーに先導されて狭い黒ずんだ階段をあがった。



 シシーの部屋にも暖炉があってよく火が燃えていた。

 ベッドと衣装棚と四角い小さなテーブル。

 白塗りの化粧台の前に三脚のスツールが一脚だけある。

「どうぞ坐って」

 シシーはエレンにスツールを勧め、自分はベッドの端に腰掛けた。ちょうどそのとき外からドアがノックされ、メイドがお茶を運んできた。

「さあさ、どうぞお嬢様がた。ビスケットはもうじきできますからねえ」

 嬉しそうに告げてそそくさと戻ってゆく。

 足音が遠ざかりきったところで、シシーがお茶を注ぎながら苦笑ぎみに言った。

「心配しないで。ビスケットはまだ当分できないはずだから」

「焼きあがるまでゆっくりと内緒話ができるってわけね?」

 菫の花を描いた厚手の白い陶器の茶碗を受け取りながら応じると、シシーは得意そうに頷いた。



「--それで、改めて話の続きなのだけれど」と、シシーがお茶を一口すすってから切り出す。「私に訊きたいことって?」

「ああ」

 エレンは微かな緊張を感じた。

 シシーは随分しっかりして見えるが、やはりまだ若い世間知らずの娘だ。タメシスの場末の町で起こった血腥い殺人事件の話など聞かせていいものだろうか?

 そこまで考えたところでエレンはハッとした。

 あの忌々しいストライヴァー警部も、もしかしたらこんな種類の逡巡を感じていたのかもしれない。


「エレン、どうしたの?」

 シシーが心配そうに訊ねてくる。


 エレンは腹を決めた。

 やはりこの()は知るべきだ。


「実は、半月ほど前、タメシス市域のサウスエンドで、あまり品の良くない仕事をしている若い女性が殺される事件があったの」

「殺人事件? それが私たちと何か関わりがあるの?」

「あるかもしれない――と、わたくしは思っています。その事件の被害者が、まるで財産家の若い後継ぎが持たされているかのような、魅了魔術(チャーム)よけの本物の護符(タリスマン)を持っていたの」

 護符という言葉を口にするなり、シシーの顔が明らかにこわばるのが分かった。

 茶碗をもつ手が微かに震えている。

 エレンは声を潜めて訊ねた。

「――何か思い当たる節が?」

 シシーの手が大きく震えた。

 重たげな茶碗が今にも落ちてしまいそうだ。

 エレンは慌てて自分のお茶をテーブルに置くと、床に膝をつき、シシーの茶碗の底に左手を添えてやった。

 途端、シシーが我に返る。

「だめよエレン、この部屋そんなにきちんと掃除はしていないの。スカートが汚れちゃう」

「いいの。これは仕事着だから。どうせエリザベスお嬢様に泥団子をぶつけられているんだし」

「あの子そんなことしたの? 本当に小さな悪魔なんだから――」

 シシーは顔をくしゃっと歪めて笑い、次の瞬間、眦からポロポロと大粒の涙を零した。


「――私ね、あの子が好きだった。ジョンのことも大好きだった。クルーニーご夫妻も好きだったし、ヘスターもグラハム夫婦も好きだった。だから、ジョンがミス・キャサリンを好きになったと聞いたときは、この世の終わりみたいな気がしたの」

「分かるわ」

 エレンは床に膝をついたまま、うなだれてしまったシシーの頭をそっと撫でた。

 シシーが肩を震わせてしゃくりあげる。


「だから私は疑ったの。誰かがジョンに違法の魔術をかけているんじゃないかって。そうして森を捜していたら、あの花を見つけたの」

「『怠惰な恋の花』を? ――深紅の三色スミレの効能についてはどこで知ったの?」

「お父様の蔵書から。さっき話したでしょ? お父様はたぶん本当は魔術なんか使えないの。だけど、きっと昔は魔術師に憬れていたんでしょうね」と、シシーが指先で涙を拭ってくすりと笑う。

 もう激しい感情が落ち着いたようだ。

 エレンはほっとしてシシーから離れた。


「私はあの花を見つけて、誰かがジョンに魅了魔術(チャーム)をかけているんだと確信した。でも、それが誰だか分からなかった。だから、ジョンにちゃんとした護符を持たせようと思ったの」

「ちゃんとしたって、じゃ、ミスター・ジョンはそれまで魅了魔術よけの護符を持ってはいなかったの?」

「持ってはいたのよ。うちのお父様が作ったまがい物をね」と、シシーが肩を竦める。「私とジョンはかなり若いころからお互いを好きだったから、クルーニーご夫妻もそういう点ではあんまり心配していなかったみたいなの」

「なるほどね。じゃあ、あなたはどうやって『本物』を手にいれようとしたの?」

 訊ねるなりシシーは口ごもったが、すぐにきっと眉を吊り上げ、決心を固めたような顔で応えた。


「チャールズに頼んだの」



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