第一章 謎の護符 2
室内は外と同じほど寒かった。
エレンは思わず昔馴染みの火蜥蜴を召喚したくなったが、たぶん死体の保存のためなのだろうと思い直した。
寒々しい室内にもう三人の警官がいる。
みなエレンを見るなり一様に目を瞠ってぎょっとした顔をする。
この反応はいつものことだ。
エレンは特に気にせず、奥の壁際に据えられたベッドの上を見やった。
そこには全裸の若い女が一人、喉を真一文字に切り裂かれて仰向けになっていた。
シーツに冷えた赤黒い血がしみ込んで、赤い巻き毛が枕に広がっている。
諮問魔術師を勤め始めてそろそろ一年半、事件現場は多少見慣れてきたつもりだが、これはなかなか凄惨だ。
「――これが被害者ですか」
エレンは動揺を隠して定型句を口にした。
「ええ、これが被害者です」
内心の動揺を見透かしたのか、警部が何となく勝ち誇ったように応じる。「流れ者の娼婦のようでしてね、身元はまったく分かりません」
「刃物を使っておりますし、人間の仕業ではあるようですね」
「その程度は私らだって分かりますよ」
「身に着けていたものは?」
「床に散らばっていました。どれも特徴の少ない古着でしたが、ひとつだけ、珍しい品がありましてね――おいクリス、お嬢さんに見せてやれ」
だからお嬢さんはやめろと、とエレンは内心でだけ抗議した。
ニーダム警部補が差し出してきたのは、証拠品を一時保管するために使っているらしい厚紙製の小箱だった。中に鮮やかな碧色のペンダントが入っている。
材質はトルコ石のようだ。
表面に金色で複雑な紋様が描いてある。
「--これは、魅了魔術よけの護符ですか?」
「ええ、一見そう見えるんですがね――」と、警部が渋面を拵える。
魅了魔術は何であれこの連合王国では昔から法で禁じられているが、財産家の一人娘や一人息子はあっちこっちで違法の魔術をかけられる危険があるため、結婚するまではこの種の護符を身に着けていることが多い。
「しかし、本物の護符なんぞを場末の娼婦が身に着けているはずもないでしょう?」
「まあそうでしょうね」と、エレンも同意した。「すると、わたくしが今回呼ばれたのは、この護符の真贋を確かめるためですか?」
「ええ。ま、そういうことです。どうです? やっぱりまがい物ですか?」
警部が期待を込めて訊ねてくる。
その気持ちはよく分かるとエレンは思った。
ここ、サウスエンドは、アルビオン&カレドニア連合王国の首都たるタメシスのなかでももっとも品下れる街区だ。その安宿で殺されていた娼婦の身元が分からなくても警視庁の名折れにはならないだろうが、万が一にもこの護符が本物だったら、殺人事件にどこかの財産家のお坊ちゃんが関わっているかもしれないのだ。
「やはり偽物ですよね?」
警部が重ねて訊ねる。
エレンは護符を右手に乗せ、左手を上にかざした。
途端、碧い石がカッと鮮やかな瑠璃色の閃光を発したかと思うと、淡い金色の微光が溢れ始めた。
これは単純な阻害反応だ。
エレン自身の身に宿る魔力を注ぎ込んだ結果、石の内部に宿っている誰か別人の魔力が侵入を阻害したために、エレンの魔力が淡金の微光に変じて外へと排出されているのだ。
「おおー―」
観衆が声をあげる。
門外漢には光るとは揺れるとか音がするとか、分かりやすい反応の受けがいいのだ――と、エレンはこの一年半でようやく学びつつある。
「――本物のようですね」
あなたには残念ながら、とエレンは心の中でだけ付け加えた。
警部はあからさまに嫌そうな顔をした。
「で、どうなんですお嬢さん、あんたの言う通りそいつが本物だったとして、魔術師組合のほうで、出所はすぐに割り出せそうですか?」
「どうでしょう――」
エレンは考えながら答えた。
魔術師たちはおのおのに固有の魔力を持っている。
それぞれはみな似て非なる力だ。
今しがた護符から放たれたあの鮮やかな瑠璃色――光に変じたとき、真夏の日差しにラピスラズリを融かしたようなあんな鮮明な色調をとる魔力の持ち主は、少なくともエレンの知り合いの範囲内にはいない。
それはあまり表立った行動はしていないということだ。
一見して強力だと分かる魔力の持ち主が、公的にはあまり存在を知られていないとなると、一番可能性が高いのは上流階級の家の個人雇いだ。
そこまで推理したところで、エレンは渋々ながら認めた。
「――仮にどこかのお屋敷の専属の魔術師の制作だった場合、組合を通じて把握するのは難しいかもしれません」
「じゃ、出所は分からないと?」
「分かるか分からないか、これから調べてみますよ。市内ブルックゲート通り三番地のギルドハウスへ向かいます。辻馬車を頼めますか?」
「おいクリス、お嬢さんを送ってやれ! 念のためずっとお傍にいとけよ!」
警部が不機嫌さを丸出しにして命じた。若い警部補が申し訳なさそうに頭を下げてくる。
エレンも無言で苦笑した。
働くっていうのは全く辛いものだ。