第七章 蝶の導き 3
声は微かに震えていた。
緊張しきっているようだ。
両手をあげたまま恐る恐る振り向くと、くぼ地を囲む木々のあいだに、全く知らない若い娘が立っていた。
年頃は二十一、二だろうか? 中背で、やや浅黒いハート形の顔をしている。白地に紺の縦縞のつつましやかなドレスにもったりとした苔緑色のショールを重ね、同じ色のボンネットを被っている。寒さのために赤らんだ頬と真っ赤になった唇。くっきりとした黒い眉を吊り上げたさまがいかにも勝気そうだ。一目で聡明だと分かる濃い茶色の眸に燃えるような怒りと恐怖が宿っている。
その手には本当に短銃が握られていた。
エレンはほっとした。
燧石ではなく凝石を使った魔術式の短銃のようだ。
純粋の焔の性の凝石は、エレンにとっては最も忠実な召使に等しい。たとえこの森の中だろうと容易く従わせられる。
「焔玉髄。燃えて滅しなさい」
声に微細な魔力を籠めて命じるなり、短銃の着火装置のあたりが淡い金色の光を放ったかと思うと、金色を帯びた赤い焔がぱっと燃え上がった。
「きゃ!」
娘が小さく叫んで短銃を投げ捨てる。エレンはそのままの姿勢で呼んだ。
「空気精霊! わが魔力を与える! つむじ風を起こしてその銃をこちらへ!」
濃く爽やかな月桂樹のような香りがぱっと立ち上るのと同時に、耳元でビブラートのかかった声が震える。
――承った女主人……
次の瞬間、エレンの足元で朽ち葉が巻き上がり、小さなつむじ風が、朽ち葉を巻き上げ、月桂樹めいた芳香をまき散らしながら地面を走って短銃を巻き上げるなり、忠実な小さなダックスフントみたいにまた足元へと戻ってきた。
「ご苦労様。ありがとう」
何とか告げ、強烈な目眩を堪えて腰をかがめて短銃を手にとる。
途端に風の勢いが衰え、くるくると落ち葉を回しながら静まっていった。
巻き上げられていた最後の葉の一枚がエレンの黒いブーツのつま先の上へと落ちるさまを、見知らぬ娘が右手を抑えたまま呆然と凝視していた。
エレンは慣れない短銃を手にしたまま眉をよせた。
「火傷をしたの? 加減はしたつもりだったのだけど。見せて。痛むなら癒すから」
近づくなりヒッと喉を鳴らして後ずさってしまう。
「よ、よらないで魔女! あんた何者なの? いつ、どうやってジョンに魅了魔術をかけたの!?」
「え、わたくしが!?」
エレンは愕いた。
同時に目の前の怒りながら慄く若い娘の正体を察した。
「――あなた、もしかしてミス・シシー?」
「教えるはずないでしょう? 魔女に名前なんか!」
娘は――おそらくはシシー・エヴァンスは、果敢に言い返しながらまたしても後ずさった。と、背中が古木の幹に突き当たってしまう。はずみでボンネットが外れて、光沢のある美しい赤褐色の髪が露わになった。三つ編みを編んで巻き付けた可愛らしい髪形が、幼さを残した顔立ちによく似合っている。
「ああ、あなたやっぱりミス・シシーね」と、エレンは怯える年下の娘を宥めるために敢えて笑顔を浮かべながら言った。「ミス・エリザベスの言った通り、まるで桃花心木を磨いたみたいに綺麗な髪だもの」
「……――あの子とそんな話を?」
シシーが戸惑った声で言う。
「ええ」
エレンは頷いて、短銃を相手に差し出した。
「お返しするわ。着火装置の焔玉髄を燃やしちゃったから、残念ながらすぐには使えないけれど」
「あなた――本当に魔法使いなの?」
「見て分からなかった?」
エレンは少なからず心外さにかられて答えた。「わたくしこそ訊きたいのだけれど、あなたがミス・シシーだとしたら、一体ここで何をしているの? ミスター・ジョンとの婚約を破棄されて以来、ずっと御病気で家に閉じこもっていると聞いていたのに」
「家に閉じこもっていたのは本当。でも病気のせいじゃない」と、シシーは顔を悔しそうに顔を歪めて答えた。「そこの花を見張るためよ――正確には、そこの花を摘みに来るかもしれない隠れた魔法使いが誰なのかを見張るため。牧師館の屋根裏部屋からは、この森へ入る入口がよく見えるの」
「そのためにずっと家に? もう何か月も一人で?」
エレンは呆れながら感嘆した。「あなた男ならきっといい警察官になれるわ! ああもう信じられない、こんな有能な人材が含まれる人類の半分を無駄にしているなんて!」
「なにその感想」と、シシーがくすりと笑う。「本当にあなた何者? パーシー一族に頼まれてジョンに怪しい薬を盛っている悪い魔女って風には、全然見えないんだけど」
「そうね。わたくしは善い魔女です」と、エレンは自信を持って答えた。「パーシー一族とも何の関係もありません」
「なら何でここに?」
「警視庁の捜査のため――いえ、今はまだ個人的な調査の段階かしらね?」答えながらエレンは腹を決めた。この娘は信頼できる。
「間違いなく関係者ではあるのだから、あなたには打ち明けておきます。わたくしはエレン・ディグビー。タメシス警視庁任命の諮問魔術師です」