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第七章 蝶の導き 1

「儂はなエレン、そなたの健康が気がかりなのじゃ」と、小さな火蜥蜴(サラマンダー)は肩でがみがみ言った。「気がかりだから寝付くまで傍で見ていたいが、儂がいるとそなたはますます弱る。ジレンマじゃ。やはりこういうときのためにこそ人間の伴侶をだな――」

「はいはいはいはい分かりました」と、エレンは雑に答えた。「どう考えたってその話は今することじゃないでしょ? わたくしはいい子でベッドに入りますから、あなたも輝かしい火蜥蜴(サラマンダー)の小世界で穏やかな眠りに戻ってくださいな」

空気精霊(エアリアル)が戻るのを待って窓を開けたまま一晩中起きているでないぞ? そんなことをしたら肺炎になる。中身に空気(エアー)しか詰まっていないあの虚ろな能無しであれ、戻って女主人(ミストレス)が寝ていたら窓枠を揺らして起こす程度の知恵は回るはずじゃからな? きちんと窓とカーテンを閉め、ベッドに入って夜明けまでぐっすり眠るのだぞ?」

 火蜥蜴は最後までくどくど言いながらエレンの掌ごしにどこかへ沈んでいった。


 途端に室内が寒くなる。

 エレンはぶるっと震えると、口やかましい火蜥蜴に命じられた通り、窓とカーテンを閉めてベッドに潜り込んだ。


 そして夜明け近くに、がたがたなる窓枠の音に起こされた。



 空気精霊(エアリアル)が戻ってきたようだ。

 エレンは慌てて跳び起きると、カーテンを開けて窓を開いた。

 途端に冴えた冷気が流れこんでくる。一緒に殆ど見えないほど淡くなってしまった空気精霊(エアリアル)も滑り込む。



 ――花を見つけた。森の奥。古いオークの根元……



 ビブラートのかかった微かな声が耳元で震える。

 空気精霊はそれきり見えなくなった。

 名残のようにくるくると小さなつむじ風が渦巻く。

 その中心で深紅の花びらが一枚だけ踊っていた。


 エレンはそっと手を伸ばすと、小さな蝶を捕らえるようにそっと手にとった。


 途端、花弁は水気を失い、皴をよせて茶色く乾いてしまった。


「――本物みたいね」

 エレンは思わず呟いた。


 上古、この世にまだ上位精霊(エルフ)たちが存在していた時代の花である『怠惰な恋の花』は死すべき定めの人間の体温には耐えられない。

 これを摘み取ってしぼり汁を抽出するためには、どうしたってある程度の器用さを備えた使役魔か契約魔を使う必要がある。

 


 エレンは完全に萎れた花弁を日記帳のあいだに挟むと、「分離(ディアスポラ)羊皮紙(ヴェラム)を広げてニーダムへの連絡をしたためた。



 ――ミスター・ニーダム。吉報です。クルーニー家の地所の森で、魅了魔術(チャーム)に用いる魔術性の植物を発見しました。深紅の三色スミレ、あるいは『怠惰な恋の花』です。ジョン・クルーニーはこの植物から製する魔術薬を定期的に飲まされている様子です。取り急ぎ報告を。E・ディグビー。



 しばらくまっていてもニーダムからの返事は浮かんでこなかった。

 夜明け前だから当たり前だ。

 エレンは諦めてもう一度ベッドに戻った。

 もうじきにメイドのヘスターがやってきて、洗顔用の熱いお湯と新しい薪を持ってきてくれるだろう。

 まだ少し頭がくらくらする。

 



 ヘスターはお湯と薪を運んだあとで、朝食まで部屋に運んできてくれた。


 薄切りトーストとバターとマーマレード。

 スクランブルエッグとベーコンと焼きマッシュルーム。

 新鮮なミルクをたっぷり入れた熱々の紅茶が銀のポットにいっぱいついている。


 大都市では滅多にありつけない新鮮な食材をどっさり使った素敵にボリュームのある田舎風の朝食だ。

 エレンは嬉しくなった。

 朝食というものはこれでなければいけない。

 温かい美味しい朝食をお腹いっぱい食べると、ずっと続いていた頭痛もだいぶ良くなってくれた。

 エレンは着替えを済ませ、赤みがかった金髪をことさらタイトなシニヨンに結い直しながら自分に活を入れた。


 これからいよいよあの無礼な小童(こわっぱ)との一騎打ちである。

 スカートはいくらでも汚される覚悟はできている。




 気合を入れて子供部屋へ向かったエレンは、室内に入るなり叫びそうになった。


 前庭に面する窓がすべて開いている。


 そして子供がいない!


 まさか落ちたのだろうか?


「--ミス・エリザベス? ミス・エリザベス!?」

 呼びながら窓辺に駆け寄ったとき、いきなり背後から小さな体が体当たりをしてきた。

 エレンは思わず叫びながらも、咄嗟に両手を伸ばして窓枠をつかんだ。


 全身から血の気が引いていく。


「なぁんだ。つまんないの。そのまま落ちちゃえばいいのに」

 背後から小生意気な子供の声が言う。


 エリザベスだ。

 物陰に隠れて、こちらが窓辺に寄るのを待ち受けていたのだ。

 エレンはあまりの恐怖のためにどくどくと高鳴る鼓動が落ち着くのを待ってから、おもむろに振り返るなり、平手でぴしりとエリザベスの頬を叩いた。


 途端、子供がかっと目を見開いて怒鳴る。

「なにするのさ使用人のくせに! お母さまにいいつけてやる!」

「ええお好きになさい!」エレンは万感の怒りを込めて怒鳴った。「あなた、自分が何をしたのか分かっているの!? 今のは殺人未遂です。警視庁に訴えたらあなたは逮捕されます! 一瞬の衝動のために、自分自身と家族すべてと沢山の使用人たちの人生、そのすべてを台無しにするつもり?!」

 両手で肩をつかんで揺さぶりながら叱ると、子供は顔を真っ赤に染め、次の瞬間大声で泣き叫び始めた。

「嫌い、嫌い、嫌い、あんたなんか大っ嫌い! シシーに会いたい! シシーに会わせてよー―!」


 泣きじゃくる子供の姿は傷ましかった。

 おさげに編んだ金髪が乱れ、エプロンドレスのフリル付きの袖が肩からずり落ちている。エレンが思わず直すと、エリザベスは忌々しそうに舌打ちをした。

「--へええ、もうご機嫌取り? お母さまに言いつけられるのはやっぱり怖いんだ?」

「いいえ。それはお好きになさい。あなたのお母さまはあなたよりはるかに良識がありますからね。娘の殺人未遂を咎めたという理由で家庭教師を解雇はしないでしょう」

「じゃ、なんで優しくするのさ」

「あなたが気の毒だから。――ミス・シシーとは、もうずっと会っていないの?」

 顔を覗き込むようにして訪ねると、エリザベスはくしゃっと顔を歪め、また新しい涙を零しながら頷いた。

「ジョンがあんまりひどいことをしたから、シシーは病気になっちゃったんだ。ずっと家に閉じこもって一歩も外に出られないんだ。シシーはきっと私のことだって嫌いになっちゃったに決まっている……」


 エリザベスが肩を震わせて泣いていた。

 エレンは思わず小さな体をぎゅっと抱きしめていた。

「大丈夫、大丈夫。そんなに泣かないの。ミス・シシーは優しい善い人だったのでしょう?」

「そうだよ。本当の姉さんみたいだった」

「だったらきっと本当に御病気で寝ているだけよ。良くなったらきっとすぐまた来てくれますよ」

「本当?」

「ええ。きっとね。だから今日のお勉強を始めましょう。ミス・シシーはどんなふうに教えてくださっていたの?」

 エリザベスはしばらくうつむいていたが、そのうちにぽつぽつと話し始めた。

 エレンは家庭教師としては全くの素人である。ここはひとつ有難く、なにからなにまでミス・シシーのやり方を踏襲させて貰うことにした。


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