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第五章 三本柳邸 3

 エリザベスお嬢様は一目で分かる野蛮な小童(こわっぱ)だったが、邸の居間で待ち受けていた母親のマライア・クルーニー夫人は幸い常識人らしく、エレンを一目見るなりとび色の目を見開き、

「――そのスカートの泥は、やはりエリザベスが?」

 と、申し訳なさそうに言った。

 眉を寄せ、心底すまなそうな顔をしている。

 エレンは一瞬迷ってから答えた。

「ええ奥様」


 するとマライアは深いため息をついた。

「申し訳ありませんね。必ず洗濯させます。もしも汚れが残るようでしたら新しい品を仕立てさせますから」

 だいぶ疲労困憊している。

 エレンはこの頃覚えた仕事用の笑顔を拵えて応じた。

「奥様、どうかお気になさらず。もともと仕事用に仕立てたスーツですから。汚れることは想定済みです。もちろん替えもございますので」

 精一杯にこにこしながら告げると、気の毒な母親はようやくほっとしたように笑うと、慌ててエレンに椅子をすすめた。

「どうぞ坐ってくださいな。ミス・テルマ・ディグビーでしたね?」

「ええ」

 エレンは微かな緊張を覚えながら応えた。

 〈テルマ・ディグビー〉は今回の潜入捜査のために用意した偽名だ。セルカークのディグビー家の遠縁という設定にしてある。

「お仕事はいつごろから?」

「一年半ほどになります。クリスマス休暇の前までは北部で勤めていました。これが前の雇先からの推薦状です」

 サー・フレデリックの縁戚の実在する北部の準男爵の署名入りの推薦状をどきどきしながら差し出す。これを手に入れるための条件は、捜査にあたって知った事実を組合にもすべて報告すること――だ。


 王宮に出入りするお貴族様のなかでは最下層であろう準男爵(バロネット)と騎士は、地方のアッパーミドルのなかでは図抜けた特権階級だ。

 マライアは途端に目を瞠り、つくづくと署名を確かめてから満足そうに頷いた。

「愕いたこと。あなたのような方が来てくださるなんて。――念のためにお聞きするけど、あなたルテチア語は?」

〈日常会話程度でしたら〉

 問われた言語で返答するとマライアの笑みが深くなった。

「ピアノは?」

「多少は」

「ちょっと弾いてみてくださいな」

 パチパチと林檎の薪の燃える暖炉の傍らに小型のピアノが据えてある。

 エレンは蓋を開けると、指になじんだ古風なメヌエットの一節を弾いた。

 マライアが満足そうに頷く。

「結構です。ミス・ディグビー、もし引き受けてくださるなら、わたくしどもの娘をよろしくお願いします」

「ええ奥様。喜んで。契約はひとまず聖母被昇天の祝日までにいたしますか?」

 最も近い四半期支払日(クォーター)を口にすると、マライアの笑みはますます深くなった。

「ええ。ひとまずはそうしましょう。あなた、本当にしっかりとお仕事をなさっているのね。安心しました」

 エレンは誇らしさを感じた。

 職種で嘘はついているものの、一年半しっかり仕事をしていることは事実だ。




「ところでミス・ディグビー」と、契約書に署名したあとで、マライアが興味深そうに訊ねてくる。

「あなた、セルカークのディグビー家の遠縁なのですよね?」

「え、ええ」

 エレンは用心深く応えた。


 やはり疑われているのだろうか――と、内心で身構えたとき、マライアが声を潜めて訊ねてきた。

「ねえ、セルカークのディグビー家のミス・エレンとかいうお嬢さんがタメシスにお一人で何かの事務所(オフィス)を構えているっていうのは本当のお話なの?」

「は、はい。本当でございます」

 エレンは恐る恐る答えた。

 すると奥方は眉を顰め、白磁のカップを片手にほーっと長いため息をついた。「ご両親はよくお許しになったものねえ」

 わたくしもそう思います、とエレンは心の中でだけ応じた。



「ではミス・ディグビー、あなたのお部屋は二階の東の一番端の湖水の側にしましょう」

 奥方が愛想よくいい、卓上のベルを鳴らして執事を呼ぶ。

「ミスター・グラハム、ミス・ディグビーの荷物を東の部屋に運んでさしあげて。今後、彼女のお世話はヘスターに任せます」

「承りました」

 いかにも執事らしい見た目の執事が恭しく頭をさげ、エレンのトランクを持ち上げ、

「ミス・ディグビー、どうぞこちらへ」

 と、促してきた。

 エレンはほっとした。


 ともかくも第一関門は突破だ。


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