第一章 謎の護符 1
「どうもすみませんミス・ディグビー。あなたのような方をこんな場所にお呼びして」
王都タメシスの警視庁、通称カレドニアン・ヤードの若き警部補クリストファー・ニーダムは、その日何度目になるのか分からない詫び言を口にしながら、サウスエンドの安宿の二階へあがるせまっ苦しい階段を登っていった。
「いいえミスター・ニーダム、どうかお気になさらず。こちらも仕事でございますから」
詫びられた当のミス・エレン・ディグビーは、冷ややかだと思われがちな整いすぎた顔に精いっぱい儀礼的な笑顔を拵えながら、これもその日幾度目になるのか分からない答えを返した。
エレンの外見は、実際この下町の安宿ではとてつもなく浮いていた。
年頃は二十六、七――真面目に働いているために実は結構結婚の遅い労働者階級の娘ならいざしらず、一見してエレンが属すると分かるミドルクラスの令嬢としてはそろそろ「若いお嬢さん」とは呼びにくくなりそうな年だ。
背丈はすらっと高く、肌は青白いほど白く、赤みを帯びた金髪をきっちりとしたシニヨンに結い、地味だが仕立てのよい白い絹のブラウスに黒い細身のジャケットと揃いのスカートを合わせて、アーミン毛皮の縁取りのあるたっぷりとした黒いコートを羽織って、古びているが最上級だと一目で分かるこげ茶色の革の小型のスーツケースを手にしている。
装身具は襟元のカメオのブローチと、シニヨンの根元を飾る真珠の櫛だけだ。
その外見はぱっと見たところ、上流階級の邸に住み込む品の良い家庭教師といった風情だ。
二、三歳年下のニーダム警部補が、まるで本物の貴婦人でも相手にするように恭しく対応したくなるのも理の当然である。
宿の二階の廊下は階段と同じほど狭かった。右手に五つのドアが並んでいる。
真ん中のひとつの前に、チャコールグレーのコート姿の中年男が立っている。ずんぐりむっくりした小型の樽みたいな小男である。
「ストライヴァー警部!」と、ニーダムが声をかける。「諮問魔術師どのをお連れしました!」
「おお助かった、先生一つ頼みますよーー」
気さくに言いながらエレンに顔を向けるなり、警部は硬直した。
「――ミス・ディグビー?」
「はい」と、エレンは頑張って愛想よく笑った。「お久しぶりですストライヴァー警部」
本当は全く覚えていないが、一年半前に独り立ちして市内ドロワー通り331番地に念願の事務所を構えるにあたって、いいかい可愛いエレン、君の実力は最高だし中身も本当は優しいんだから仕事相手には極力愛想よく! と父母兄姉一族郎党に言い含められているのだ。
警部は半分禿げた頭のてっぺんまで真っ赤にしながら小刻みに幾度も頷き、一転して怒りの形相でニーダムを睨みつけた。
「おいクリス、お前何のつもりだ。どうしてこんな事件にこのお嬢さんを呼んできちまうんだ?」
「いやだって、ちょうどお手が空いているっていうから――」
「だからってお前、適材適所っていうものがあるだろうが!」
警部は悲痛な声で叫び、吃驚して立ち尽くしたままのエレンを見やって、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「ミス・ディグビー、折角おいでいただいて申し訳ないかぎりですが、この事件現場はあなたむきじゃありません。こんな現場をあんたみたいなお嬢さんのお目にかけたなんて知れたら、警視総監が御親族がたから決闘を申し込まれちまいますよ。今日はどうぞ、このままお帰りになってください」
丁重ながらも有無を言わさぬ命令口調である。
エレンはむっとした。
「お言葉ながら警部、わたくしは警視庁から任命された正規の諮問魔術師ですよ? 経験的にも技量的にも一警部に命令される理由はありません」
「しかしねお嬢さん」
「そのお嬢さんというのもやめなさい。ミス・ディグビー、あるいは魔術師殿と」
「分かりましたよミス・マギステル。それじゃお好きになさい」
警部がふてくされたように応じて、ようやく室内に通してくれた。