第4話 フリードが残してくれたもの
クルシェが自宅に帰ったのは、昼を過ぎてからだった。
昨日の晩から戦いと逃亡を続けていたため、肉体の隅々まで疲労が駆け巡っているようだ。だが、疲れていても睡魔は遠巻きにクルシェを見ているだけで、近寄ってくる気配はなかった。
部屋の中央にある長椅子に腰かけ、横の窓から空を眺める。クルシェは溜め息を吐いた。自分の重く淀んだ胸中と対処的に、晩秋の空は青く澄んでいて。
ごめん、フリード。仇は討てなかった。
声にはならない思いがクルシェのなかに零れた。
本当なら殺すはずだった自分を見逃し、育ててくれたフリード。一緒にいた時間は決して長くはなかったが、かけがえのない存在だった。
考えてみれば、自分は今回の依頼で先走り過ぎたのかもしれない。フリードを殺した相手への憎しみでこの依頼を請け、ソウイチとソナマナンを巻き込んでしまった。
これでクルシェはフリードだけでなく、ソウイチとソナマナンまで九紫美に害されてしまったのだ。ただ、その責任は自身の実力を過信していたクルシェにもある。
クルシェは敵を甘く見ていたのではない。それ以上に〈月猟会〉の実力が高かっただけだった。フリードを殺害した張本人の九紫美だけでなく、昨夜相見えて手も足も出なかったハチロウもいる。
何より、〈別離にさよなら亭〉に九紫美とハチロウが同時に現れたのはクオンの采配によるところが大きい。クオンも部下に守られているだけの無能な大将ではないようだった。
クルシェが〈月猟会〉に勝てる要素は無い。だが、このまま捕らわれたソウイチを見捨てる選択はクルシェにできない。クルシェはソウイチを助けに行くことを決心していたが、その結末まで見通せるようだった。
クルシェは間違いなく殺される。
それは仕方がないこととしても、運が悪ければソウイチも見せしめとして命を奪われるだろう。たとえ助かっても、五体満足というわけにはいかない。
クルシェの憎しみに起因する争いに巻き込まれて傷つけられるソウイチが哀れだった。どうにかしてソウイチだけは無事に助け出したい。
その願いも、ソナマナンまでが意識不明になったことで果たせなくなった。クルシェ単独ではできることは大幅に限られる。
ごめん、ソウイチ。ごめん、ソナマナン。
それにしても、最初は邪魔だと思っていたあの二人が失われそうになった途端に覚えた虚無感はどうしたことか。
クルシェは掌から愛用する死期視を取り出した。大振りの刃は、窓から差し込む陽光を弾き返して部屋のなかに一本の眩しい光を突き立てた。
クルシェが刃の腹を覗き込むと、そこには弱々しい表情をした少女が映っていた。依頼を請けると決めた夜と同じ少女とは思えなかった。
『みっともない顔をしているわね』刃に映る少女がそう言った気がした。
「しようがないでしょ。私だって自分の不甲斐なさを感じているのよ」
『このまま終わる気なの?』
「そのつもりはないけれど、私の力ではもう無理よ」
『ソウイチが不憫ね』
「私の生命で贖うわ」
『あなたがそう言うのなら、止めはしないわ。でも、あなたはそれで満足なの? 奪われているだけでいいの?』
「もういいわ。私には何も残されていないもの」
クルシェが刃の角度を変えると、少女の顔は消えた。
頼りなげな視線を室内に彷徨わせるクルシェの瞳に映るのは、すべてフリードが残してくれたものばかりだ。そのフリードもいなくなってしまった。
ふと、クルシェは戸棚のなかにあるものに目を止めた。戸棚に収められていたのは、以前ソウイチから借りたまま返し忘れていた手巾だった。
あの夜、心配そうな表情で手巾を差し出したソウイチの姿は忘れられなかった。
それに先ほどソナマナンの手を握った温もりが掌に甦る。
失いかけているが、まだ確かに失っていないものがクルシェにはあるようだった。
クルシェは立ち上がると、窓を押し開いた。
清涼な外気が部屋のなかに流れ込み、室内の澱のような空気を吹き飛ばした。先ほどは忌々しく思えた空の青さが目に染みるようだ。
フリードを失ったことばかりに囚われていて、今目の前にあるかけがえの無いものを見失うところだったのかもしれない。
今度は依頼やフリードの敵討ちでなく、ソウイチを助けるために戦おう。
今ならフリードが殺しをしていた理由が分かる気がする。何かを守るために殺すしかなかったのだ。手段としてそれしかなかっただけで、決して目的ではなかった。
多分フリードは、クルシェが自分以外の世界を憎んでいると思っていたかもしれない。それは半分本当のことだ。
子どもの頃に命を狙われて平静でいられるはずはない。
しかし、殺し屋としてフリードの技術を振るっているのは、その憎悪を他者に向けているのではない。フリードから授かった技術を使うことで、フリードがこの世に存在した証を残したかったからだ。
クルシェは、今あるもののために、フリードの残してくれた力を使うことに決めていた。
「力を貸して、フリード」
静かにクルシェは呟いていた。
……クルシェ、今日は疲れたろう。
身体の使い方がサマになってきたな。この分なら、近くモノになるはずだ。
お前の動きについてこられる人間は多くないだろうが、お前を凌駕する者も少なからず存在する。そういう奴らに遭遇した場合のことも考えておかなくてはな。
まず、刃物を武器とするお前が一番苦慮するのが、拳銃を使う相手だ。それでもクルシェなら充分に対応できる。
ただし、射撃の名手が相手となれば話は別だ。
お前が拳銃をまともに使えるようになるのが、一番手っ取り早いんだがな。
悪かった。そう怒るな。
とにかく、拳銃の名人とはできるだけ敵対しないことだ。もし相対する事態になったら逃げろ。それが最良の対策だ。
俺がお前に戦う術を教えるのは、あくまで自分の身を守るためだ。今後も、それを忘れないでくれ。
一つ俺から言えることは、刃物を使うお前の利点はその魔力だ。どんな銃の名人でも弾切れになれば弾倉を入れ換える必要がある。
それと違って、掌から刃物を取り出せるお前には極端な隙は生じない。一瞬の勝機を見逃さないことだ。
飽きたか? まあ、もう少し我慢しろ。
もしも、接近戦でお前を上回る相手がいたらどうする。お前の特技は全て封じられることになる。考えようによっては、拳銃を相手にするよりも苦労するかもしれん。
この場合の最善の策は何か分かるか?
正解だ。これも戦わないこと。
面と向かって言うのも何だが、お前を凌ぐ体術の使い手など、もはや人間業ではない。そんな化物に勝てるのは、それを超える化物だけだ。
恐らく、尋常な手段では勝つことはできないだろう。奇策を用いるとか、相手の精神を乱すとか、正攻法以外を考えておけ。
俺がこんなに喋るのは珍しいだと? 茶化すな。
随分とつまらなそうにしているが、いずれ役に立つときがくるかもしれん。しっかり聞いていろ。
勿論、そうならないことを祈っているが。
お前のように魔力を持っている者も、俺のような仕事をしていると出会うことがある。俺が魔女と相対したのも再三ではない。
魔女といえども不死身ではないし、銃弾を食らったり刃で刺されたりすれば呆気なく死ぬ。これはお前にも言えることだ、肝に命じろよ。
魔力の効果は個々によって異なるから、一概に同じ対策をしろとは言えない。だが、魔女はどこか自分の魔力には驕りがある。自分の魔力だけは裏切らないという顔をしているとものだ。
その魔力に対する自惚れをつけば、例え相手が魔女でも倒せるかもしれない。
まあ、これで俺の話は終わりだ。
……今日の晩飯の当番はお前だ。さっさと作ってくれよ。
クルシェが目を開くと、すでに部屋のなかには夕闇が満ちていた。
いつの間にか眠ってしまったらしかった。気分が落ち着いてやっと睡魔が訪れたようだ。
夢は、かつてフリードと交わした会話のものだった。フリードの力を借りたいと願ったことで、無意識にあのような夢を見たのだろうか。
クルシェは視野が闇に慣れると、立ち上がって照明を点けた。これから死闘に赴くとは思えない泰然とした心に自分でも驚いていた。
浴場に行って簡単に沐浴を済ませると、髪を乾かしながら鏡に映る自分を見つめた。昼間までそこにいた、消沈した少女の顔は見当たらなかった。
それだけでなく、これまでの冷徹な表情のうちに一筋の温もりが加わったように見える。
〈月猟会〉の示した刻限はもうじきだった。
クルシェは着替えを済ませ玄関の前に立った。フリードと共に住み慣れた部屋を見回す。前を向いてからは、逡巡することなく、クルシェは扉を開けた。
クルシェが覚悟を決めました。復讐ではなくソウイチを助けるために戦うクルシェ。
これまであまり内面を見せなかったクルシェですが、まっすぐな少女のような気がします。
主人公ですが、作者からしても何を考えているか一番分からない人です。
クルシェは合理的に考える人物のため「何を」「どうしたいか」は分かるのですが、感情的な面を表に出さないため、「今何を考えているだろ」と作者も思うことが多いですね。
この回ではかなり率直にクルシェの思いが吐露されていて、自分を犠牲にしてでもソウイチを守りたいとも思うやさしい子なんだなあ、と初めて分かりました。
それにしては普段の扱いが雑過ぎる気もしますが、好意の裏返しなんでしょうね、きっと。
フリードのお化けも出てきました。
ここでフリードの言っていたことが役に立つのでしょうか。




