第9話 窮地と暗転と
九紫美の長髪がたなびいたとき、すでにクルシェは九紫美とすれ違いざまに死期視を振るっていた。
九紫美の魔力がなければ首の半ばまで切断されていたはずの、強烈な斬撃はやはり空を切っている。
攻撃が無効化されていることに頓着することもなく、クルシェは刃に憤怒を宿らせて攻勢をかけ続ける。
そのとき、ソナマナンの張りつめた声がクルシェの耳を打った。
「どうして、あなたがここに!?」
クルシェが我に帰って声のした方に顔を向け、驚愕と絶望がない交ぜになった表情を浮かべる。
立ち尽くすソナマナンの背後にいるのは、クオンの護衛であるハチロウだった。長脇差の刃をソナマナンの首筋に当てている。
九紫美だけでも苦戦しているというのに、ハチロウまで出現してはクオンを倒すどころかクルシェたちが殺されてしまう。
常の冷静さを喪失したクルシェの動きが乱れ、九紫美が的を狙うように銃撃する。辛うじて直撃を避けたクルシェだったが、二発目を回避できる体勢ではなかった。
「残念だったわね。小娘」
九紫美の向ける銃口が生命を飲み込む深淵となってクルシェを照準し、敗北を認めたくない無念がクルシェの面に走った。
「させるかあ‼」
今まで隠れていたソウイチが円卓から飛び出し、その手に握ったものを九紫美へと突き出した。
ソウイチの手元から伸びた光条が顔に当たり、九紫美は怯んで左手を目の前に翳す。
ソウイチが手にしていたのは懐中電灯だった。薄暗い酒場にあっては眩い光源となって九紫美の目を眩惑させる。
ただ動揺したのも寸時のことで、九紫美の撃った弾丸が懐中電灯を破壊する。穴が開いて破片が零れる懐中電灯を持つソウイチに、九紫美が問いを放った。
「どなた?」
「あ、いや、名乗るほどの者では」
「ソウイチだとしたら、ついでに殺すことになっているわ」
「だから、俺の価値って」
後退りして逃げ出そうとしたソウイチの頭部から、銃声とともに鮮血が弾けた。
「ソウイチ!」
自身が撃たれたかのようにクルシェが悲鳴を上げる。
よろめいたソウイチが踏み止まり、頭部に手を当てた。どうやら、弾はソウイチのこめかみを掠めたらしい。出血は多いが傷は深くなさそうだ。
九紫美は目の眩みも治ったようで、次の射撃までは外してくれないだろう。
ソナマナンはハチロウに捕まって動けない。死の足音がクルシェ達に近付いてくるのが聞こえるようだった。
クルシェは決然とした意思を封じ込めた瞳で九紫美を射抜いた。
突如、クルシェはその身を颶風と化してクオンの方へ駆け出した。出遅れた九紫美が振り向いたとき、クルシェの背は遠くにある。
「旦那!」
九紫美の呼びかけよりも速くハチロウは行動を起こしている。ソナマナンに打撃を与えて転倒させると、クルシェの横手から走り寄った。
真正面から迎え撃つのはエンパだ。機関銃を掃射し、二十発の弾丸を二秒で消費する。クルシェの周囲の床や天井が砕け、飛び散った粉末の幕を割って無傷のクルシェが肉薄。
クオンはエンパに頼ろうとせず、懐から拳銃を引き抜いた。その顔には些かの気後れも無い。
弾を装填したエンパが狙いをつけるも、クルシェはもはや眼前に迫っていた。邪魔なエンパを斬り払おうと身構えたクルシェの左側から、ハチロウが踊りかかった。
体勢を崩しながらもクルシェは一刀から逃れる。
「クソ、無茶だ、クルシェ!」
頭を押さえた手から血を溢れさせながらソウイチが叫ぶ。そこへソナマナンが駆けつけてソウイチを支えた。
「何やっているの。今のうちに逃げるのよ」
ソナマナンがソウイチの手を引いて裏口に向かう。
「でも、クルシェを残しては行けないよ!」
「クルシェは私達を逃がすために無理しているのよ。いつまでもここにいたら、クルシェまで逃げ遅れるわ」
釈然としない面持ちで、ソウイチはソナマナンに連れられて裏口から出ていった。
二人の姿が消えたのを視界の隅で見届け、クルシェは自身も逃走に移る。
だが、それを簡単に許す面子ではない。正面からはハチロウが攻め立て、少しでもクルシェの動きに遅滞が生まれれば九紫美が銃弾を見舞う。
「命がけで仲間を逃がすとは見上げたものだ。だが、それだけにお嬢ちゃんを生かしておくわけにはいかない」
クルシェは応じる余力が無く、その口唇を呼吸のためだけに使っている。
「旦那、早く斬ってしまって!」
「それができない程度には手強い相手でな」
ハチロウは無駄口を叩く余裕があるものの、逃げ回るクルシェを捉えきれないようだ。しかし、この戦いが長引けばクルシェに限界が訪れることは必至だった。
九紫美が苛立ちを湛えた黒い瞳をクルシェに注いでいたとき、突然その視野が暗幕に包まれたように閉ざされる。
酒場の照明が落ちたことに、その場の全員が思い至ったのは数瞬後だった。
「な、何? 停電っすか⁉」
「さっき逃げたあいつらじゃないか? 裏口の方に配電盤があったろう」
「クオン! 落ち着いている場合じゃないわ、もっと慌てて!」
「影嬢、色々と逆では?」
クルシェの気配が消失していることに〈月猟会〉の一同が気付いたのは、もっと後のことだった。
ソウイチとソナマナンは夜のなかを敗走していた。
ソウイチの負傷は路地裏で応急処置を施したが、包帯はすぐさま深紅色に滲む。出血量を考えると病院に向かう必要があった。
ただし、この辺はまだ〈月猟会〉の縄張りであるため、人気の多い通りを避けて移動しなければならない。
「ソウイチ、もう少しだから頑張るのよ。しっかり歩いて、ほら」
「ああ」
ソナマナンが急かしているのは、早くこの地区を離れたいということもあったが、出血のせいか反応の鈍いソウイチの意識を繋ぎ止めるのも理由だった。
「クルシェは大丈夫かな」
「きっと無事よ。あの暗闇なら逃げるのは容易なこと」
「そうだといいけど」
「ほらほら、自分の心配もしてちょうだい。私達だってまだ安全なわけではないのだから」
ソウイチは頷いてソナマナンの後に続く。
二人は人通りの無い路地を選んで歩いた。人目が少ないと言っても拳銃を持ち歩くわけにはいかず、ソナマナンは拳銃を手にしていない。
ソナマナンは周囲を警戒しながら思考を紡いでいる。
今夜の戦いは、結果として自分達の敗北だろう。ウィロウやコホシュといった〈月猟会〉の貴重な戦力を削ぐことはできたが、目的は果たせなかった。
〈巡回裁判所〉を排除した後、今夜の一件があったことで〈月猟会〉は自分達を完全に敵だと認識したろう。これからは先方から攻撃を仕掛けてくるに違いない。
後手に回る前に決着をつけたかったが、それが失敗した今となっては絶望的な状況であることは疑い無い。
九紫美の魔力を目の当たりにし、クルシェやソナマナンでは勝つことは到底覚束ないことが判明した。もはや自分達の死は確定したようなものだ。
生き延びるためには逃げるしか道はない。
ソウイチを病院に送り届けてから、この街を出ることをソナマナンは決めていた。
「どう? 体調は」
「血が止まらないせいか、疲れちゃったよ」
「そう。私、決して、あなたのことは忘れないわ」
「何つー不吉なことを……」
ソナマナンは微笑している。逃亡することを決めて気持ちに余裕が生じたのだ。
それが油断に繋がった。背後からソウイチに突きつけられている拳銃に気付いたとき、ソナマナンに対応する猶予はなかった。
「ソウイチ!」
ソナマナンがソウイチを突き飛ばした直後、拳銃が火を噴いて暗闇を一瞬だけ白昼の明るさに染め上げる。
俯いたソナマナンの腹部から鮮血が零れ、冷えた路面に深紅の花弁を咲かせた。
ソウイチが咄嗟にソナマナンを支えようとするが、掌を上げて近寄るなという仕草をして押し留める。
外傷によって血を流したということは、ソナマナンにとっては重大な意味を持つ。
続けざまに放たれた銃弾がソナマナンの左胸を貫通。さらに右脇腹が弾丸に食い破られる。たたらを踏んだソナマナンは叫びを出すこともなく仰向けに倒れた。
ソナマナンが咲かせた花は大輪になり、夜闇に白い湯気が立ち上る。
「その女に近寄らない方がいいことよ」
ソウイチは動かないソナマナンを凝然と見詰めていたが、不意に九紫美を振り仰いだ面に激情が溢れていた。
「てめー! よくもソナマナンを!」
ソウイチは雄叫びを発して九紫美に殴りかかる。
九紫美は、思いっきり振り抜かれたソウイチの拳を避けていた。
勢い余ってつんのめっているソウイチの横顔を、怒りに満ちた形相で九紫美は睨んだ。
「静かになさい! この辺はもうウチの縄張り(シマ)じゃないから、まだ殺しはしないわ」
「どうせ殺すんだろ! だったら!」
九紫美が躊躇なく発砲する。右腕の肉を削がれたソウイチが口を閉ざした。
「あなたみたいな雑魚、わざわざ殺すこともないわ。生命だけは助けてあげてもいいのよ」
素直に安堵できないソウイチは九紫美を見返す。
「あのクルシェとかいう小娘を殺すための餌にしてからね」
九紫美から浴びせかけられた言葉が、ソウイチの全身を冷たく押し包んだ。
ソウイチが抵抗できずに九紫美に連れ去られた後に残されたのは、血溜まりに倒れるソナマナンだけだった。
ふと、ソナマナンの指先が僅かに動いた。
薄目を開いたソナマナンはゆっくりと手を懐に入れる。その白い手が取りだしたのは携帯電話だった。
荒い息を口唇から押し出しながら、力を振り絞ってソナマナンは携帯電話を操作した。
やはり今のクルシェでは九紫美には勝てませんでした。
相変わらず九紫美は天然を発揮し、ハチロウから突っ込まれるところが好きです。
クオンはここでも自分が危ないところに行くことで、全戦力を投入するやり方をしています。クオンのこういうところは明晰な人物だなあ、と。
それだけお膳立てしてもらって、クルシェを逃がす護衛陣は何してんだ、という話にもなってしまいますが……。
一応、ハチロウについては後からクルシェを逃がしてしまった理由が分かります。
九紫美はドジっ子だから仕方が無いです。
ソウイチが用意していた懐中電灯がここで役に立つのもお気に入りです。
ソウイチはジョーカー的な立ち位置で、戦闘では役に立たないけれど、こういう意外な働きをする人物として動けているのがいいと思います(自画自賛)。
ここで第3章が終わりとなります。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。




