第8話 これでも怒っているの
酒場の奥に通じる扉からソナマナンが現れ、クルシェは安堵の息を吐く。
「遅かったすね、ソナマナン。何かあったんすか?」
「ちょっと面倒な相手がね。そっちも大変だったみたいじゃない」
ソナマナンはクルシェに目を向ける。
クルシェの額から右頬にかけて一筋の血が線のように流れている。ウィロウの一撃が頭皮を浅く裂いていたのだ。
手巾を持ち歩くようになったクルシェが血を拭き取る。
「これは大した傷ではないから平気よ。だけれど敵は九紫美とハチロウだけだと思っていたのに、まだ強いのがいたなんて。誤算だったわ」
遠くで横たわるウィロウを見やってクルシェが言った。
「でも、今頃は酒場の店主がクオンに連絡を入れているはずよ」
「予定では、ハチロウか九紫美が私たちを始末しに来るのよね。ま、ここの用心棒が全滅したことを知れば、嫌でも二人のどちらかを寄越すしかないわ」
ソナマナンが黒髪を指ですいた。いつもなら光沢のある髪は、埃やら何かの破片で汚れている。ソナマナンは煩わしげに髪を払って椅子に腰かけた。
「でもさ、その二人はべらぼうに強いんだろ? 危なくなったらどうすんだよ」
「大丈夫よ。裏口があるし、そっちには誰もいないから。あ、でも、つまずかないように注意しないと」
「何につまずくんだよ……」
仕事柄、死体は見慣れていると言っても平気なわけではないらしく、ソウイチは死体の少ない端っこに移動しようとした。その服の裾を掴んだクルシェがソウイチの動きを阻む。
「な、何だよ」
「わたしの傍から離れないで」
「きゃー、ヒューヒュー」
口笛を吹くソナマナンの横の壁にクルシェの手から飛んだナイフが突き立ち、首を竦める。
「いつ敵が来るともしれないもの。ソウイチを守れる保証もできないし、離れられたら困るの。分かった?」
「ああ、分かったよ」
ソウイチは素直に頷いた。
クルシェはソウイチを連れて酒場の真ん中近く、表口と裏口が見渡せる場所に陣取った。敵が現れればすぐに対応できる位置だ。
壁際に座るソナマナンの近くには遮蔽物があり、酒場の入口から見えづらい。ソナマナンだって何も考えずに座っているわけではないのだ。
クルシェは注意深く入口のドアを見守る。
ふと、入り口から目を離してまた戻したとき、そこに黒い人影が佇んでいた。
思考を省略してクルシェの肉体が反応。
クルシェがソウイチに体当たりして、二人がもつれ込むように円卓の影に倒れた。それと同時に、銃声を纏った朱線が二人を追って円卓に食らいつく。
「え、何? 何なの⁉」
異変に気付いたソナマナンが床に伏せて頭を抱える。
クルシェが円卓から顔を出すと、夜の闇が人間の姿を借りて具現化したような、本当に暗い女性が立っている。その手に持つ拳銃が溜息のように紫煙を吐いていた。
「あら、おとなしくしていた方がいいわよ。苦しむ時間が伸びるだけ」
その外見に相応しい沈んだ声音がクルシェに放たれる。
「あなたが九紫美?」
「ええ」
これから殺す相手に興味もないのか、最小限の言葉で九紫美が答えた。
九紫美が立つ横の表口が開き、新たな人物が現れる。
浅葱色の瞳と黒い頭髪の優男。
もう一人、小柄な体格で、ソバカスのある素朴な顔立ちの女性だった。
「クオン。なぜ車から出てきたの」
「そう言うなよ、九紫美。俺がいたって邪魔にはならないだろう」
「それは、そうだけれど」
九紫美は困ったように眉を寄せると、エンパに目を向けた。
「エンパ、若頭をお守りするのよ」
「了解っす」
エンパは機関銃を構えてクオンの前に移動し、酒場の一画に倒れ伏すウィロウを目にして激情を露わにした。
「ウィロウ! クソ! あたしの舎弟を、よくもやりやがって……!」
「そこにいなさい。殺すのは私がやるわ」
「……は、はい」
エンパをその場に留めると、九紫美はクルシェに歩み寄ってきた。急ぐこともない自然な歩き方だ。
「ソウイチ、ここに隠れていて」
「お、おう」
クルシェは円卓から飛び出すと、即座に二本のナイフを投擲する。
九紫美は動じずにナイフを射撃で撃ち落とした。魔力頼りの人物ではないということだ。
クルシェは愛用する死期視を提げて九紫美に突撃する。九紫美の拳銃が吐き出した銃弾の間隙を縫い、クルシェが疾走。
クルシェの左手から放たれたナイフが文字通り九紫美の胸を貫いた。だが、その刃は九紫美の肉体を素通りして背後の空間を走っていく。
前もってリヒャルトから九紫美の魔力を聞いていたこともあり、クルシェは面食らうこともなく相手の懐に入った。右手の刃を振るって九紫美の首筋や腹部を薙ぎ払うも、手応えは無い。
連続するクルシェの斬撃は水を切るように九紫美の身体を通り抜けるだけだった。
九紫美は余裕の表情でクルシェを照準した。続けざまに朱の火箭が宙を焼いたが、クルシェの柔肌が傷つくことは無い。
お互いに無傷であっても、面に焦燥の色が濃いクルシェと、必殺の一撃を狙いすます九紫美とではその意味合いが大きく異なる。
「私の魔力について教えてあげようかしら」
九紫美はその場に立ったまま語り出す。
「私の〈逆照らし〉は自身の肉体を影のように実体の無いものにし、あらゆる物体を透過できる力よ。銃弾も刃物も、魔力を発現した私を傷つけられる物体はこの世に存在しない……」
〈逆照らし〉の適用範囲は自身の『影』である。衣服や手にする拳銃なども九紫美の影に含まれるため、彼女の肉体同様に透過能力が適用される。
拳銃から放たれた弾丸は『影』から分離していることで、実体として敵を殺傷できる。
九紫美は防御を考える必要はなく、一方的に相手を攻撃できるのだ。
「あなたでは、私は殺せないわ。お分かり? 小娘」
「自分の魔力を教えるなんて、ずいぶんと余裕ね」
「その方が絶望を感じるのではなくて?」
どれだけ攻撃を積み重ねても通用しないクルシェは後方に飛び退くと、刃を顔の前に構えて息を吐く。肩が上下しているのは疲労だけのせいではなかった。
「本当に厄介な魔力ね。あなたに教えてほしいことがあるの」
「何かしら?」
「あなたが殺した人間に、フリードは含まれているの?」
九紫美が小首を傾げて問い返す。
「心当たりが多くて、名前だけ聞いても分からないわね。どういう人なの」
「半年くらい前、サクラノ街二丁目の裏通りで死んだ、三十代後半の大男よ」
「ああ……」
九紫美は薄ら笑って朱唇を開いた。
「あのデクノボウがそうだというなら、確かに殺したわ」
「……そう」
養父であるフリードを殺害した張本人が判明したにも関わらず、クルシェの表情は静かだった。
「そのフリードという男、あなたに関係があるの?」
「……私の父親よ」
「あら……」
ゆっくりとクルシェは左手に投擲用の刃を持ち、まだ戦意を衰えさせない光彩を放つ茶色の瞳で九紫美を見据えた。
「私の答えを聞いて怒るのかと思ったけど、随分と冷静なのね」
クルシェがナイフを投げ打った。切っ先は九紫美の眉間を貫通、遥か後方の壁に柄まで突き立ち、クオンが背筋を冷やしたように顔を向けた。
「これでも怒っているの」
ついにクルシェと九紫美の邂逅です。
九紫美の魔力の詳細についても明かされました。物理攻撃無効の九紫美に対しクルシェは劣勢になっていきます。
本作は二時間の洋画をイメージして書いています。何となく雰囲気が伝わると嬉しいです。




