第4話 涙
〈白鴉屋〉にはすでに営業の準備をしていたスカイエがおり、三人を出迎えた。
それぞれが時間を潰しがてら準備を行う。
ソウイチもいつもの背嚢に荷物を詰めるため、酒場の奥の部屋に入って行った。
ソナマナンは一人離れたテーブルでネイルの手入れをしている。
カウンター席でスカイエに向き合うクルシェは手持無沙汰で時間を過ごしていた。
「今夜、勝負をかける気なのね」
「うん。上手くいけば、クオンを始末できるはずだから」
スカイエの問いかけを受けて、クルシェは率直に応じた。
「あなたはもちろんだけど、ソウイチやソナマナンも無事に帰ってきてほしいのよ」
「三人で帰ってこられるように努力するわ」
「特にソウイチはあなたのことを気遣っているみたいだから」
「そうかな?」
クルシェが疑問の声を上げると、スカイエは意味ありげな笑みを浮かべる。
そういう表情をしたスカイエには何を聞いても無駄だということは分かっているので、クルシェはそれ以上を問いかけることはしない。
ソウイチがクルシェを気遣っている。あの軽薄な人物がそのようなことを意識しているのか、とも思う。
ただ、あのことを知っているのはソウイチだけだったはずだ。
——あれは半年ほど前、フリードが亡くなった直後。クルシェが〈白鴉屋〉を訪れ、フリードの最期の様子を聞いた夜だった。
フリードは路地裏で数発の弾丸を浴び、血の海に倒れているのを発見された。仕事の途中で恐らく標的の護衛に殺害されたのだろうと、スカイエは語った。
そのときは依頼の詳細を伏せてスカイエは話しており、ほとんど具体的な話は聞けなかった。
養父の無残な末期を伝えられたクルシェは、黙って蒸留酒の牛乳割りを呑んでいた。
殺し屋という職業柄フリードは拠点を変えることが多かったため、クルシェはほとんどスカイエに育てられていた。そのため子どもの頃からクルシェは〈白鴉屋〉に入り浸っていた。さすがに酒を嗜むようになったのは、ごく最近だが。
ソウイチが〈白鴉屋〉で働き始めたのは最近で、そのときはクルシェやフリードについては養父としてしか知らされていなかったはずだ。
クルシェがソウイチと親しく会話をするようになったのは、殺し屋になってからのことだった。
「クルシェ、大丈夫? 私が言うのも何だけど、呑み過ぎはよくないわ」
「平気。まだ全然酔っていないもの」
「あら、お酒の強いのはフリード譲りかしら」
「そうかも。ごちそうさま。美味しかったわ」
そう言って、クルシェは酔った様子も見せずに店を出る。
何となく自宅に帰る前に公園に寄ろうと考えた。
公園に着いたクルシェは池の畔に腰かけると、夜空を見上げた。
この空のようにクルシェはフリードを見上げることが多かった。フリードが大男のせいで子どもの頃はクルシェが首を大きく傾けて話しかける必要があった。
クルシェに話しかけられると、フリードは無表情でかがみ込みんでクルシェに視線を合わせてくれた。
無口だったが、行動で気遣いを示してくれる男だった。
「フリード……」
無意識に呟いたクルシェは、いつの間にか視界がぼやけていることに気付く。
やっぱり飲み過ぎていたのだ。今まで抑えていた感情がせき止められず、嗚咽となって体外に漏れ出て行くようだった。
悲しくないなんて、あるはずがなかった。
会話も少なかったし、一緒にいた時間は普通の親子に比べて短かったかもしれない。だが、クルシェにとってフリードは……。
「あのー、大丈夫っすか?」
いきなり声をかけられ、クルシェは思わず身構えた。
どうやら、クルシェの鳴き声を耳にした誰かが声をかけてきたらしい。
「クルシェ?」
その男に名前を呼ばれたことに驚き、クルシェは涙を拭って相手を見返す。
月明りに照らされて心配そうにこちらを見ているのは、ソウイチだった。
誤魔化そうと口を開きかけたクルシェだったが、また涙の膜が溢れて袖で顔を押さえる。
「手巾くらい持っていないのか?」
ソウイチが呆れたように手巾を差し出す。クルシェは無言でそれを受け取って目を拭き、しかも勢いよく鼻までかんだ。
クルシェは自分が汚した手巾とソウイチの顔に何度か視線を往復させる。そして手巾を持つ手をソウイチに突き出した。
「いらん!」
「洗って返すから」
そう言ってクルシェは手巾をしまうと、ソウイチに背を向ける。
「あ、おい! クルシェ、大丈夫なのか? 送っていこうか」
「平気よ。放っておいて。それと、他言しないでね」
「鼻水のこと?」
「バカ」
足早にクルシェはその場を遠ざかる。それ以降、クルシェは度を超す酒の飲み方はしなくなった——。
「ほら。心当たりでもあるんじゃないの」
スカイエに声をかけられ、クルシェは意識を戻す。
「さあ。どうかな」
糊塗するように呟いて、クルシェは視線を甜茶に落とした。
そこへ奥の部屋から戻ってきたソウイチがクルシェの隣に腰かける。
「ソウイチ、遅かったわね」
「色々と準備しないといけなかったからな。懐中電灯とか」
「そんなもの、いつ使うのよ」
クルシェが呆れていると、ソナマナンが二人に近寄ってきていた。
「あんまり遅いんで一人で逃げたかと思ったじゃないの」
「そんなわけ無いっしょ。俺を見くびらんでくださいよ」
ソウイチが笑った。
「さあて、私も拳銃の手入れでもしようかしら」
そう言うと、今度はソナマナンが奥の部屋へと姿を消していく。
「ソナマナンの方が逃げるかもしれないわね」
その顔に刃のような冷徹な感情を浮かべてクルシェが呟く。その表情でクルシェが冗談を言ったのではないとソウイチは理解したようだ。
「そんなこと言うなよ。ソナマナンはあんなだけど、信用できるだろ」
「でも、ソナマナンは私と違ってこの依頼にこだわりは無いわ。本当に危なくなったら、自分だけ逃げてもおかしくはない」
「そんな……」
二の句が継げないソウイチの言葉を引き取るように、スカイエが口を開いた。
「私もソナマナンは信用できると思うわよ」
「スカイエは、ソナマナンのことを評価しているわね」
「当然よ。ソナマナンは裏社会でも令名を持つ人物ですもの」
「そんなに凄い人なの」
スカイエが頷く。
「ソナマナンの魔力は知っているでしょう。彼女の体液に触れた者を死滅させるという〈艶毒〉のこと」
「ええ。その効果を見たことはないけど」
「本当は体液に触れても即座に毒が回るわけではなく、ソナマナンが魔力を発動させて体液を毒に変質させる必要があるの」
「それは初耳」
「……この前、ソナマナンが言っていたわ。彼女の魔力を知っていて、気軽に触れてくれるのはクルシェとソウイチだけだって。あなたたちにとっては些細なことかもしれないけど、ソナマナンは感謝しているみたいよ」
その魔力を恐れてソナマナンに触れようとする人間はいないし、ましてや自ら彼女に近づく者は存在しない。
クルシェは彼女の体液に触れなければいいと割り切っているからだが、多分ソウイチは深く考えていないだけのはずだ。
「だから、ソナマナンは二人のために頑張ってくれると思うわ」
ソナマナンがクルシェのために本気で協力してくれるというのなら、卑劣だが実用的な方法も実行できなくはない。
標的のクオンが男性なのだから、ソナマナンの方がこの依頼に向いている。
別に親しい仲にならなくても、クオンが外出したときに近寄って体液を一滴つけるだけで済むはずだ。
もちろん、ソナマナンもそのことを自覚しているはずだが、クルシェの意思に任せているのだ。
相手はフリードを返り討ちにしている強敵だ。ハチロウや九紫美がクオンを護衛しているだろうし、運良くクオンを殺害したとして、ソナマナンが逃げ延びる目算は極めて低い。
ソナマナンにクオンを殺害させるのは、いわば彼女を捨て石にするに等しいのだ。
クルシェはそこまで考えて、ソナマナンを利用する方法は選ばなかった。依頼を達成するためとはいえ、誰かを犠牲にする必要はないとクルシェは思っている。
そのとき、扉が開いてソナマナンが顔を出した。
「どうしたの、みんな? 私がいなくて寂しかった?」
ソナマナンの言葉に反応してやるほどの親切心のある者はおらず、肩を落としながらソナマナンが椅子に座った。
クルシェとソウイチしか知らないやりとりです。クルシェがソウイチに対して他の人とは別の印象を抱いている理由かもしれません。
ソウイチも粗雑に見えて意外といいところあるやんけ、みたいな。
元々のソウイチの評価が低かったせいもあるでしょうけれど。
鼻水の辺りはあれですね。クルシェも結構ボケたがりだということが分かる、個人的には好きなシーンです。




