#9.夜明け
夜が明けると、ジェリコは重い腰を上げてアヤジとエメを探す準備を始めた。
まずは色々とごちゃごちゃした頭を覚ますために顔を洗うことにした。ラ・メールを出て右に曲がれば脇に井戸がある。ジェリコは毎日そこで顔を洗っていた。
苔むした石造りの井戸からはうっすらと冷気が漂い、朝の澄んだ空気と相まって気持ちを落ち着かせてくれる。数度深呼吸した後、傍らの桶を井戸の中へ落とした。
透明の冷たい水を汲むと、思わず頭から被りたい衝動にかられたが、さすがにそれはまずいか、と踏みとどまった。
ジェリコは大人しく桶から水をすくって顔を洗った。きんきんに冷えた水が、痛いほど顔に沁みる。
「意外だな。君は朝が早いのか」
背後から聞き覚えのある声がした。妙に偉そうで、自信満々で、そして不吉な声色。
胸のわだかまりが巨大化し、何かを叫びたくなる喉をジェリコは唾ごと飲みくだす。そして顔を叩くようにして水を弾くと、ジェリコは勢いよく後ろを振り向いた。視線の先には昨日と同じ服装のアヤジが立っていた。ちなみにエメはいない。
ジェリコは皮肉たっぷりの顔で言葉を返した。
「そちらこそ。探す手間が省けましたよ」
「と、いうことは旅に出る決意はもうできたのかな」
「ええ。このままベルガモに残って周りに迷惑を掛けるよりかはましですから」
「そうか。ふふっ、そうか」
何がおかしいのか、ジェリコの言葉にアヤジは一度嘲笑を浮かべた。頭にきたジェリコはぎろりとアヤジを睨みつける。
「いや、すまん。君のような年頃の男が周りの人間に迷惑なんて考えるのが不思議でな。なるほど君は妙にできた人間らしい。面白い」
貶しているのか褒めているのか分からないが、とりあえず腹を立てていていいだろうとジェリコは判断した。ジェリコは「そうですか」とぶっきらぼうに答えると、桶の水を井戸に戻した。
「それで、今すぐにでも旅に出られるのか?」
その言葉に、ジェリコは思わず体が固まってしまった。
ベルガモから離れ、どこぞの馬の骨とも知らない二人と旅に出る。
思い返すたびに感じるが、本当に信じられない現実だった。自分はそんなに今まで悪いことをしてきたのだろうか、と因果応報を考えてしまう。だが考えれば考えるほど仕返しされるようなことをしてきてはいない。この不運はどう考えても仕組まれたものとしかいいようが無かった。
硬直しているジェリコに、アヤジは再び声をかける。
「ふむ、今すぐには出られないか。まぁそれもよかろう。俺も昨日は少々単刀直入すぎたと反省している。それに周りの人間にはまだ何も話していないのだろう?今まで世話をしてくれた人たちに礼も何もせず無断で家を出るのは不忠者というやつだ。そんな男と旅をするのはご免だな」
ジェリコの心中を見透かしたように喋り続けるアヤジを見つめ返すと、その目は予想外に真剣そのものだった。
水のように澄んでいながらも冷徹な目。覚悟がまだ甘いジェリコを諫めるような瞳をしていた。絶対に裏切らないと昨晩も言っていたが、こと信義に関してアヤジは非常に厳しい人間なのかもしれない。
アヤジはいつまでもジェリコが目を見つめているのが鬱陶しくなったのか、目を閉じぐるりと背を向けると、横顔で口を開いた。
「夜にまた来る。それまでに準備をすべて済ませておけ」
ではな、と最後に付け加えアヤジは一人雑踏を歩いて行く。
その頑強な後姿は頼りがいがありそうで、とても力強く見えた。彼なら大抵のものは守れそうだと思う。ジェリコを必ず守るといった言葉は本当に信じても良さそうだ。
しかし、その勇ましい姿はそれらが張りぼてに見えるほど非常に寂しくもあった。あの逞しさは寂しさを紛らわすため、乗り越えるために手に入れたような、なんとも形容しがたい虚しさがある。
もしやこの旅を最もやりたくないのは話を持ちかけてきたアヤジ自身ではないのか。ふとそんなことを思ってしまった。
もちろん理由なんてものは無い。いつもの直感である。アヤジもジェリコのように他人に言いたくない過去を引きずっている気がした。まぁ怪しい儀式を信じている辺り、まともな人生を送っているとは思えないが。
「……ふぅ」
アヤジの姿が見えなくなると、ようやくジェリコは我に返った。動物のように頭を振って雑念を消し去る。あんな一方的に不幸な知らせを押し付けてきた人間をまともに信じるなんておかしい。ジェリコはそこまでお人好しではないし、疑う知恵を持っている。
だが、それは自分の勝手な考えではないのか。昨日は気が動転してまともに物事を考えられなかったが、先ほどの哀しげな背中を見る限り、アヤジはジェリコの不幸を喜ぶためにこの話を伝えに来たわけではなさそうである。
もしかすると、アヤジの本質は非常に人間臭いものなのかもしれない。皮肉な口調と態度で隠そうとしているが、それは自分の身を置く場所がそうせざるを得ないからなのではないか。
アヤジがいつからこんな裏の世界にいるのか知らないが、その期間がもし長いものであれば今まで意識的にしてきた行動がいつの間にか無意識にやってしまうこともあるだろう。アヤジのあの態度は、その長年積み重なった暗い歴史の澱のようなものなのかもしれない。
もちろん、これはあくまで想像に過ぎない。本当のところは本人しか分からないだろう。
しかしあの後姿と横顔はなぜかジェリコの頭にこびりついていた。本当ならすぐさま忘れたい憎き姿のはずなのだが、ジェリコは後ろ髪を引かれていた。
「それにしても」
通り過ぎていく鳥たちを眺めながらジェリコは思う。これくらいの観察力を常に出せるようにしたいものだ、と。当の人物が去った後に考えてもあまり意味が無い。相変わらず自分の素の対人能力は並以下だとジェリコは痛感した。絵を描くときは自由に時間を調節できるため、普段の物事に対しては必要最低限しか考えを巡らさないのである。重要な人間関係に対してもそれは変わらない。
好奇心旺盛なくせに妙に淡白なところがある自分の性格を、なんとかしたいと思いはするが、実際に行動に移さない自分が少々苛立たしかった。
苦し紛れに朝日を睨んでみるが、世界は何も変わらない。ぶつかってくる眩しさに、ただ自分の暗部が照らされていくだけだ。
そしてジェリコは目を閉じる。知らず体に纏わりついていた街を駆け巡る風に心の淀みを任そうとしても、柔らかい風はジェリコを固く拒絶する。自分のことは自分でしろ、と言うように。
最後に空を見上げてジェリコは悟る。空はすべてを包み込んでいるわけではなかった。空は雲という傍観者を留めておく受け皿に過ぎない。近くにあるようで遥か彼方に存在するその青い空間は、すべてを優しく包んでくれているようで実は泡の膜のように薄っぺらで無感情な存在なのだろう。黒くなったり金色に輝いたりするが、それは文字通り表面上だけの変化なのだ。上っ面。まるで誰かさんのようである。
――そう、世界は誰のためにも回っておらず、ただ世界のため自身に回っている。ジェリコはちっぽけだ。自分たちがちっぽけだと思っている存在のように、ジェリコも等しくちっぽけな存在なのだった。
「そんなこと、前から知っていたさ」
今更そんな事実を噛み締めても意味がない。物心ついたころからわかっている事だから。
だが、今になってそのようなことを考えてしまうのは、やはり自分に課せられた運命の影響だろう。それ以外に考えようがない。ここ数年は非常に安定した生活を送っていたのだ。その温もりに満ちたところから無理やり連れて行かれてしまうという世界の理不尽さに、憤りを感じているのかもしれなかった。
「あらジェリコ、おはよう。昨日は大変だったでしょ?」
隣家の夫人が微笑みながら井戸端へとやってきた。街もそろそろ目を覚ます頃か。いつの間にか時間が経っていたようである。
「おはようございます。毎年のことですけど、やはり昨日も大変でしたよ」
屈託のない笑顔を浮かべながら、ジェリコは彼女に笑い返す。今日もまた、ベルガモは変哲のない一日を過ごそうとしていた。