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#8.換えられた転轍機 part3

深い闇の中、遠くから何かの音が聞こえてくる。ぼそぼそ、ぼそぼそと。それらは次第に形を持ち始め、音は聞いたことの無い女性の声だと気がつく。

「可哀想な子」ある声はそう呟いた。(違う)

「不幸な子」またある声はこう呟いた。(違うんだ)

「運が悪い子」三人目はこのように呟いた。(違うよ)

深淵に反響する声は、ジェリコをあらゆる方向から包み、背筋を撫でられるような気持ち悪さと共に心に沁み込んでくる。 

(やめてくれ)

口を開けて叫んでみても、声にならない限り声は聞こえない。そんなジェリコの苦悩を嘲笑うように無数の声が聞こえてきた。今度は女性だけではなく、色々な人間の声が混じっていた。

汚い子、鬱陶しい子、愚かな子、憐れな子、いい身分の子、さもしい子――。

抵抗する間もなくジェリコに投げられた言葉はあまりにも鋭利過ぎた。薄っぺらい同情、歪んだ、蔑みに彩られた目、嫉妬に満ちた背中、姿形は見えずとも、声の主たちの姿はジェリコの頭の中に浮かび上がる。

なぜ彼らはここまでジェリコを攻撃するのだろうか。いや、きっと攻撃している自覚が無いのだ。だからこんな無造作に、躊躇うこと無く気持ちを表わすのだ。彼らはこちらが聞こえていないと思って、陰で話す。仮面の笑顔に隠して、心で暴露する。ジェリコの友人を騙しても、ジェリコは騙せない。それを知らない彼らはおぞましい感情でまみれた裸をジェリコに見せ付けるのだ。

嘘。

彼らの攻撃に対し、ジェリコはいつの間にか抵抗しなくなっていた。なぜなら意味が無いから。多勢に無勢すぎて為す術が無いのだ。

(もうやだ。あきらめたからやめてよ。なんでこんなに苦しまなくちゃならない。捨てられたわけも知らないで勝手なこと言わないでよ。せめて話を聞いてよ。欲しくも無い憐れみなんてしないでよ。ほっといてよ。もう一人でいいよ。静かに眠らせてよ)

涙目の心の中、声にならずともジェリコは誰よりも声高に叫んでいた。誰も聞かない、聞くことのできない声を上げることで、なんとかジェリコは自我を保っていた。だが、

「いらない子」

耳元ではっきりと囁かれた言葉で、ジェリコは堅く閉ざされた目を見開いた。

「……」

目の前には木製の天井。見慣れた、いつもの光景だ。

辺りには画材のしんみりとした独特の匂いがうっすらと立ち込めており、ここがジェリコの部屋であることを示している。

――嫌な夢を見た。

全身には汗と熱。心には開かれた古傷と、謎の二人組みから理不尽に付けられた新しい傷跡がある。

それにしてもなぜベッドの上で横になっているのか。ジェリコは記憶を辿ってみた。

あの二人組みと話しをしていて気分が悪くなってからの記憶が無い。まさか気を失ったのか。思わず自分の根性の無さに情けなくなった。祭りの日だというのに最悪だ。現実も、夢も。

「……まさか、あの二人組みも夢だった?」

そんなノミのような希望が脳裏をよぎり、反射的に起き上がったが、希望は流れ星のように消えていった。

そんなことあるはずがない。今のジェリコは現実だ。間違いない。ベッドの質感、匂い、手足の感覚、駆け抜けるように躍動する心臓。現実を証明するに足るものはこの場に腐るほどあった。

ジェリコは力なく仰向けに倒れる。ぎしりと反発するベッドがジェリコを受け止めた。

『いらない子』

胸焼けを催す言葉が蘇った。悪夢の記憶は再び心の奥底に押し込めてほとんど覚えていないが、最後に聞いた言葉だけは脳裏にへばりついている様にはっきりと覚えていた。

『君、命を狙われているよ』

次いで現実での最悪の言葉が蘇る。

今やジェリコは命を狙われるほど必要とされている。夢の声は嘘だったようだ。

ざまぁみろ、とくだらない勝利を鼻で笑ってみるが、ふと気づいた。

(いや、正しいか。僕は、結局必要とされていない)

虚しい事実に気づき、ますます落ち込んだジェリコだったが、流石にこれ以上腐っていてもしょうがないと思った。

自分の意識だけは、自分という存在だけはしっかりと地に立たせなくてはならない。ジェリコはジェリコなのだ。誰にも否定はさせない。

心の中で気合を入れると少し気が楽になった。これから待ち受けるであろう絶望的な運命をどう乗り越えていくかはまったく分からないが、一生懸命生きるだけだ。そう、一生懸命に。あの頃と変わらず、這い上がるように荒波を乗り越えていくのだ。

そうと決まれば不幸の配達人であるアヤジとエメに会わなければならない。今後の方針をしっかりと話さなければ。

正直自分が命を狙われているという実感は未だ無いが、アヤジは嘘をつくような人間ではないと思う。ということはジェリコが狙われているのは事実で、ジェリコを守ってくれるのも事実のはずである。そんな自分の命を守ってくれる者たちと連絡が取れないのは非常にまずい。すでにジェリコの命は危険に曝されている可能性もあるのだ。

自分がどれほど眠っていたか知らないが、外を見るとまだ夜の帳は下りたままだ。街は静かに寝息を立てている。

今度は意識を下の階へ向ける。人の声は聞こえない。店は閉めてしまったようだ。だとするとアヤジとエメはもう帰っているだろう。

仕方が無いので、ジェリコは日が昇るまで待つことにした。こんな時間に外を出歩くのは、例え命が狙われていなくてもあまり良い行動ではない。夜中に街を徘徊する人間というのは、大概ろくな人間ではないからだ。もしそんな連中と鉢合わせてしまったら面倒である。アヤジの言葉から判断すると、ジェリコの命を狙っている『連中』は何人かベルガモに入ってきているはずだ。ならば下手に動かない方がいい。

そういえば、なぜアヤジはジェリコがここで働いていると分かったのか。ベルガモの街は決して小さくは無い。どちらかというと大きいほうだ。アイトラの中でも五本の指に入る大きさを誇っているはずである。まともに探索しようと思えば、二日くらいはかかるだろう。前々から街に入って調査していたのだろうか。

それとも、ジェリコの人相や住所を特定できるような情報が流れているのだろうか。その場合非常に厄介である。ジェリコの命が本当に狙われているのなら、限りなく危険だ。一刻も早くベルガモから離れなければならない。

――ベルガモから、離れる。

その事実に辿り着いた時、ジェリコは妙な寂しさを感じた。

ベルガモでの生活は孤児院の時より短い。だというのに、この街から離れるのはなんだか嫌だった。

ジェリコはベルガモ自体に思い入れはそれほど無い。しかし共に笑いあった人、助けてくれた人、喧嘩した人など、ベルガモでは色々な人達と出会ったせいか思い出が非常に濃いものであった。ここでの生活はジェリコに新しい知識を、世界の広さを教えてくれた。

ジェリコはそんな彼らが好きなのだ。助けてくれた恩返しもしたいということもある。正直ここでの生活はもうしばらく続けていたい。

だが、それは叶わないだろう。このままベルガモにいればジェリコはいずれ殺されるだろうし、何より街の人たちに迷惑をかけてしまう。それだけは命に代えても避けたかった。

故にジェリコは旅立たなければならない。みんなのため。そして何よりジェリコ自身が生きるために。

元々絵の勉強のために旅には出るつもりだったのだ。それが少し早まったと考えれば、多少気が楽ではある。しかし、絵を描く暇がこれから訪れるかどうかは知らないが。

「ふぅ、落ち着かないな」

気が逸っているのだろうか。心がそわそわしている。

常識的に考えて当然の反応ではあるが、ジェリコはもう少し気持ちを落ち着かせたかった。経験上、こういうときは物事を見る視野が狭まっており、正しい判断がくだせないことがある。自分の命運を決めかねているときにそんなあやふやな目で行く先を決めるのは危ないにも程がある。

(何でもいい。絵を描こう)

こういう気持ちがぶれているとき、ジェリコはいつも絵を描いていた。絵を描くことで集中力、発想を広げる能力を取り戻すのだ。今までジェリコの危機を救ってきたのは無意識の判断と仲間の力、そして絵だった。

ジェリコはベッドから降りようと床に足をつけた。

「!」

瞬間、視線の先の暗闇にゆらりと揺らぐものがあった。

どくり、と心臓が一際大きく唸り、全身からどっと汗が吹き出る。

「まさか――」

敵か、という言葉を飲み込み、ジェリコはその揺れているものを凝視した。

そしてその姿を見極めると、違う意味で驚いた。

「ダ、ダニエラ?」

椅子に座っているダニエラは頭を垂れうっすらと寝息を立てていた。彼女が小さな呼吸をする度に金髪がはらりと揺れ、暗闇の中、目が慣れていないときに見れば奇怪な生き物のようにも見える。先ほどはこれに驚いたようだ。

「それにしてもどうして、ダニエラが……」

もう一度ダニエラという言葉を聞いて、ジェリコの脳裏に忘れていた記憶が舞い戻ってきた。

そういえば気を失う寸前、ジェリコを気遣うような声があった気がする。懐かしいようななんともいえない声だったが、まさかあれはダニエラの声だったのか。

ダニエラの声だったと認識した瞬間、ジェリコはいつもの情けなさに襲われた。頼りない男だ、と。

ジェリコは俯きながら深いため息をついた。そして自分をぎりぎりまで看てくれていた恩人をじっと見つめる。

どことなく、ダニエラにしては珍しい疲れ果てた様子が見て取れた。くたっ、とした感じ。いつも毅然ではきはきしているダニエラからは想像もつかない姿だった。

しかし考えてみればそれもそのはずである。朝から用事で外に出て、日が変わってようやく帰ってきたと思ったら今度はジェリコの看病。そんな過重労働、誰でも心身ともにくたびれるだろう。

ダニエラはいつも自分を後回しにする。どれほど自分が疲れていても、人のために力を尽くす。おかげで何度ダニエラに助けられたことか。

そして逆にジェリコがダニエラを助けたことは、いくつあっただろうか。今まで築き上げた様々な思い出が、怒涛のごとく脳内を駆け巡る。一年前、二年前、三年前……。

思い出の濁流に包まれていると、いつしか頬を伝うものが流れていた。触れてみると、濡れていた。記憶の濁流が漏れ出したのだろう。

「ごめん。ダニエラ……」

そんなことを呟きながら、ジェリコはダニエラに頭を下げた。

「男の子がそう簡単に泣いちゃダメでしょ」

突如、予想外の声が耳に飛び込んできた。

はっとして頭を上げると、そこにはダニエラの微笑みがあった。いつもの柔らかい、見る人を安心させるような表情だ。

「体はもう大丈夫?」

瞼をこすりながら尋ねるダニエラを見て、ジェリコは思わず目を逸らしてしまった。そして「もういいよ」と小さく呟く。

ジェリコの言葉にダニエラは一度頷くと、大きなあくびを一つした。

「なら、私は部屋に戻るからね。おやすみ」

「うん、おやすみ――」

ダニエラはゆっくり立ち上がると、ジェリコをもう一度見つめ、そして静かに部屋を出た。

――なぜ何もしないのか。

ジェリコは自分を思い切り殴りたくなった。いつもだ。いつもジェリコは肝心なときに素直になれない。ただ一言、「ありがとう」の言葉すら言えない。

『いらない子』

なるほど納得である。ジェリコのような人に迷惑しかかけない人間は確かに邪魔なだけかもしれない。世界をまたにかける画家になって人々を幸せにするなんて言っている人間が、他人に迷惑をかけてしまったら本末転倒である。なんてバカらしい。情けない。つまらない考えなのだろうか。

「――っ!」

顔面を、一度張り飛ばした。苦痛に歪めた顔は、誰のものだっただろうか。

……今日は、もう寝よう。色々なことが短い間に起き過ぎた。何事も一度に全てを解決しようとするのは得策ではない。少なくともジェリコが今考えていることはすぐに結果が求められるものではないのだ。ならば少しずつ、一歩一歩山を登るように時間をかけて解決するべきだ。落ち着いて、確かな判断の元に導かれる道を選ぶのである。それでいい。少なくとも今は、それでいい。

何とか気持ちを落ち着かせて冷静になると、ジェリコはなんとか床に就いた。心に生まれた黒いわだかまりを背負い込んだままで。

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