#5.はじまりは日々の日常から part5
深夜。町が完全に眠り始めた頃、ジェリコは少し埃臭いベッドに腰掛けていた。
傍らには小さな机があり、借りてきた本やデッサンするときに使う木炭、ナイフなど色々な物が散乱している。
部屋の隅には空き瓶やら筆やらの画材が無造作に固めて置いてあり、その隣には今まで描いてきた絵たちが柱のように積み重ってジェリコを見下ろしている。
そして部屋の中心部にはジェリコの宝ともいうべきイーゼルが、窓から差し込んだ月明かりによってぼんやりと照らされていた。
ジェリコは立ち上がると窓際の方へ歩いた。藍色の空には、ぽっかりと開いた白い穴のように月が浮かんでいる。しばらくの間、無心にその姿を見つめていた。
浩々と輝く満月は、ジェリコの顔を白くする。あの月まで辿り着くには、どれだけの時間と距離が必要なのだろうか。
そんな突飛なことを考えながら、いつか月まで好きな人と歩いて行けたらいいな、などと柄にも無く感傷に浸り、
「綺麗だ」
気づいたら、そう呟いていた。
「あら、ありがとう」
「――!?」ジェリコは心臓が、口から飛び出しそうになった。人間は本当に驚くと、声が出ないものなのだと今更ながら知った。
振り返ると、いつの間に近づいてきたのかダニエラがジェリコの後ろに立っていた。
そして微笑みながら端正な顔をジェリコに近づけてくる。白い光を弾く金髪がさらさらとジェリコの頬を撫で、深い青色の目に魂が吸い込まれそうになる。
「綺麗なのは私?それともお月様?」
一瞬、月が部屋の中に落ちてきたと思った。
声が出ない。体も動かない。空に浮かんでいる月とまったく同じ浩々とした輝きを放つダニエラに対して、まともな答えなんて存在しない。一心同体のものを比較するなんて無理じゃないか。ダニエラはいつも無理難題を押し付ける。本当、こういうことをされるのは困る。
「……そう」
答えに困り果てたジェリコを見かねたダニエラは、仕方が無いとばかりに顔を離した。
青い目から開放されたジェリコは安堵の息を吐きながら、ようやくまともにダニエラを見た。
「ノックぐらいしてよ」
「したわ。六回もね」
ジェリコは無意識に頭を下げていた。完全に自分の不注意である。
「で、何の用?」
ジェリコは話をそらすかのように適当に尋ねた。大方昼間言っていた絵を見に来たのだろう。
ダニエラは近くにあった椅子に腰掛けるとため息を一つ吐いた。そしてジェリコを静かに見据えると、柔らかそうな唇を開いた。
「どうしてアドリアンさんの誘いを断ったの?」
そう来たか。
最初ジェリコとアドリアンの話を聞いていたのか、と思ったが、ジェリコの頭を下げた姿をダニエラが見ていたとしたら、この結論に辿り着くのは当然か。昼間にマドックの話を聞いているのだから、簡単に想像がつく。
ジェリコは窓に寄りかかると目線を合わさずに答えた。
「本物の画家と話をするほど偉くないからさ」
「そういう問題?本当に貪欲に画家を目指しているんなら、本物に会って技術の一つや二つ盗むくらいの気持ちでいるのが普通じゃない?」
随分とダニエラは食いついてくる。なぜだろうか。
「こんな話二度と無いかもしれないっていうのに」
「いいんだよ。僕が決めたことだし、ダニエラには関係ないだろ。僕には僕の目指す絵描きの姿があるんだ。今はそれに向かってがむしゃらに走りたい。そう思っただけだよ」
不満そうな表情を示しているダニエラは、無言でジェリコ見つめた後、
「理由は本当にそれだけ?」
実を言うと理由はそれだけではないのだが、ダニエラに話してもしょうがない事ばかりだ。ジェリコは月を見上げながら「そうだよ」とぽつりと答えた。
「……」
ジェリコの答えにダニエラはうんともすんとも返事をしなかった。ただ無言で、ジェリコを見つめているようだった。
そのまま幾分かの時が過ぎ、月が薄い雲に隠され始めた頃、
「モンツァの友人達が心配なんでしょ?」
唐突にダニエラが口を開いた。
「今フレンソなんかに行ったらしばらくはこっちに帰ってこれないもの。ジェリコ、あなたモンツァに行こうとしているわね」
「……」
ダニエラの頭の良さには本当に感服する。心が読めるのだろうか。
ジェリコは月明かりが消えたと同時にダニエラの方に向いた。ダニエラの青い瞳が、真っ直ぐにジェリコに注がれていた。
「モンツァへ今行くのは危険よ。ジェリコのことだから、一人で行こうとしてるのでしょう?」
そのとおりだった。ジェリコという人間は基本的に人に世話をかけることが好きではない。できるだけ何でも一人でやろうとする。ダニエラはジェリコの性格を完全に把握していそうだった。
「ここはマドックさんにまかせて、ジェリコはいつも通り過ごしておきなさい」
ダニエラは珍しく強い口調で、言葉を結んだ。
「……」
ジェリコは鋭さを増した青い瞳に対抗するように無言で視線を合わせた。まさかこんな夜中にダニエラと睨めっこする羽目になるとは。人生何が起こるかわからない。
猫が睨み合う様に、ジェリコとダニエラは身動き一つせず、互いの顔を見合わせていた。かち、かち、と時計の針の音だけが、部屋の中に響いていた。次第に月明かりも消えてしまい、真っ暗になってしまったが、それでも二人は見つめ合っていた。
「……そう」
先に音をあげたのはダニエラの方だった。彼女は椅子から立ち上がると、ジェリコに背を向けて扉の方へ歩いて行き、
「おやすみなさい」
そう言い残してジェリコが声を掛ける間もなくダニエラは静かに部屋を出て行った。
一人残されたジェリコは、無言でダニエラが座っていた椅子に座った。そして先ほど自分が立っていた場所、窓際の方をぼんやりと眺めた。
――なぜダニエラはジェリコをここまで心配するのか。
そんな疑問が、初めて頭に湧いた。今まで思いもしなかったが、至極当然な疑問である。むしろ今までなぜ考えなかったのかおかしかった。
ジェリコがこの店で働けるようになったのも、ダニエラのおかげだった。住み込みで働かせてくれと頼みに行ったとき、ドメニコとアンナはジェリコを雇うのを渋っていた。能力的には問題が無かったのにもかかわらず、二人はジェリコを拒絶していた。そのときの二人の目は今でも覚えている。二人とも悲しみに満ち満ちているような、最も会いたいのに会いたくない人間に会ってしまったような。ただひたすらに報われない気持ちがその空間に満ち溢れていた。
そんなとき、ダニエラがやってきてジェリコを雇うよう二人を説得してくれたのだ。あくまで冷静にジェリコという人間を見て、雇うに足るかどうか、客観的に判断するようドメニコとアンナに提案したのである。
その結果が今の状態だ。客観的に見れば、ジェリコを雇わぬ要素は皆無だったからだ。
それにジェリコを雇ってから客が以前よりも来るようになったらしい。ダニエラの采配は正しい方向を示していた。
――それにしても、だ。
なぜダニエラはジェリコに固執するのか。いや、固執とまではいかないが、ダニエラは常にジェリコを視野に入れた行動を取っている気がする。
ジェリコを雇うか否かのときも、あのままジェリコを雇わない道もあったのだ。にも拘らず、わざわざ彼女はジェリコを雇うようドメニコとアンナに仕向けのである。ここには何らかの他意があると考えてもいいだろう。
だが、それから先が分からない。単純にジェリコのことを可愛がってくれている可能性もあるし、ダニエラの過去に今日まで引きずってしまうような出来事があったのかもしれない。本人に聞くのが一番手っ取り早いが、そんなことを聞けるわけが無い。
聞くとなればドメニコやアンナか。もしくはベルナンド。彼らに聞けばダニエラの過去についていくらか知ることができるだろう。
「――何を考えてるんだ。僕は」
ジェリコは椅子から立ち上がると、再び窓際へ歩いた。
「人の過去を詮索するなんて、趣味が悪い」
誰にだって知られたくない過去がある。それはジェリコ自身が一番よく分かっている。
ダニエラはダニエラで、ジェリコはジェリコだ。人生は積み木のようなもので、楽しかった過去、悲しかった過去、生きるということはそれらの経験を積み上げていくということだ。
人は忘れることで生きられるというが、過去を完全に忘れることはできない。下の方に行き過ぎた記憶が意識の範疇から外れてしまっただけだ。決して消え去ったわけではない。
いつ、どんなとき、誰に、どうやってその過去を引きずり出されるか分からない。良い過去ならばいいが、二度と思い出したくない過去だって存在する。ダニエラの過去を探るということは、その嫌な過去を知ってしまうことになるかもしれないのだ。そうなると今までどおりダニエラと付き合うことができなくなりそうな気がする。そしてそれ以前に人の過去を知ろうとするなんて、
――趣味が悪い。
雲を退けた月は先ほどのようにまばゆく輝き、ジェリコの顔を照らしていた。
すべて曝け出すように。白く。あらゆるところを。白く。