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#4.はじまりは日々の日常から part4

夕日が瞼を閉じて藍色が世界を包みこんだ頃、ラ・メールは満席になりつつあった。

ベルナンドの予想通りの展開だ。今日はいつもより客が来る時間帯が早く、これからもっと増えそうな雰囲気に満ちている。中にはもう酔いつぶれている者もおり、仲間にからかわれながらも介抱されていた。

ジェリコとダニエラは店の中を縦横に駆け巡り、それぞれが孤軍奮闘していた。注文を受け、厨房に伝達し、料理ができるまでの間にまた注文を受け、料理が完成したら運ぶ。単純な作業だが、仕事量が半端ではない。比率で言えば一対二十くらいである。

ただ、客の大半はスープや酒などの簡単ですぐに運べるものを頼むので楽ではある。だが、中にはそれなりに量も形もしっかしりした料理を頼む客もいる。正直そんな注文を受けたときは殺意に似た気持ちすら沸いてくるが、我慢しなければならない。厨房のベルナンドも、そういった手間のかかる料理の注文を受けたときは涼しい顔を無意識に歪ませている。

最前線のジェリコとダニエラも、客の前では笑顔を絶やさないが、料理や酒を取りに厨房の中へ入った途端、感情を白紙に戻すように真顔になっていた。段々とこれが酷くなると眉間に皺を寄せたり目つきが悪くなったりする。そうでもしないとやってられないのである。

主人のドメニコ曰く、「人件費が嵩張るから今以上雇えない」らしいが、せめてあと一人くらいは雇っても罰は当たらないだろうとジェリコとダニエラは共感していた。雇わないのは、人件費以外の他意があるに違いなかった。

そんな野暮な考えも放り投げ、さきほど注文を受けた人間の顔を思い出しながら額の汗を乱暴に拭い、手に手に料理を持って再び戦場へと向かう。圧倒的不利なこの戦況を覆すことは叶わぬ夢だが、食い止めることはできる。女のダニエラが頑張っているのに負けていられないという気持ちもあるが、ジェリコは己の弱さに打ち負けることがなによりも嫌だった。

「やぁジェリコ。今日も精が出るね」

瀑布のような喧騒の中、突如落ち着いた初老の男性の声がジェリコの耳に滑り込んで来た。

注文を殴り書きした紙を握りしめながら声の方へ目を向けると、画商のアドリアンが一人ブドウ酒を飲んでいた。

ジェリコはアドリアンに近づくと軽く会釈した。

「こんばんはアドリアンさん。ご注文ですか?」

「ふむ、そうだな。ならわしの好物を一ついただこうかな」

アドリアンの好物といえば、この店でも人気の野菜と肉の煮込みスープだ。

ジェリコは常人では読めないような崩れた字で注文を書き留めると、アドリアンから差し出された料金を受け取った。

「かしこまりました。少々お待ちを」

ジェリコは微笑んでいるアドリアンに向かって一礼すると、急いで厨房へ向かった。

ドメニコがいるカウンターの端にある、もはや開け放たれた厨房の扉をくぐると、色々な料理が所狭しと並べられていた。これらはこれから運んでいく料理達である。半数はジェリコが請け負った分で、もう半数はダニエラの分だ。

「客はまだ増えているか」

鬼のような形相で肉と野菜を炒めているベルナンドが歯を食いしばりながら話しかけてきた。

「いえ、だいぶ落ち着いてきました」

「わかった。そっちも負けるなよ」

「はい」

ベルナンドもかなり参っているようだ。たった一人でこなしているのだから無理も無い。ジェリコは左手にブドウ酒を四つ持ち、右手に豆のスープを持って厨房を出た。

すれ違いにダニエラが入ってきたが、とくに挨拶を交わすことなく通り過ぎていく。お互いそんな余裕はもう無い。とにかく少しでも多く注文を消化しなくてはならない。話をするのはその後だ。

ブドウ酒とスープを運び、その後炒め物とブドウ酒三つをやっつけた後、ようやくアドリアンが頼んだ料理を手に取った。

人ごみを掻き分けてアドリアンが座っているテーブルへと向かう。アドリアンは知人らしき男と話しをしていた。

「お待たせしました。豚と野菜の煮込みスープです」

「おう、ご苦労さん」

テーブルの上にスープ置いて去ろうとすると、アドリアンは「少しいいかな」とジェリコを引き止めた。

「?」

ジェリコは次に片付ける仕事を頭の片隅に置きつつ、アドリアンに向かい合った。

アドリアンはスープを一度口にして、

「ジェリコ。実は君の絵に興味を持った画家がいてな。彼に君を紹介したいんだがどうだろう」

「はい?」

アドリアンが何を言っているのか分からなかった。自分の才能に興味を持った画家がいるだと……?

一瞬彼が言っていることに頭がついていかなかったが、昼間マドックが言っていた言葉を思い出し、合点がいった。

「それはどちら様ですか?」

アドリアンはうなずくと、

「ティッツア・ノ・ベゼリオーだ」

アドリアンの言葉に、ジェリコは今度こそ頭が真っ白になった。客で雑多になっている景色は、目眩と共に急激に遠ざかり、この緑色の瞳の奥にはアドリアンの笑みしか映らない。

天啓さながらの言葉は一本の槍となり、ジェリコの体を真っ直ぐに串刺しにして地面と繋げてしまっている。故に体が動かない。まるで石膏像にでもなってしまったようだ。

その凍りついた時を融解したのは、からん、という乾いた音だった。ペンと紙が床に落ちたときの音でジェリコは我に返り、全身から汗が噴き出した。

面白いくらいに動揺しているジェリコを見つめて、アドリアンは話を続けた。

「先日フレンソに行ったときに、面白い絵描きがいるという話をティッツアにしたら随分と興味をもってな。ぜひ一度会ってみたいと言ってきたんだ。どうだい、君にとって悪い話じゃないだろう」

アドリアンは両手を組みその上にあごを置くと、にやりと笑った。厳格な顔に刻まれた皺によって奥に潜む木目色の両眼は隠れていく。

ジェリコはその瞳に吸い込まれるように目を奪われた。研ぎ澄まされ、あらゆるものを穿つような鋭さを秘めているそれは、長年培って得た『観察眼』というものだ。

彼の話は確かにおいしい。むしろ断る要素は皆無に等しいだろう。なにせ本物の画家と対談できるのである。一般人が画家のアトリエに入ることなど普通は出来ないのだ。こんな二度となさそうな話、画家を志しているものなら一も二も無く頷くのが当然だ。

そしてこの話はアドリアンにとってもうまい話だった。うまくいけば、ジェリコは若き画家として世界に飛び立てるかもしれない。ただでさえ厳しい画家の世界で、名のある画家に興味を持たれた若者なんぞいれば、ジェリコの名はその筋で一気に広まるだろう。そしてジェリコの描いた絵を一目見ようとやってくるはずである。そこでアドリアンはその時に生まれる利益を求めるはずだ。

しかし画商が利益を求めることはまったくもって当たり前である。商人はいかに利益を出すかが問題だ。それはジェリコもよく分かる。

だが、個人的にジェリコはそういった私利私欲のための絵描きにはなりたくなかった。青二才がこんなことを考えるのは小賢しいにも程があるのだが、考えてしまうのだから仕方が無い。

ジェリコは気づかない振りをしていたが、今までアドリアンが格安で画材を提供してくれていたのは、将来ジェリコが有名な画家になったときに備えて貸しを作ろうとしていたからである。才能を認めてくれるのは涙が出るほど嬉しいが、それを「金」に結びつけるアドリアンはある部分で大嫌いだった。

そして、そのアドリアンの計画の大きな転換期が今だ。

ここでティッツア氏に会いに行けば、確実にジェリコの名が広まる。うまくいけばそのまま商売に繋がる。すでにある程度の実績もあるのだ。今まで描いてきたジェリコの絵はそれなりの価値が出るに違いない。そうすれば画家としてとてつもなく大きな一歩を踏み出せるだろう。

しかしその瞬間、今まで魂を込めて描いてきた作品が、その辺りに転がっているような俗物に成り下がってしまいそうなのが猛烈に嫌だった。

ジェリコが黙り込んでいると、アドリアンがスープをまた一口飲んだ。

「どうかね。悪い話じゃないと思うが」

おそらくアドリアンはジェリコの胸中を悟っているだろう。その上で誘ってくるのである。そしてアドリアンほど熟練の商人ならば、売れるもの売れないものを見る目が相当肥えているはずだ。そんなアドリアンが誘ってくるのだから、きっと売れるのだろう。ジェリコは。

そんな風に考えた途端、あっさりと結論が出た。そしてその結論を熟考することなく、思いが口から流れ出る。

「すみませんアドリアンさん。僕はまだティッツアさんのように巨大な画家とお話しするほど絵描きとして出来てないと思います。なので、今回は遠慮させてもらいます」

ジェリコは後頭部が見えるくらい頭を下げた。周りの人間から見れば、アドリアンに対して何かしらの粗相をしてしまったと見られるだろう(事実、粗相なのだが)。そうなると場合によっては客に悪い印象を与えることとなり、最終的には店の評判を落とすことにも繋がる。後でドメニコにどやされるかもしれない。

しかしジェリコにも譲れないものがある。空っぽの幼い心が憧れた美しい絵画の世界。自分や他人が望む理想の世界を作り上げることが出来るその素晴らしさに、下賎なものを付与したくは無い。

「ふむ、そうか。本人がそういうなら仕方が無いな」

アドリアンはあっさりと引き下がった。彼は食い下がってくるかと思ったが、予想は外れたようだ。

アドリアンは努めて穏やかな表情で、

「ジェリコはまだ若いからな。これからどんどん成長していくだろう。将来が楽しみだな」

そんなことを言いながら笑った。そしてブドウ酒をぐびりと喉を鳴らして飲み干した。

「ティッツアには伝えておこう。今以上に力をつけてから出直します、とな」

アドリアンは立ち上がるとジェリコの頭をぽすっと叩いた。

「ではな。しっかりと働けよ」

そして磨きぬかれた杖を手に持つと、出口へ向かった。ジェリコはそのピンと張った後姿を見つめながら、やはり勿体無いことをしたかな、と少々悔やんだ。

扉に手をかけたアドリアンは、用は済んだとばかりに外へと足を踏み出しかけ、

「ああそうそう」

――ふと、振り向いた。

「言い忘れていた。良い目をするようになったな、ジェリコ。その調子で腕を磨けよ」

老獪な画商はそういい残し、ラ・メールを後にした。

スープはまだ半分以上残っていて、表面には膜が張り始めていた。


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