#3.はじまりは日々の日常から part3
マドックの店を出た後、魚の鮮度を落さないために一度酒場へ戻った。その後、再び別の材料を買いに行った。
ラ・メールを出るときダニエラがまた付いて来ようとしたが、断固として断った。これから店を開き忙しくなったら嫌でも働かなければならないのである。そのために少しでも体力を温存しておいてもらわなければならない。荷車も帰ってきていたことも相まって、ダニエラは渋々引き下がったのだった。
そして一人で買出し出て、馴染みの店で肉と雑貨を仕入れて酒場に戻ると、地平線に座っている黄金の夕日が眠りかけていた。
荷車を倉庫にしまい、そのまま持てるだけ荷物を持って裏口から店内に入る。
倉庫にある裏口からは短い空間を挟んで厨房に繋がっている。ジェリコは先ほど仕入れた肉を運びに行った。
厨房にはこの店で唯一の料理人であるベルナンドが調理台の前に立ち、小気味良く包丁を操っていた。
元々この厨房はドメニコの妻、アンナの管轄だった。しかし六年前、彼女は事故に遭ってしまい利き手の右手が悪くなった。料理を作れないことはないが、たくさんの料理を素早く作らなければならない酒場の仕事はできなくなってしまったのである。
そんなとき、料理人修行をするために働ける店を探していたベルナンドと出会った。以後、彼はこの店の料理人として働くこととなった。
ジェリコは彼のことを兄のように慕っている。山のような注文をたった一人でこなすという腕もさることながら、なにより冷静で風格のあるその姿を尊敬していた。
だがそんなジェリコの気持ちとは裏腹に、ベルナンドはジェリコのことをあまりよく想っていないようだった。露骨に毛嫌いする様子は微塵も感じさせないが、ジェリコの鋭い勘が警鐘のように知らせていた。彼がなぜそんな風にジェリコを見ているのか理解できなかったが、そういう人間もいるのか、くらいにしか今のジェリコは考えていなかった。
「おかえりジェリコ。お疲れ様だな」
黙々と野菜を刻みながら、ベルナンドが話しかけてきた。低く通る声が狭い厨房に満ちて、全身を声に包まれるようだ。
「いえ、いつものことですから。それよりベルナンドさん、この豚肉はどこに置いておきますか?」
「買いに行ったのは豚だけだったよな?」
「はい」
「なら材料棚に入れられるだけ入れといてくれ。残りは地下でいい。後で処理しとくから」
「分かりました」
ジェリコは片隅にある材料棚の前に立つと、下の段を開いた。棚の中には既に、さきほどジェリコが購入してきた魚が所狭しと並んでいた。
材料棚の大きさはジェリコよりも頭二つ分大きく、四ヵ所に仕切られている。半分より上の段は野菜や果物用、下は魚や肉用である。
「そういえば、ダニエラの具合はどうですか?」
肉を敷き詰めながら、ジェリコはダニエラのことが気になった。一人で買出しに行く前、ダニエラの様子は至って普通に見えたが、働けるほど体力があるのだろうか。さきほどは問題無いだろうとジェリコの勘は判断したが、いつも冴えているわけではない。もし今日無理に働いて熱がぶり返してしまったら、明日は一人で頑張らなければならなくなる。ダニエラの調子に対してジェリコは身内としての心配と職場の同僚としての心配が混在していた。
ベルナンドは包丁を動かす手を止めずに答えた。
「レモン酒を持って行ったときに少し話をしたが、問題はなさそうだ。あいつの体はあいつが一番分かっているだろうし。本当にまずい状況なら自分から言ってくるさ」
「ですよね。ダニエラはしっかりしてますし」
「ああ。それよりお前の体調はどうだ?祭りは明日だが、忙しさは実質今日からみたいなものだろう。客にとって今夜は前夜祭だからな」
ジェリコは微笑みながら材料棚の扉を閉めると、
「大丈夫です。それに忙しい方が楽しいですから」
ジェリコはたくさんの人がごった返し、笑い合いながら酒を飲む姿を見るのが大好きだった。
今日の不幸を肴にし、酒と笑いで明日を迎える彼らの姿を見ていると、昔の自分を思い出すようで心が温かくなるのだ。孤児院ではいつも仲間達と一緒で、寝ても覚めても騒いでいた。
明日はどこへ行こうか。森にある湖で釣りをしようか。街の治安を守るため一日中街の周りや中を歩き回ろうか。自由に生きていたあの頃が本当に懐かしく、愛しかった。
「まぁ、あまり無理をするなよ。ダニエラとお前が倒れたら店が成り立たんからな」
「はい。ベルナンドさんもあまり頑張り過ぎないようにしてくださいね」
「余計なお世話だよ」
微笑むベルナンドを見て、ジェリコは厨房を後にした。