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#26.開戦

 これは夢。他愛も無い、そこかしこに散乱している意思の残滓。ジェリコは間違いなくそう確信していた。

 今ジェリコはあまりにも広大な枯れた大地に立っている。上を見上げると雲一つ無い天空が広がり、その先には黒い未知が羽を広げている。

 夜、なのだろうか。よく分からない。

 いたるところにひび割れが入った乾いた土をそっと掴む。さらぁ、と指の隙間から小さな星が零れ落ちていく。このきらきらと輝く砂粒が、辺りをぼんやりと照らしていた。

 空は暗いが地面は明るい。妙な法則で作られた世界に自分は放り込まれていた。

 繰り返す、これは夢だ。自分が制御できない自分を劇のように観賞していくだけ。ただそれだけのはずなのに、

(いやに、はっきりしている)

 まるで異次元に跳ばされてしまったよう。突然別の世界に瞬間移動してしまったように、妙な現実感、意識の覚醒、そして触感がある。

 ごぅうぅうん……。

 後方から音が響いてきた。地鳴りのような、機械めいた重い音。かなりの距離があるようだ。

 振り返ると、地平線の彼方から風が吹いてきた。しかも、驚いたことに色が付いている。煙に色が付いているといえばいいのか、なんと呼べばいいのか。虹色の極薄の絹のような風とは、さすが夢だというべきか。

 黒い空と枯れた地表の境目から流れてくる虹色の風を纏いながら、ジェリコは風が流れていく方へ誘われていく。

 こんなわけの分からない世界にたった一人であるにも拘らず、ジェリコは恐怖をまったく感じない。それは夢だからなのか、他の理由があるのか、よく分からない。

 ただこの虹色の風が気になって、風の上流へと歩いていく。足も疲れない。息も切れない。やはり夢だ、とジェリコは思った。

 気ままに歩いていると、どうやらここは完全に荒廃した世界だということが分かった。歩けど歩けど灰色の景色。砂と石と小ぶりな岩ばかりが在り、草木や命の気配はまったく感じない。こんな夢を見るのは生まれた初めてである。こんな虚しい夢を見る自分が、なんとも言えない。

 しかし空虚ではあるが、ある種の美しさも感じていた。夜以上に暗く、星の欠片すら見当たらない空と枯渇した地面は、あまりにも両極端で神秘性を感じさせる。

 ごぉぅぅぅん……。

 そして時折響くこの音。必ずジェリコの後ろから響き、どれだけ歩いても同じような響き方をしている。まるでジェリコの後ろをぴったり付いてくるかのように。ただ、その距離は随分と遠いようだが。

 そんな不思議で綺麗で寂しい世界を散歩していると、何者かの姿を見つけた。人型で、白い。今はまだその形が見えるだけで、どんな姿をしているのかは分からない。

 この色々と果てた夢の世界に自分以外の存在がいるのか。そんな興味が身体の奥から瑞々しく湧いてくる。

 遠くに一人で立つその人型は、ジェリコに気づいて居ないようだった。後ろを向いてジェリコに背を向けている。

 ジェリコは臆することなくその謎の人物に近づく。これが現実ならあまりに怪しいこの人物に近づくことは愚か、逃げ出すところだが、今のジェリコには恐怖感というものを知らない。むしろ頭から恐怖という感情だけ削ぎ落とされたような感覚に近い。それにこれは夢だ。この世界で死んでも、実際に死ぬことはないだろう。

 そして段々とシルエットが露になる。白い裸体、華奢で幼い体つき、あれは……、

「リュドリヤ?」

 ジェリコは無意識に呟いていた。間違いなくリュドリヤだ。つい先ほど衝撃的に見せられたあの美しい身体をそう簡単に忘れるわけもないし、ものを観る力はそれなりに養っているつもりだ。

 ジェリコは間近まできても振り向かないリュドリヤに触れようと手を伸ばした。艶かしいその肩に触れるその刹那、

 っささぁ……。

 一瞬にして、砂になった。

「な、これはどういう」

 砂になり、地面と同化したリュドリヤを見下ろしつつ、ジェリコは激しく動揺した。まるでジェリコの手から逃げるように、リュドリヤは砂になった。これは一体何の暗示なのか。

 ジェリコは思わずその場にしゃがみこみ、リュドリヤであった砂山を両手ですくう。砂は当然のようにジェリコの指から流れていき、

「う、うわぁ!」

 ある異物を残した。ジェリコはその異物に驚愕し、尻餅をついた。心臓がばくばくと鳴り、その異物から目を離すことが出来ない。

「め、目玉……」

 なぜ目玉だけ残ったのか、理解できないがこれも夢の影響なのか。

 リュドリヤの色違いの両目は、傷一つ無いガラス玉のように砂の上に転がっている。生々しい血管は無く、白目は象牙の如く、緑目は翡翠の如く、青目は瑠璃の如く、そして黒目は黒曜石の如く。見つめていると段々と目玉という認識から精巧に造られた『宝石』のように見えてきた。

 ジェリコはその二つの宝石を拾う。驚いたことに目玉は硬く、それなりに重さもある。本当に宝石ではないかとジェリコは戸惑った。

 ごぅぅん………………。

 ごぅぅぅん…………。

 ごぅうん……。

 『音』の感覚が近くなってきた。いや、急いできたという感じに近い。まるでジェリコに何かをさせないようにするために。

(おかしな夢だ)

 ジェリコはリュドリヤの両眼をポケットに入れると、『音』から逃げるように風の方へ走った。走る理由なんて無い。何となく走ったほうがいい気がしたからだ。

 ごぅぅううん……。

 音は何度も鳴り響いている。何となく、ジェリコはこの音に監視されている気がしてきた。(それはなぜ)

 走る足に急激に疲労がたまってきた。まるで今まで感じなかった分の疲れをすべてぶつけてきたように。今がその好機だというように、どんどん脚が重たくなっていく。

(リュドリヤの眼を手に入れてから起きたということは)

 ごおおぅぅうん……。

 ――近い!

 まだ距離はあるが、『音』の近づく間隔を考えるといずれ追いつかれる。追いつかれて一体何が起きるのか見当も付かないが、とにかく逃げた方が良いという強迫観念にかられてジェリコは走る。くたびれた両足を叩いて渇を入れつつ、ジェリコは虹の風の中を突き進む。しかし向かい風のせいで走り辛いのがもどかしく、額に汗が浮かび始めた。

 音の狙いは間違いなくリュドリヤの眼だ。なぜそんなものを求めるのか、ジェリコを利用して手に入れようとしたのかまったく分からないが、リュドリヤの眼は誰にも渡したくなかった。  

 ごおおおおおおん……。

 鼓膜を震わせる音が強くなった。鐘の音のような、重苦しい音が疲れた身体にのしかかる。虹の風の出口にはまだ辿り着けない。終わりがまったく見えない。地平線は変わらず横一に広がっており、その境界から虹色が噴出している。

 なぜ自分は『音』から逃げているのか。

 なぜ自分は虹へと向かっているのか。

 なぜ自分はリュドリヤの眼を大切にしているのか。

 すべてに理由が無い。なぜなら夢だからと言えばそれまでだが、ただの夢と言い切るにはあまりにも現実感がありすぎる。

 心臓の脈動、額の汗、苦しげに呼吸する肺、悲鳴を上げる両足、そして自分自身の意識。夢だというのに圧倒的なまでの生命を感じている自分が、不気味すぎる。

 ごおおおおおおおおん!

「あぐっ!」

 真上から聞こえてきた爆音に、ジェリコは思わず耳を押さえた。鼓膜が破けるのではないかと思うほどの音量。苦痛に顔を歪めて、ジェリコはその場にうずくまる。

 ごおおおおおおん!

 ごおおおおおおん!

 ごおおおおおおん!

 爆音は何度も鳴り響き、ジェリコを威嚇する。頭の中にまでがんがんと響く音に耐えながら、ジェリコは空を見上げた。

「!」

 ジェリコは絶句した。空には、巨大な『顔』があった。

「ごおおおおおん!ごおおおおおん!」

 空にぽっかりと浮かんだ顔は何度も叫んでいる。この音はこいつの鳴き声か。

 髭を生やし、黒髪を振り乱した男の生首のようなそれは、血走った眼でジェリコを見据えている。瞬きせず、乾ききって澱んだ瞳はこれでもかと見開かれ、その眼に睨まれただけで寿命が数年縮みそうである。

 隕石のようなその巨顔を睨みつつ、ジェリコは再び立ち上がると走り出す。

「ごおおおおおおん!ごおおおおおおん!」

 『顔』は変わらず鳴き続けている。追いつかれて何かをされるかと思ったが、杞憂だったようである。それにしてもあの顔には驚いた。ジェリコは思い出したように恐怖を感じ始めていた。

 あの顔は、怖い。ただひたすらに怖い。あの顔を見た瞬間、あらゆる意識が顔に吸い込まれた。文字通り我を忘れてしまっていた。今こうして走れているのが不思議なくらいである。

「うぉおおおおおおおおおおん!」

 音から今度は悲鳴のような声に変わった。拷問を受けている時の叫び声のような、思わず耳を押さえたくなる声色だった。どす黒い断末魔のような、血の色を思い浮かべてしまうような、そんな不吉な声。ずっと聞いていると気が狂ってきそうだ。

「ちくしょう、何なんだよこれは!」

 愚痴をこぼしても世界は変わらない。死人の雄たけびが背後から響き、対照的な虹色の風が目の前から流れてくる。身体はいい加減悲鳴をあげ、疲労が苦痛に変化してジェリコの意識を少しずつ食い散らかしていく。

 ジェリコはリュドリヤの瞳を取り出した。『顔』はこれがそんなに欲しいのか。

 瞳を捨てれば顔に追われることもきっとなくなるだろう。しかし、手放したくなかった。

 この世界から抜け出すにはどうすればいいのか。疲労で朦朧とし始めた頭で考える。夢から覚めるときはいつも突然だ。現実と夢が混ざり、その狭間を意識が捉えた瞬間、目が覚める。その瞬間を探すしかない。

 ふと、前方に人影が見えた。今度は誰だ。誰でもいいが起こして欲しい。まさか『顔』の仲間だろうか。

 色々と思案しつつも足はその人影に向かって動く。もはや自分ではどうすることもできない。あの人型に賭けるしかない。

 人型が近づき、その姿がはっきりとしてくる。屈強な身体。黒い雰囲気。寂しげな死神のような風貌。

「アヤジ!」

 ジェリコが叫ぶと同時に、アヤジは振り向いた。焦りの顔。アヤジはジェリコに手を伸ばした。差し出されたその手をジェリコはがっしりと掴む。

「起きろ、ジェリコ!」

 アヤジのその言葉と同時に、異世界はどろりと融けた。

「主よ!大丈夫ですか!」

 リュドリヤの悲鳴じみた声が聞こえる。『顔』が発する爆音に耳をやられた後遺症なのか、膜がかかったように聞こえ辛い。

 視界もぼんやりとしている。意識ははっきりしているが、感覚器官が狂っているせいで状況把握が出来ない。

「とりあえず術は解けたようじゃな。夢に介入する魔術とは、十字教会もえげつない事をする」

「エメ、追っ手はどうだ?――よし、撒いたようだな」

 話しの流れからして十字教会に追われているようである。しかもジェリコは敵の攻撃を受けていたようだ。まさかあの夢がそうなのか。

 ふと、ぼんやりとした世界に光が見え始めた。草の臭い、虫の音、風の音。ヘミングウェイの家ではなく、外にいるようだ。

「あのね、いい加減に起きなさいよ馬鹿!」

 突然怒鳴られ、ようやくジェリコは覚醒した。目の前にはフェリシアの顔がいっぱいに広がっている。

「あ、ご、ごめん」

 ジェリコは頭を振って夢の靄を振り払う。よし、もう大丈夫だ。

「ジェリコ、意識はしっかりしてる?」

 フォレンティーナがジェリコの顔を覗いてきた。深い青い瞳に吸い込まれそうになる。

 ジェリコは無言で頷くと、もう一度頭を振り払って周囲を見回した。

 森。夜。虫の音。静かに流れる風を感じながら、ジェリコは深呼吸した。

「ところでユーリーはどうした?一緒に家を出たはずだが」

「そういえばそうね。あいつまさか教会の手先だったわけ?」

 フェリシアの静かに怒りのこもった声に、ジェリコは「いや、それは無いよ」と答えた。

「ユーリーの話に嘘はなかったよ。だから教会の手先ではないと思う」

「まぁ、あんたがそう言うなら」

 ジェリコは珍しく大人しいフェリシアに驚いた。しかし嘘を聞き分けることが出来る自分の能力を考えれば当然なのかもしれない。ジェリコはほんの少しだけ鼻高々な気分になった。

「まぁこの状況で探すわけにはいかないわね。もともとあたし達の後ろを付きまとっていたようだし、放っておいてもいいんじゃないの」

「そうだな。俺達のことを知られている存在を野放しにするのはまずいが、仕方ないだろう」

「ちょ、ユーリーを見殺しにするつもりなの?」

 ジェリコの驚きの声に、アヤジは冷たい瞳で返してきた。

「ユーリーを探そうとして俺達が見つかったらどうする。あいつが教会の手先ではなくても、これまでの言動を振り返り信頼できる人間だとお前は思っていたか?それにあいつは魔術が使える。一人でこの現状を逃げ出すくらい容易いはずだし、生きていたらまたこちらに来るだろう。仮にあいつが調査団に殺されたとしても、もはや関係ない。あいつは俺達からはぐれた。その現実はもうどうにも変えることは出来ない」

「仲間を見捨てろっていうの?」

「お前は本当に仲間だと思っていたのか?少なくともお前以外の者は思っていないと思うが」

 ジェリコはアヤジの言葉が痛かった。アヤジの言うとおり、ジェリコはユーリーのことを本当に信頼していなかった。だが、そう簡単に諦めるのは人としてどうなのだろう。

「ジェリコ、お前のくだらない偽善に付き合っている暇はない。お前のその態度がすべてだ。死にたくなければ、もっと素直になれ」

 ジェリコは返す言葉が無かった。完全に、見透かされていた。

 一瞬沈黙が訪れたが、話を変えるようにヘミングウェイが呟く。

「しかし不利じゃな。付近に調査団はおらんじゃろうが、下手に動けば見つかる可能性が高いぞ。ジェリコにかけた術もそうじゃが、彼奴らの包囲網を甘く見てはならぬ」

「だがここでずっと手をこまねいているわけにもいかないだろう。ヘミングウェイ、何か術を使えないか?」

「使いたくても使えないのが正直なところじゃ。レメゲトンを開いた時に魔力をほとんど使い果たしてしもうた。リュドリヤとやら、お主の力で打破できぬか?」

「ワルドの三本糸を使えば可能ですが、魔力が足りません。ここはもう強行突破しかないでしょう。それに私がいるかぎり、おそらく調査団という連中は私の魔力を嗅ぎつけてくるでしょう。ならば動き続けるしかありません」

 リュドリヤはそこまで話すとエメを横目で見た。

「エメ――でしたか?あなたの結界で調査団を常時索敵しつつ、移動することを提案します。結局先ほどとやることは一緒ですが」

「どうしようもないか。エメ、今の状況は――」

 ヒュイ!

 短く、そして小さいエメの口笛が闇に響く。小動物の鳴き声のようなその危険信号に、アヤジは目を見開いた。

「複数の人間がこちらに向かっている!行くぞ!」

 言うが早いか、ジェリコとリュドリヤを除いた全員はすぐさま森の中を走り出す。慌てて後を追いかけるジェリコの後ろには、リュドリヤがいる。

 がさりがさりと藪を抜け、夜の闇に染まった草木を振り払いながら走る。仲間の小さく荒い息遣いだけが妙に耳に入る。次第に身体が熱くなり、足に疲れが溜まってくる。なんだか走ってばかりだ。そんなことをジェリコはちらりと思った。それにしても意外にもヘミングウェイが年の割りにしっかり付いてきていることに驚きだった。日々身体を鍛えているのかもしれない。

 時折、エメの口笛が鳴るとアヤジはすぐに方向を変えてまた走り出す。エメの口笛が分からないジェリコにしたら、ただただ右へ左へ引きずり回されているだけな気がしてくる。

 ごぅうううん……。

「うぅ!」

「主よ、どうしたのですか?」

 思わずジェリコは足を止めた。後ろを走っていたリュドリヤに声をかけられ、再び走り出す。

 ジェリコは走りながらリュドリヤに説明した。

 ごぅぅうううん……。

「リュドリヤ、この音、聞こえる?」

「ええ。厭な響きの音ですが、何か」

「夢の中でも同じ音が聞こえたんだ。巨大な顔が僕を追いかけてきて、この鐘の音のような気持ちの悪い音を放っていたんだ」

「巨大な顔……!」

 リュドリヤの顔が一気に強張る。何か知っているのか。

「お前達何を話している。静かにしないか」

 前方からアヤジの野次がとんでくる。

「アヤジ、走っても無駄です。すでに敵の術中に嵌っています」

「何!?」

 驚愕の声と共にアヤジは足を止めた。

「どういうことだ?」

「先ほど主にかけられた術が分かりました。ルドンの偶像という神族が大昔に開発した超広範囲の追跡魔術。調査団という者は、随分と古い魔術を扱えるのですね」

「一体どんな魔術だ。説明してくれ」

「世界の境界を越えて対象を探し出し、常時追尾するような魔術のことです。元々は大罪を犯した人間や魔族を捜し当てるための術です。術者の魔術が切れれば解呪されますが、そうでない限り効果は持続します。今回は夢の中で主を発見し、そのまま付いてきたと考えられます」

「つまり逃げても無駄、ということか。益々まずいな」

「でもここで止まってたら向こうの思う壺でしょ?逃げても無駄ならこんな視界の悪い森の中にいるより開けた場所で向こうを待ち構えてた方がまだマシだわ」

「そうですね。とりあえず森を抜けた方が良いでしょう」

 ごおおぅぅううん。

 またあの音だ。少しずつ、近づいてきている。ジェリコ達は音から逃げるように再び走り出した。

「森を抜けたとしても、一戦交えることになるだろうな」

 前を走るアヤジが呟いた。

「そうじゃな。まったく、こんなことになるのならお主に手を貸すんじゃなかったわい」

 ヘミングウェイが自嘲気味に言った。

「すまないと思っている。だが、俺にはヘミングウェイにしか当てが無かったからな」

「澱んだ目をしていた頃のお前を思い出すわ。いやはや、お前も成長したもんじゃて」

「あんたたち、暢気に会話なんてしてんじゃないわよ」

「おー怖い怖い。最近の若者は短気じゃからのう」

 緊迫した空気を和らげようとしているのか、こういう状況に慣れているのか分からないが、前を走る三人はいつも通りだ。軽く絶望を感じているジェリコにとって、苛立たしいような羨ましいような不思議な気持ちになった。

「ときにジェリコよ。この中でもっとも弱いお前に一つだけ助言をやろう。これから先、お前の力が必要になるときがあるじゃろうからな」

 元気に前を走るヘミングウェイが話しかけてきた。

「今の僕に戦う力なんて無いよ。みんなに守られることしかできない」

「そういうことを考えるからダメなのじゃ。この世にまったく意味のない、必要の無いものなど存在しない。もしあるとすれば、それは無じゃ。自分の可能性をもっと信じろ。自分の本当の価値を出したいのなら、好きとか嫌いじゃなく、一度自分を外から眺めて、自分にしか出来ないことを模索しろ。自分になら出来ることを想像しろ。人間に出来ることは、考えることぐらいしかないからのう」

「いきなりそんなこと言われたって、よく分かんないよ」

「大切なことは望むことじゃ。自分の本当に目指すべき姿を、紛うこと無きその姿を死ぬまで見失わなければ、お前は本物になれる。そのとき、お前はたくさんの人々を救うことが出来るし、守ることができるじゃろう」

 なんでそういうことをこんな時に言うのか。本当に困る。ジェリコは文句を言いたかった。

 だが、ヘミングウェイの言うことはよく分かった。今のジェリコには難しいが、やはり信じることが大切なのだ。目指すべき到達点までの過程の中で、周囲に目移りして寄り道をしまくるのか、惑わされること無くまっすぐ最短距離で向かうのか自分が決めることだが、その到達点を見失わないことが大切なのだ。きっと、それを目指し続けることに人が生きる意味がある。意味が生まれるのだ。やはりヘミングウェイは賢者だ、とジェリコは思った。

「――抜けた!」

 ヘミングウェイの言葉を反芻していると森を抜けた。どうやら下山もしていたらしく、だだっ広い草原に出たようだ。東の空には朝日が薄っすら浮かび上がり、黄昏じみた光が照らされ、いびつな影を落す。

 そしてその日の光に背を向ける形で、逆光の黒い姿で佇む人間が三人。初めてアヤジを視たとき、ジェリコはアヤジのことを死神だと思った。それとまったく同じ気持ちが、再び胸の中を暴れまわっていた。

「待ち伏せ、ね」

 フェリシアが舌打ちする。

「こうなることは予測済みだ。おそらくしばらくしたら後ろからも来るだろう」

 アヤジの声は無機質だが、言葉の端々からぴりぴりしているような気配を感じだ。よく見ると、額に汗が浮かんでいる。あのアヤジがここまで動揺しているとは、よほどの相手に違いない。

「全力で殺り合うしかないでしょう。相手がどんな技を持っているのか知りませんが」

 物騒な言葉を容易く呟くリュドリヤ。まさに悪魔である。

「全員生き残れば御の字じゃな。とりあえず、ジェリコだけは守らなければなるまい」

 言いつつヘミングウェイはちらりとジェリコを見やる。その口元はどこか微笑んでいるように見えた。

「神に背を向ける愚か者共!」

 朗々とした女性の声が小高い丘に響く。

「今ここで死ねェ!」

 そのすぐ後に、真反対の下卑た男の声が響き、あまりの落差に衝撃を受けたジェリコである。

「来るぞ!避けろ!」

 っヒュン――ごがぁぁああ!!

 アヤジに突き飛ばされてジェリコは尻餅をつく。そして虚空を何か赤いものが通り過ぎたかと思うと爆音が森の方から響いた。

「犀角の槍――ルドンの偶像といい、古典魔術が教会という連中は好きなのですね」

「解説はいい、リュドリヤ、お前はジェリコを守れ。エメ、行くぞ。フェリシア、フォレンティーナはジェリコを連れて遠くヘ逃げろ」

「あたし達も戦うわ!」

「お前たちが敵う相手ではない。とっとと行け!」

 怒号にも似たアヤジの指示に文句を言わせる暇の無く、アヤジとエメとヘミングウェイは太陽の方角へ走っていた。日の光に背を向けていた調査団もこちらへ向かってきている。開戦、そんな言葉がジェリコの頭に浮かび上がった。

 すぐさま向こうの方で刃の触れ合う音がし始めた。アヤジはヌイを召喚し、敵の剣を巧みにかわしながら攻撃の隙を窺っている。エメは全身に無数の目を持つ不気味な人型を召喚し、右手のナイフで敵に斬りかかっている。ヘミングウェイは術を使えないと言っていながらも、苦悶の顔を浮かべて魔術を使ったり、何か薬品みたいな物を投げて応戦している。

 敵方も各々魔術らしきものを使ったり、剣を振り回したりして戦っている。女騎士は竿のように長い剣でアヤジの首を狙い、狂気の顔をしている長い髪の男は両手に光る剣――あれも魔術だろうか――を持ち、ヘミングウェイに何度も斬りかかっている。坊主頭の男は目を閉じているにも関わらず杖のようなものでエメのナイフを巧みにいなしていた。

 まさに小さな戦争。容易く命が刈り取られる空間が、すぐ傍で発生していた。

「主よ、行きましょう。追っ手が来ます」

 リュドリヤに手を取られ、引っ張られる。

 ――いや、待ってくれ。何か違う。

 まるで死にに行くかのように調査団へ向かった三人――とくに、アヤジとエメはジェリコの価値に頼って来たのではないか。だが、二人は今死にに行っている。死を覚悟して、勝負を挑みに行っている。幸せを手に入れるために、死にに行く。そんな矛盾、人々の幸せを願うジェリコにとって、見逃せない行為だ。むしろ、見逃してはならない。ここで見逃せば、目指すべき目標が霧に消える。

 ふと、ベルガモでのアヤジの言葉が蘇る。アヤジは言った。「俺とエメも幸せにしてくれるのか」と。いつの間にか、ジェリコは二人の幸せを願っていた。アヤジは嫌いだが、幸せになって欲しい。この気持ちに、嘘は無い。

「だから、ここで、逃げちゃダメなんだ」

 ジェリコはリュドリヤの手を振り払うと、拳を握る。

「ここで僕は、目指すべき道を決めるんだ」

 ヘミングウェイの言葉を思い出す。信じる。自分を信じる。可能性を、信じる。そして、自分の技術を省みる。想像する。今までの経験、知識、世界、すべてを一つにする。

 そして目を閉じて想像し始める。右手には、何かの役に立つだろうと思って持ってきた筆を握っている。

 ――守る。

 願い、想像していることはそれだけ。僕は、僕の中に居る皆を守る。殺させない。死とは究極に孤独なこと。あらゆる夢や思いを無慈悲に食いちぎる、いずれは訪れる恐怖。本来なら緩やかな時の中で訪れる死に、突然無理矢理遭遇させるなんて許せない。最凶の孤独を強要するなんてそんなの酷い。あまりにも酷い。

 孤独の悲しみは身に沁みてよく知っている。そんな自分でも厭なことを、自分の大切な人にさせるなんて、僕は望まない。嫌だ。

 ――だから守る。 

 皆を、護るんだ。護る、護る、護る、護る、護る、護る、護る、護る、護る、護る――!

「僕はッ!」

 ジェリコは目を開いた。全身には汗。まるで夜通し絵を描いたときのように熱く強張った全身。右手に握っている筆は毛の部分がほとんど抜け落ちている。地面には『護る』を描いた図形。誰がなんと言おうと、この図形は『護る』を意味している。ジェリコのその意思に、矛盾や不純物など欠片もなかった。

 そしてジェリコは筆を思い切り振り上げ、

「護るッ!」

 『護る』の図形の中心に筆を突き立てた。


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