#23.落ちる錠前
「一つだけ聞かせて欲しい」
小屋に入るなりジェリコは言った。ヘミングウェイがゆっくりと振り向く。
「レメゲトンを開くとどんなことが僕に起こるの?」
そう。レメゲトンという圧縮された情報を開くと自分はどうなるのか。ただ膨大な量の情報が頭の中に流れるのか。そうだとしたらその情報量に自分の脳は付いていけるのか。
いや、それ以前にどんな情報を封じられているのか。『情報』という曖昧な定義のモノを開放するということは、危険な行為なのではないか。
文章のように無数の文字、言葉も一種の情報であり、この世に存在するもの――人、動物、植物、虫、物等もある意味『情報』だろう。
そんなあやふやなものを勝手に開放されて何か起こったら一体どうするつもりなのか。よく分からないが、最悪命に関わる気がする。
ジェリコの問いに口を引き結んだままのヘミングウェイは、しばらくジェリコと視線を合わせた後、再び前を向いた。
そして、不吉な答えが返ってきた。
「――それは、分からん」
「え?」
ヘミングウェイの答えにジェリコは頓狂な声を上げた。同時に心臓がどくりと波打つ。
「レメゲトンに何が封じ込められているのか誰にも分からん。故に開いて見ぬ限り何が起きるか分からん」
「そんな……」
「昔、分厚い本に施された第二のレメゲトンを開いてみたが、そのときはとくに何も起きなかった。開かずの表紙がひとりでに開いたくらいじゃな。まぁ安心せい。母体が死ねば腹の中の子も死ぬように、被術者が死ねばレメゲトンも死ぬはずじゃ。おぬしが命を失うことはまずないじゃろう」
「本当かな……」
意気消沈するジェリコを尻目に、ヘミングウェイはさらりと言う。
「わしの勘はハズレを知らん。宝箱を開くような気でおればよかろうて」
へミグンウェイは嘘を言っていない。多少心配だが、信じるしかない。自分とは生きている時間も世界も天と地の差があるのだ。自分の経験でものごとを判断せず、老齢の賢者の判断に身を任せよう。正直逃げ出したいが。
小屋の奥には魔方陣らしきものが刺繍された真っ赤な絨毯があり、その上にポツリと佇む背の無い大きな椅子にジェリコは座らされた。ヘミングウェイは「目を閉じろ。術が終わるまで何が起きてもその椅子から離れるな」と言うと、ジェリコは再び心臓を波打たせた。
ヘミングウェイは死なないと言った。しかし、植物人間のようになったりはしないのだろうか。文字通り生ける屍。そんな死んだも同然の状態になるのではないかという恐怖を、ジェリコは先ほどから拭えないでいた。
「あんた、怯えてるの?」
フェリシアが言った。言われてはっとすると、ジェリコは体が震えていることに気づいた。
シワシワになっている分厚い本をめくりながらヘミングウェイはちらりとジェリコをみやった。そして再び書物に目を戻すと、
「何も知らない常人が魔術を恐れるのは至極当然。むしろ恐れるべき、忌むべきモノだ」
ヘミングウェイは続ける。
「しかしお前は常人ではないのだ。気持ちの面では『少年ジェリコ』かもしれんが、お前の本質的存在価値は『魔術師ジェリコ』だ。生まれながらの魔術師は、何が起きようと死ぬまで魔術師だ。アルカンジェロはただの人であったが、お前は違う」
ヘミングウェイは魔術師ジェリコ、という言葉を強く言った。そしてヘミングウェイの言葉に反発する気が起きない辺り、やはり自分はもう普通の人間ではないと認め始めているようだった。それが今までの自分を否定しているようで、少し厭な気分になった。
「わしは自身を持てといっておるのじゃ」
ヘミングウェイは予想外の言葉を放った。
「真の意味で自分がもっとも得意とする道を歩むことが人生を極める秘訣じゃ。お主が将来その手に何を持つのかわしの与り知らぬところじゃが、魔術師としての素質は非常に恵まれておるとだけ言っておこう」
「魔術師になれって言っているわけ?」
「そうではない。しかしお主は言ってみれば『魔術』に祝福された人間のようなものなのじゃ。もしお主が得意とするものがあるならば、その分野の根源的な意思に祝福された者といえば解りやすいじゃろう」
つまりジェリコで言えば絵の神様に祝福された人間と位置的に同じという意味だ。これまで数々の名画を生み出してきた巨匠は、間違いなくその道の才を与えられている。自分も巨匠と似ているという点に関しては誇らしいが、いかんせんその道が魔術というのが嬉しくない。まるで自分は絵の才能がまったくないと言われているような気がして、むしろ腹立だしい。しかもジェリコは今魔術を欲している。その双反する現実と意思がジェリコの中で戦争を繰り広げていた。
ヘミングウェイは話を続ける。
「故に恐れるな。おぬしほど魔力まみれの存在が魔術を恐れ否定してしまえば、どんな災厄がふりかかるか分からんぞ。魔術に殺されたくなければ、逃げるのではなくむしろ自分がそれを扱うつもりで臨むしかない。どんな分野でも言えることじゃが、『技術』は使うものであって使われるものではない。それだけは忘れるな」
技という言葉は広い意味を持つが、本質的には知識や世界の法則に裏打ちされた数式のようなものだと思う。それには相性があり、人は自分が求める技との相性にしばしば悩まされる。技に遊ばれることほど恥ずべきことないだろう。
そして、技とは使うものである。使わなければ意味が無い。それはつまり自分と相性のいい技を使わないということはあまりにも勿体無いということだ。それは絵描き見習いであるジェリコには痛いほど分かる事実だった。
しかし、自分の命を脅かすものを求めるのはどうだろう。自分の願望を強く求め、それを手に入れるための力を求め、もし自分自身がその力に食われてしまえば元も子もないではないか。
そうなると今度は、その力を支配できる体を求めてしまう。強い体を。力を。つまりそれは、
「――強くなりたい」
今までずっと胸に秘めていた言葉を、初めて口にした。そしてヘミングウェイが答える。
「ならば耐えることじゃ。人は、耐えることによって強くなれる。心も、体もな」
くだらん話は終わりだ、と言うようにヘミングウェイは古文書をぱたんと閉じる。はっとして我に返るジェリコ。術の始まりを予感した。
ヘミングウェイは静かながらも厳格な声で言う。
「今からジェリコのレメゲトンを開く。何がおきるか分からん。ジェリコはもとい、周りの人間も死を覚悟しろ。よいな」
ヘミングウェイの真剣な顔に気圧されつつ全員が頷く。いや、ユーリーだけはどこ吹く風でへらへらしているが。
ヘミングウェイは静かに目を閉じた。そして不思議な言葉を一つ一つ確かめるようにゆっくりと紡ぎ始める。
――小さな五指には輝く海原、深海に根ざすは太陽の誇り――
しゅうぅぅ、と魔方陣から煙が立ち込め始める。ヘミングウェイは変わらずゆっくりとした速度で詠唱を続ける。儀式の始まりに、ジェリコの胸はどくりと鳴った。
――かの目に映るは白金の時、開闢されしは異国の故郷――
妙な韻を踏んだ言葉だ。詩のような、異国の経典の言葉のような。魔術の発動にはこうした妙な言葉の羅列が必要なのだろうか。自分はこんな難しそうな言葉を覚えられるだろうか、と妙なことを気にしているジェリコであった。
――風の理に雷を孕ませ、鉄の嘶きに赤子が微笑む――
「ぐっ!」
突然ジェリコの背筋に痛みが走った。神経に直接触れたような、痺れるような痛覚。その感覚は次第に全身へと広がっていく。ひりひりするような、氷の滝に打たれているような真っ白な痛みだ。このまま感覚の無い体になってしまったらどうしよう、とジェリコは心配になった。
そして魔方陣はうっすらと輝き始め、いよいよ異様な気配が満ち始めていた。
――そして言葉は歪に象る、幻想を満たす旋律として――
「あぐぅあああ!」
麻痺していた体に突き刺すような痛み――いや、痛みというか異感覚?異物感?分からない。とにかく首に何かを無作為に突き刺されたような、痺れた足に貫くほど爪を立てられたような、そんな苦しみがジェリコを襲った。白光のような激痛と呼ぶべきその感覚に、ジェリコは思わず頭を垂れる。
「何あれ、首が光ってる」
フェリシアの声。どうやら自分の首が光っているらしい。
「鍵が開こうとしているのだ。つまりあの光は中身から漏れ出して来た魔力の迸りだろう」
冷静なアヤジの声。そんな落ち着いた声に腹立つジェリコだが、噛み付く余裕など今は全く無かった。とにかく体が苦しい。もはや痛みという枠を超えてこの場に居るのが辛い。逃げ出したい。この椅子から飛び降りたい。ベルガモに帰りたい。ダニエラに会いたい。絵を描きたい――!
「ジェリコ、大丈夫?あんなに悶えて……」
自分は身悶えているらしい。そんなことまったく分からない。もう体が火の玉になってしまったようだった。首から始まった絶望の感覚は全身に広がり、すべての感覚がその痛覚に統一されてからはどこが手で脚で指で頭なのかまったく分からない。ただ、この場を動いていないということは理解できていた。意識だけは嫌というほどはっきりしている。
「これは貴重だ。後でこの光景を記しておかなければなるまい」
実験動物を舐るように観察しているようなユーリーの声。ああ、そうか、勝手にしてくれ。記すなりなんなり勝手にしていいから、ここから開放して欲しい……!
――ぬるり。
「はぐっ!」
感覚がほとんど失われた首筋に、突然生々しい痛みが息を吹き返した。ジェリコは思わず声を上げると、力いっぱい閉じていた目を見開いた。目の前には汗だくのヘミングウェイと明らかに異常な環境に変貌した周囲を確認できる。
赤い稲妻がばりばりと迸り、自分を中心にして煙が渦を巻いている。爆発する寸前の爆弾のような輝きが小屋を明滅させ、術の発動はもう目と鼻の先だと宣告している。
なにより自分の首が痛い。ぬるぬるして気持ち悪い。そもそもなぜぬるぬるしているのか。首にそんな要素はこれっぽっちも無いはずなのに。無数のナメクジが這い回っているような、粘膜質な穴から何かが這い出てくるような、吐き気をもよおす気持ちの悪さだ。
そんな地獄に耐えながら、ジェリコは再びヘミングウェイを見る。目を閉じ、両手を合わせ、全身全霊で念を込めている姿は正に魔術師だ。自分の命を引き換えに術を唱えている印象を受ける。
「――時は来た!」
ヘミングウェイは目を開くと、右手を空へ、左手を地面に指し、そして両手を組んでジェリコに向けると、最後の言葉を放った。
――跪け、我が名はアーネンブルゲ――
その瞬間、光が、生まれた。
そしてジェリコの全身を束縛していた苦しみは解かれ、せき止められていた血液が濁流となって身体に染み渡っていく。指先から感覚が蘇り、朦朧としていた意識から霧が晴れていくのがわかる。
まばゆい光はジェリコの首へ次第に収束し、完全に光が消えると、辺りは術を始める前の状態に戻った。
暖炉の火が爆ぜる音、薬品独特の鼻をつく臭い。先ほどまでの派手な演出なんて嘘のような、異様な静けさが辺りを再び包み込んでいた。
――ただ、周囲の人間の目だけは、驚愕の色を孕んでいるが。
「こいつは何だ、ヘミングウェイ」
まずアヤジ。
「黒い、女?」
次にフェリシア。
「ふむ……」
ユーリーは小さく唸る。
「この悪寒が立つ魔力の迸り。まさかこやつは……!」
あのヘミングウェイが口ごもる。あきらかにおかしい状況に焦ったジェリコは、すぐさま後ろを振り返った。そして椅子を蹴り転がしながらその自分の首から生まれたであろう存在から離れる。
「こ……!」
言葉を失った。目の前には『黒い少女』が宙に浮かんでいた。
天井に首を吊らされているような体勢だが、明らかに自身の力で浮いているようだ。そして、黒い。吸い込まれそうな黒さだ。体の線は少女のそれだが、すべてが黒すぎてあまりにも異質だ。立体的な影というものがあれば、まさしくこの姿を指すに違いない。
その一点の光の無い黒い人型を見つめていると、突如くるりと回転して少女がジェリコの方を向いた。突然の事にジェリコは思わず後ずさる。
「……」
先ほどまでの疲労感はどこへやら。ジェリコは完全に身構えて臨戦態勢を取っていた。こいつは、明らかにおかしい。危険な存在であると、ジェリコの頭の中は警鐘が鳴り響いていた。
「!」
少女は目を開いた。左目は翠色。右目は紺色。のっぺらとした黒い空間にいきなり浮かぶその両目に気圧され、ジェリコは再び一歩後ずさる。背中に冷たい汗が一筋流れた。
「……」
すぅ、と少女は魔方陣の中心に降りた。自分より背が低い。そんなつまらないことを脳裏の片隅に思ったジェリコだった。
少女はずっとジェリコの瞳を見つめている。瞬きすることなく、ずっと。
そして一歩ジェリコに近づいてきた。同時に一歩後ろに下がるジェリコ。
それが数回繰り返されると、あっという間に壁に到達した。もう下がれない。黒い少女は目と鼻の先だ。
ジェリコはちらりと少女の後ろに控える仲間たちを見た。助けてくれと目配せしたのだが、仲間たちは少女のあまりの異質さにたじろいでいるのか無言でジェリコと黒い少女を見つめているだけだった。
「!」
そして少女は細く黒い手をそっとジェリコの頬に添えた。驚いたことに、少女の手は温かかった。少女はあっけに取られているジェリコを面白いものでも見るように見ると、驚いたことにその場に跪いた。そして、小さな口を開く。
「こうして会うのは初めてですね、主よ」
ジェリコの思考は、そこで完全に停止した。