#22.賢者
アトモ山に入った一行は最初登山道を歩いていた。そして山の中腹辺りに来ると、道をはずれ低い草の茂る藪の中へと飛び込んだ。そのまま草を掻き分け鳥のさえずりを聞きながら歩き続けると、小さな川が目に入った。清流のようで、時折魚の姿が見えた。
そうして今度はその川に沿って上流へと向かった。えっちらおっちらと歩き続けると、次第に足元が踏み鳴らされた轍へと変わっていった。どうやらこの近辺に根を下ろしている人間がいるようである。おそらくアトモ山の賢者だろう。
轍の上を歩いて十分ほどだろうか。視界に平屋の小屋が見えてきた。
「着いたぞ。あそこだ」
先頭を歩くアヤジが言った。どうやら無事に到着したようである。
小屋の前までやってくると、随分と年季の入ったものであることがわかる。傷だらけで、ところどころ穴が開いている。しかし木材の組み方は複雑でちょっとやそっとじゃ崩れそうになさそうだ。
「それにしても、臭うなぁ」
ジェリコは思わず顔をしかめた。何かがが腐ったような、血がおかしくなったような異臭が先ほどから鼻を刺激している。煙突からは煙は出ていないが、きっと何かおかしなものを調合しているに違いない。
「この程度の臭いで文句垂れるんじゃないわよ。酷いものなら数秒嗅いだだけで倒れるくらいのガスだってあるってのに」
ジェリコの言葉にイラついたのか、フェリシアが噛み付いてきた。確かに、錬金術師であるフェリシアにとって調合の際に生じる異臭は慣れているのだろう。しかし数秒嗅いだだけで倒れるものまであるとは恐ろしい。そうまでして研究を続ける錬金術師というものはやはり奇異な存在だとジェリコは思った。
「挨拶してくる。ちょっと待ってろ」
アヤジはそう言うと、遠慮会釈も無くドアを開いて中へ入っていった。無作法だと思うが、賢者とはそれくらい当然の仲なのかもしれない。
「あら?ユーリーさんがいないわ」
「え?」
フォレンティーナの言葉に釣られて周囲を見回すと、確かに姿が見えなかった。一体どこへ消えたのか。
「あ、いたわよ」
発見したのはフェリシア。彼女の細い指が示す先には確かにユーリーの姿はあった。
しかし、なぜ木に登っているのか。しかも太陽の方向に両手を広げている。よくもまぁ不安定なあの場所で堂々と立っていられるものだと感心するが、実に奇妙である。
ユーリーの行動に興味を惹かれたのか、フェリシアは木に近づいて下から声をかけた。
「ちょっとあんた。そんなところで何やってんのよ」
「――」
「おーい、聞いてんの?」
「――んんっ!」
突然ユーリーは全身を一瞬痙攣させた。電気が走ったように、ほんの僅かな時間。
そしてユーリーはゆっくりと振り向いた。
「いや、久々に実に美しい景色だったもので。感動した」
ユーリーは満面の笑みで意味不明なことを言った。はっきりいってそんな美しい景色ではない。どこにでもあるような山の景色である。木の上から登って見下ろせば多少心惹かれるものがあるのかもしれないが、感動するほどではない。
木から下りてきたユーリーは上機嫌で鼻歌なんぞを歌っている。
正直ジェリコ達はユーリーの不気味な行動に付いていけず、思わず無言になっていた。
しかし、そんな沈黙を破るものが現れた。フェリシアである。
「あんた、頭大丈夫?」
単刀直入なその言葉に、ユーリーは笑いながら答える。
「無論、正常だ。脳に必要な糖も十分に足りている。傷も無く、痛みも無い。いわゆる健康だ」
「いや、そういう意味じゃないんだけど……」
あのフェリシアをここまで戸惑わせるユーリーはやはり不思議な人物である。ジェリコは妙に感心してしまった。
「光合成でもしてたのかしら」
「そうかもね」
フォレンティーナの言葉にジェリコは同意していると、ユーリーは「言い得て妙だな」などと言う。ますます謎だ。
そんなやり取りをしていると小屋からアヤジが現れた。その後ろにはジェリコくらいの身長の老人が杖を持ってこちらへやってくる。彼が賢者なのだろうか。
老人はアヤジの隣に並ぶと、くぼんだ瞼の奥にちらりと覗く瞳でジェリコ達を見回す。
老人はひとしきりジェリコ達を見た後、髭をさすりながらフェリシアを見つめていた。
フェリシアは「何だこの爺」とでも言いたげな瞳で老人を睨みつけている。初対面の相手くらいきちんと対応して欲しいものである。
二人の視線がぶつかりあっていると、痺れを切らしたのか老人が口を開いた。
「お主、ヴルトーンの血を引いておるな。きな臭いがするのう」
老人の言葉にフェリシアは片眉を跳ね上げた。
「あたしを侮辱する気?殺すわよ」
懐に手を忍ばせたフェリシアを見て、老人はすっと枯れた手を出して彼女を制した。
「まぁ待て。彼奴を貶すつもりはない。ただつい懐かしくてのう。それはさておき」
次に老人は眉間に皺を寄せつつジェリコの方を向いた。
「お主がアルカンジェロの倅か。ふむ、確かに面影はある。にしてもこんな小童が秘現を背負う存在とはな」
老人はそう言ってため息を一つついた。
アルカンジェロとは父の名である。だがジェリコは名前しか知らないし、どんな仕事をしていたのかも知らない。どうせろくな職に就いていないのではないかと思う。老人の口ぶりからすると、父と老人は見知った顔らしい。ということは父は錬金術師だったのか。
――因果なものだ。さして父親に興味が無いジェリコは、その程度しか感じなかった。
「うなじを見せろ。鍵穴があれば、おぬしは本物よ」
ジェリコは何が何だか分からないが、アヤジにも促されて仕方なく背中をむいた。そして服の襟を広げた。
「ふぅむ」
老人にうなじを覗かれるという傍から見れば奇妙この上ない状況だが仕方が無い。恥ずかしいが、ジェリコにはどうすることもできない。
「ヘミングウェイ、どの増幅器が必要だ?」
「この紋は第三の鍵じゃな。トリコの増幅器を持って来い」
「トリコだな。取って来よう」
アヤジはそういって小屋の中へ消えていった。
それにしても理解のできない会話をするのはやめて欲しい。せめて一体自分が今何をされているのか、これからどうなるのか説明をして欲しい。
そんなジェリコの気持ちを知ってか知らずか、ヘミングウェイと呼ばれた老人はジェリコの背中に話しかける。
「アルカンジェロの倅よ。お前は残念ながら選ばれた。お前は望んでか知らぬが、この世に生を受けたときには歯車は合致していたのじゃ」
「だからどういうことなの?せめて説明してよ」
「ふむ、よかろう。アヤジが鍵を持ってくるまでしばらくかかるしな。その間お主のことについて教授してやろう」
「私達はいてもいいのかしら?」
言ったのはフォレンティーナ。自分たちが聞いていいことなのかどうか計りかねているのだろう。
老人は「構わん」と即答すると、一度咳払いした。
「そういえば自己紹介が遅れたな。わしの名はヘミングウェイ。昔は錬金術師として書物を書いたり世界を旅したりしておったが、今は見ての通り枯れ果てた老人じゃ。ここ最近は隠居しておったが、アヤジに頼まれて久々に釜に火を入れた次第じゃ」
「まさかあんた、星紋智学で有名なヘミングウェイ?」
切り出したのはフェリシア。錬金術師同士、話が分かるのだろう。
「いかにも。星紋智学はわしが生み出した学。今はもうお主の先祖が組み立てた構成真理に喰われてしまったがのう」
「じゃああんたほんとにあのヘミングウェイなの?一体今何歳なのよ」
信じられないといった面持ちのフェリシアに、ヘミングウェイは落ち着いた声で答える。
「さぁな。百を越えてからは数えておらんわ。……さて、アルカンジェロの倅よ、話の続きじゃ」
「僕の名は、ジェリコだ」
「ふむ。ではジェリコよ。お主のうなじにはレメゲトンと呼ばれる鍵穴がある」
「レメゲトン?」
うなじをさすりながら鸚鵡返ししたジェリコにヘミングウェイは浅く頷いた。
「大昔、七十二の悪魔を使役し王の座に君臨した魔王がおってな。名前は未だ不明じゃが、わしらは七十二悪の王と呼んでおる。レメゲトンとはその魔王が生み出した、情報の圧縮・封印を施す魔術のことじゃ。ちなみに現在術式は第七まで発見されておる」
「つまりジェリコの首のあざには何らかの情報がみっちり仕込まれてるってこと?」
フェリシアが難しい顔をして言った。ヘミングウェイは頷く。
「その通り。レメゲトンはこの世のどんなものにでも施すことができる。情報を魔力で圧縮、暗号化し、被術物と同化させるのじゃ。そして圧縮封印した情報は、鍵穴を開くことによって確認する」
「ジェリコと同化しているのなら、ジェリコはレメゲトンの情報を知ることができるのでは?」
次に尋ねたのはフォレンティーナ。確かにそうである。ジェリコと同調しているのなら、レメゲトンというものを認識してもおかしくはない。
しかしヘミングウェイは首を横に振った。
「それは無理じゃ。例え術を受けたものでも、鍵穴を開放せぬ限り中身を知ることはできん」
「何でそんなものが僕の背中にあるの?一体何が封じられているんだ?」
ジェリコは気になっていたことを口にした。なぜ自分はこんなわけの分からないものを背負っているのか。
「それは運命だからじゃ。ただの偶然。屋根から垂れてきた小さな雫に頭を打たれるようなものじゃ」
ヘミングウェイは予想通りの返答をした。俯きながらジェリコは鼻でため息をつく。
「そしてレメゲトンの中身に関してじゃが、今日までレメゲトンを施すことができる存在は七十二悪の王ただ一人。まぁ七十二もの悪魔を使役できる力を持った者が作った術じゃ。そう簡単に扱えるわけも無い」
ヘミングウェイは一度言葉切って続けた。
「故にレメゲトンに封じ込められた情報とは、七十二悪の王が封じ込めた情報ということじゃ。これがどういう意味か分かるか?」
ヘミングウェイの問いに、ジェリコは答えることができなかった。基、答える術を持っていなかった。ヘミングウェイはふむ、と仕方が無いといった面持ちで唸る。
「つまり、レメゲトンという超難解な魔術を行使してまで封じ込めた情報なのじゃ。その内容は極めて貴重かつ重要。現在の魔術、錬金術に大きな革命をもたらすに違いない、まだ見ぬ宝石の原石なのじゃ。故に多くの魔術師その他の人間は、レメゲトンに対して貪欲なのじゃ」
「私もレメゲトンという言葉は知っていたけど、そんな内容だったとはね」
真剣に話を聞いていたフェリシアは、感心したように呟いた。
「けど妙ね。その七十二悪の王は何でジェリコに術を施すことができたわけ?遥か未来の人間にも術は施せるわけ?」
フェリシアの疑問は尤もだ。当然のことながら七十二悪の王はもう生きては居ないだろう。しかし彼の術が現にジェリコの首にあるのだ。一体どういうことなのか。
「おそらく悪魔の能力を応用したものであろうが、レメゲトンに制限は無い。術の対象を想像した人物にすることも可能じゃ。確かお主は第三の鍵穴じゃったな。つまり第三のレメゲトンということ。その被術者は『イセ暦一四五二年、草原を瞳に宿し青い地平線の大地から生まれし者』であったはず。すなわちお主の事じゃ。お主がこの世に生れ落ちたその瞬間、レメゲトンが発動したのじゃ」
「そう……」
何となく分からないが、何となく納得してしまったジェリコである。正に運命。どうしようもないことなのだといい加減ジェリコは感じ始めていた。自分で言うのもなんだが、悟りかけている気がする。
ヘミングウェイは再び口を開く。
「続いて今回の秘現――所謂揺り籠のことじゃが、これとお主がなぜ繋がっているかということを説明してやろう」
自分の運命を悟りかけているジェリコにとって聞いても聞かなくても変わらない気がするが、ジェリコは無意識のうちに首を縦に振っていた。
「揺り籠とはピュリノス・インディゲーターという魔術師が編み出した大魔術のことじゃが、この術には第三のレメゲトンが密接に関係しておるらしい」
「どういうこと?僕が聞いた話じゃ魔力の無限機関が関わってるって聞いたんだけど」
「もちろん、術の起動には膨大な魔力量が必要なわけじゃから無限機関は必須。それはあくまで最低限の必要条件じゃ」
「じゃあ他にも理由があるっていうこと?」
「いかにも。わしも詳細まで知らんが、文献によるとピュリノスは『過去未来現代を自由に行き来できる』という馬鹿げた事をすることが可能じゃったらしい。そして揺り籠に関する様々な書物を読んでいくと、たびたび『第三の情報装置』とか『三番目の器』という言葉が出てくるのじゃ。そして色々と研究した結果、それはどうやら第三のレメゲトンではないかというところに落ち着いた。後は今の通りよ。あらゆる願いを叶えられる揺り籠を発動するために必要な材料を探している魔術師達がお主を見過ごすわけあるまい。教会も同様。これが今回お主に降りかかった災厄の概要じゃ」
つまり貪欲な彼らは、己の欲望を満たすそのためだけにジェリコを手に入れようとしているのである。なんだ。今まで言われてきたこととなんら変わり無いじゃないか。ジェリコは拍子抜けすると共に残念な気持ちになった。
『誰かが幸せになるには誰かが不幸にならなきゃならない』そんな言葉を誰かが言っていた気がする。
ジェリコは皆が幸せになれたらいいなと願っている。
――けど、それは本当なのか?本当は自分が幸せになりたいのではないのか。
また頭の中がぐるぐる迷走し始めた。考えることは苦手ではないが、堂々巡りは嫌いである。幼い頃の古傷が再び開きそうで、ジェリコは考えることをやめた。
同時にフェリシアが一つの疑問を口にする。
「あのね、ところで鍵穴に差し込む鍵はあるわけ?悪魔の力を借りた超難解魔術を開く鍵を、あんたは持っているの?」
「わしにとって、この世のあらゆる鍵に対しては絶対の権限を持っておる。レメゲトンもその例外ではない」
「どういうことよ」
訝るフェリシアに対して、老人はにやりと笑った。
「概念魔術という言葉を知っておるか?」
「概念魔術ですって!?」
またわけの分からない単語が出たとジェリコが思っていると、突然フェリシアが驚愕の叫びを上げた。その様子を見てヘミングウェイはほう、と少し驚いた様子だった。
「大昔の禁呪法に属する言葉を知っておるとは、さすがはヴルトーンの血筋というべきかな」
「どういうこと?」
ジェリコは話についていけない。普通の魔術とどう違うのか。
額に一粒の汗を浮かべながらフェリシアはジェリコの方を見る。
「例えばあんたは人の嘘やほんとが分かるでしょ?けどそれは自分の意思とは無関係に起こっている。概念魔術ってのは、そういう神通力に匹敵する能力を魔術化したもののことを言うのよ」
「簡単に言えば神代の魔術。忘れられ、人の歴史の奥深くに閉じ込められた知識。詳しく話すにはあまりに時間が足らぬから省くが、わしは『開く』概念魔術を扱える」
「開く、概念魔術……」
「そう。魔力次第であらゆる対象を「開く」ことができる。レメゲトンを開くには途方も無い魔力が必要じゃが、わしが長年の研究で作り上げた増幅器を用いれば可能じゃ」
いまいち内容がつかめないが、とにかくレメゲトンを開くことができるらしい。
「トリコの増幅器を持ってきたぞ」
小屋の奥から黒い影がぬっと現れた。アヤジだ。その手には黒く輝く石がはめ込まれた指輪のようなものが二つある。
ヘミングウェイはその二つの指輪を受け取ると、両手の親指にはめ込んだ。
「ちょうど話も区切りがついた。では、レメゲトンを開くことにしよう。小屋に入れ」
ヘミングウェイに促され、ジェリコ達は小屋の中へと入っていった。