#18.深淵という名の活路
ぱち、ぱちという火の爆ぜる音でジェリコはまどろみから目を覚ました。ぼんやりと開いた視界の向こうには、焚き火を囲んだ仲間の姿が見える。各々口を閉ざし、赤くのたうつ炎の照り返しを受けてその顔を不気味に光らせていた。ただ一人、エメの姿が見えないが、大方周囲の偵察にでも行っているのだろう。
「ようやく目覚めたか」
瞼をこすりながら起き上がると、焚き火を隔てた側に座っているアヤジが口を開いた。
「ごめん、寝てた」
「構わん。体は休められるときに休ませろ」
いつものようにぶっきらぼうにアヤジは言うと、火に燃料をくべる。
「ジェリコ、魚があるから食べたら?」
ジェリコの隣に腰を据えているフォレンティーナは、木の枝で串刺しにした魚を一匹差し出してきた。魚は焦げ目が付いて香ばしい匂いがする。表面の白い小さな粒は塩か。ジェリコはフォレンティーナからありがたく受け取ると、そのままかぶりついた。塩がよく効いていて旨い。
「それにしても魚?どこから捕ってきたの?」
ジェリコは至極当然な疑問を口にした。まさか街から買ってきたものでもないだろうし、近くに川があったのだろうか。
「薪を集める途中、川を見つけたのだ。ついでだから魚を人数分捕って来た」
アヤジはそう言うと炎の中に薪を一つくべる。なるほど。ジェリコは合点がいった。こんな暗闇の中、魚を捕るなんて芸当、常人では不可能だろうがこの男には化物が憑いているのだ。大方その異能力を用いて捕獲したに違いない。
「ほら、ルジオと一緒に食べなさい。役立たずな上に栄養失調にでもなったら鬱陶しすぎて発狂しちゃうわ」
フェリシアがルジオの葉が詰まった袋を乱暴に投げてきた。袋の口から鼻を駆け抜け脳に突撃してくるような爽やかな香りがする。ジェリコは葉を二、三枚取り出すと魚に乗せ、かぶりつく。微妙に残っていた魚の臭みはルジオの香りで相殺され、より食べやすくなった。
がさり。
突然背後の草むらが鳴り、ドキリとしてジェリコは振り向いた。
「……」
「なんだ、エメか。驚かさないでよ」
ジェリコは胸をほっと撫で下ろす。野犬だったらどうしようと思っていたところだ。思ったところで手遅れだったろうが。
エメはというと、ジェリコを一瞬見つめた後、そのまま空いていた空間に腰を下ろした。
「どうだった?」
アヤジの問いに、エメは首を振った。
「そうか。何もいなかったか。しかし油断はできない。最近の魔術師は術の精度が上がってきているようだからな」
先の魔術師のことだろうか。アヤジは本気で警戒しているよう様子である。
そしてフェリシアは魔術師という言葉を聞き、小さくため息をついた。
「あたしにも魔力があればなぁ。鬼に金棒なのに」
フェリシアの言葉に、アヤジが炎を見つめながら呟く。
「錬金術と魔術との二足の草鞋を履くという意味か?ならば止した方がいい」
「どういう意味?」
例によって例の如くフェリシアはアヤジに噛み付いた。
アヤジは目だけをフェリシアに向ける。
「その二つを大成しようとしたものは、大抵酷い死に様を見せている。ただでさえ裏の錬金術に手を出しているのだから、これ以上身を危険に曝す必要も無いのではないか」
「あのね、あんたにあたしの何が分かるのよ。あんたに心配される筋合いなんて元素核ほども無いわ」
フェリシアに威嚇されるとアヤジは怖い怖いと心でもないことを言い、肩をすくめた。そしてちらりとジェリコを見る。
「ごもっとも。どうやらこの小僧と旅を始めて調子が狂ったらしい。思いのほか神経を使うものなのだな。子守とは」
「悪かったね。役立たずで」
頭に来たジェリコはアヤジを睨みつけた。
「まぁまぁ。いがみ合っていたら無駄に体力を使いますよ」
いつの間にか仲裁役になっていたフォレンティーナがあたふたしながら三つ巴の中に入る。話に入れないエメはどうしているのだろうと目をやると、目を閉じて静かに焚き火に当たっていた。静止した人形のように、微動だにしない。しかし眠っているとは思えない。おそらく体を休ませているのだろう。エメは四六時中辺りに警戒しているのだ、きっとかなり神経を使う作業に違いない。
「あたしはこの世の真理を必ず突き止めるのよ。賢者の石を必ず見つけ出してみせる」
「行き着く先は魔術師と一緒か。まぁ俺がとやかく物言いする話ではないな」
なんだか二人はジェリコの理解が及ばない会話をしているが、これからジェリコもそういう物騒な言葉に関わっていくのだろう。だんだんとジェリコの住んでいた穏やかな世界が侵食されていくようで、変な鳥肌が立った。
ふと、フェリシアは獲物を狙う獣のような目でジェリコを見つめた。にやりと口元を吊り上げて犬歯が見えるところが余計に獣のようである。
「目の前に絶好の素体がいるっていうのに手が出せないなんて、もうじれったいったら無いわ」
……これは冗談抜きに後ろから刺されるかもしれない。気をつけなければ。
しかし、フェリシアは随分とジェリコの体を過大評価しているが、その根拠は一体何なのだろうか。
「僕の体のどこにそんな素質があるの?そういえば以前魔力を無限に生み出せるって言っていたけど、どういうこと?」
ジェリコの問いにフェリシアは興味を持ったようで、「知りたい?」と怪しい笑みを浮かべた。炎に照らされて不気味な影が浮かんでいるその微笑みの真意は知りたくないが、自分の体のことは知っておくべきだろうと思いジェリコは頷いた。
「いい機会だからきっちり教えてやるわ。そうね、まず魔力というものについて説明するべきね」
フェリシアは話すのが楽しそうだ。
「魔力ってのは、この星がこの星であろうとする力そのもののこと。魔力の源泉はこの地球で、この星に存在するあらゆるものに魔力は宿る。魔力というのは「その存在の形成を維持しようとする力」という風に、構成真理や多くの魔術書に定義されているわ。魔力は基本的にその存在を構成するために必要以上の量を保持しようとしたり、生成しようとはしない。以前あたしはあんたに対して魔力を無限に生成できるって言ったけど、厳密に言えばこの世に存在するものは勝手に魔力を自分で生成しているのよ。ただあんたの場合はその量とか密度とかが色々と狂ってんの。これについては後で説明してあげるわ」
フェリシアはここまで一気に喋ると、皮袋に入っている水を一口飲んだ。一息つくと再び話し始める。
「次に魔術師について教えてやるわ。基本的に魔力は存在の構成を維持するための力なんだけど、何を思ったか大昔のある人間はその力を別の方向に使おうとした。この世を構成する力そのものなんだから、理論上、魔力を使えば自分の望むあらゆるものを生み出すことができるのではないか、とね。これが世界最古の魔術理論。この思想を発想した人間の名はマーリン。マーリン・エムブロッシウス。この世界の真理について調べていた研究者で、世界初の魔術師よ。ちなみに魔力の特性に初めて気づいたのもこのマーリン」
おとぎ話でその名は聞いたことがある。大体が魔法使いとか、何やら特殊な能力を持った人間として語られるが、まさかそのマーリンなのだろうか。
フェリシアは続ける。
「マーリンが魔術を編み出すことができたのには、理由があった。それはマーリン自身に宿る魔力容量が異様に多かったということ。常人の魔力容量が一だとすると、マーリンは百万くらいの許容量があったらしいわ」
「それはなぜ?」
ジェリコは尋ねた。
「マーリンは神代に生きていた神々の中でもとりわけ能力が高い神の子孫で、おまけに先祖である神の能力が覚醒していたのよ。いわゆる先祖返りってやつね。途方も無いくらいの」
「そんなことがあるの?」
ジェリコは半信半疑で尋ねると、
「あのね、あるから今こうなってんでしょ。あんたも自覚しなさいよ」
フェリシアになんだか怒られてしまった。
「で、マーリンは自分の力に惹かれた人間達に術を教えていった。魔術師の大発生みたいなものね。その大発生した魔術師の中には、やはりマーリンみたいな特徴を持った人間がいたらしくて、そういった奴らもマーリンのように偉大な魔術師として君臨してたらしいわ。有名どころで言えば、時の魔術師と云われたピュリノス・インディゲーターとか、魔術の力で王にまでのし上がった魔王アトモス・フェル・ヴァスコンティとか。マーリンの弟子は大体有名よ。しかし時代が進むに連れて科学が発達してきて、魔術の必要性とか思想の危険性が問われたりして、結局世界的に魔術師が迫害されていった。世に言う悪魔狩り、魔女狩りってやつよ。そこで生き残った魔術師達は結託することで技術や歴史を保存することにした。これが魔術師結社。立場的には十字教会の対になってるわ。まぁ魔術師を抹殺しようとしたのが十字教会なんだから当然よね」
正直言っている事がよく分からないが、とりあえずジェリコは頷いていた。何となくだが、フェリシアが凄いことを言っているのは分かる。悪魔狩りや魔女狩りというものは、以前読んだ本に書いてあった気がするが、よく覚えてはいない。
「ところで、それと僕とどんな関係があるの?」
「あのね、少しは察しなさいよ……」
ジェリコは思っていたことを尋ねただけなのだが、フェリシアは気に入らなかったらしい。本当にうんざりした様子でため息をついている。いまいち彼女の言わんとすることがジェリコは分からない。
「つまりお前はマーリンその他の今は亡き偉大な魔術師達と一緒だってことだ。神代の化物共の先祖返りだと、彼女は言いたいのだろう」
予想外なことに、答えは別のところから現れた。そしてその答えに驚く。
「僕が、マーリンと一緒だって?」
「厳密に言えば、この世に存在する生物の先祖は、原点を辿れば何らかの神々の子孫だろう。しかしここで重要なのは、お前は遠い先祖である神の能力が覚醒する可能性があるということだ。少なくともその片鱗はすでに出ている」
なんということだ。自分は伝説の魔術師マーリンと一緒だというのか。途方も無さ過ぎて実感が沸かないが、非常にまずいというか、ひょっとして自分はとんでもない立場にいるのではないだろうか。
フェリシアはアヤジの説明に同意する。
「そういうこと。その証拠に、あんたは個体の形成に必要な分以上の魔力を生み出している。神の先祖返りをした人間は、その先祖返りしようとしている神の当時の能力が覚醒しようとしてるわ。そのためには膨大な魔力が必要になるわよね。だからあんたは魔力の無限機関――魔術を行使できる量の魔力を生産しているのよ。それから、神の力からあぶれたものとでもいうのかしら、神通力の片鱗として、大体何らかの異能力を持っているわ。あんたも何か自覚してるんじゃないの?小さい頃から妙な力があるとか、変な技術を持っているとか」
ジェリコは考えたが、とくに思い当たる節は無かった。結局首を横に振った。
「アルは?こいつと小さい頃から一緒だったんでしょ?何か心当たりある?」
突然話を振られたフォレンティーナは、顎に手を当てて首をかしげる。
「例えばどんなことが異能力なの?そう、マーリンはどんな能力者だったの?」
「マーリンが持っていた異能力は圧倒的な思考能力。一から千、千からさらにその先の発想ができたそうよ。まぁそれくらいの知能が無いと魔力の存在に気づいたりしないわよね。時の魔術師ピュリノスは若かりし頃から体感する時間がおかしかったらしいわ。デジャブが妙に多かったり、あとどれくらいで日が暮れるか精確に分かったり。異能力の例なんてきりが無いわ。とにかく「常人には無い確固たる特別な何か」が異能力だとあたしは分析してるわ」
「――あ」
思わずジェリコは頓狂な声を上げてしまった。そういえばジェリコにもあった。小さい頃から悩まされ続け、同時にそれのおかげでここまで生きてこられたその原因。あまりに身近にあり過ぎて気づかなかった。
「何よ。なんかあったの?」
「あったよ。僕は、嘘が判る」
そう。ジェリコにはジェリコの意思の他、「無意識の判断」というもう一つの意思が存在する。その意思は根拠も無いのに相手の虚偽を必ず否定し、真実のみを肯定する唯一無二の秤なのである。
「嘘が、判る?」
フェリシアは驚いていた。そりゃそうだろう。普通の人間ならば、絶対に判らないことが平然と判ると言ったのだ。怪しんで当然である。
傍らのフォレンティーナもそうそう、と思い出したようにジェリコに同意した。
「そういえばジェリコは人の嘘が判る能力があったわね。忘れていたわ」
「アルまでそんなこと言ってるけど、本当なの?」
「本当さ。僕の中には僕以外の意思があって、その意思はあらゆる嘘を否定する。僕はその判断に従うこともできるし、拒否することもできるんだ。まぁその判断は絶対に間違えないから従うようにしているけど」
「胡散臭いわね。確かに異能力は発現しているはずだけど、人がつく嘘が根拠もなしに判る?信じられないわ」
疑心の目で見つめるフェリシアはいつもの短気な姿とは違い、どこか冷気の様なものを放っていた。
「じゃあ何か嘘をついてみてよ」
挑戦的にジェリコが言うと、フェリシアは「そうね」と頷いた。
「それが一番手っ取り早いわ。――あたしは眠たくない」
「嘘」
「あたしは男だ」
「当たり前だろ、嘘」
「あたしはあんたを殺そうとしている」
「……なんでそんな質問をするかな。本当だし」
「いちいちうるさいわね。今実験しているのよ。――あたしはあんたのことが好きだ」
「嘘」
「あたしは天才ではない」
「本当」
フェリシアは低く唸りながら腕を組むと「判ったわ。確かに、あんたは人の嘘を見抜く力があるようね」と思ったよりあっさりとジェリコの能力を認めた。
「でもつまらない能力ね。派手さがないというか。拍子抜けしちゃったわ」
「僕だって好きで手に入れたわけじゃないんだ。この能力のせいでどれほど苦しんだことか」
改めて自分の異能力を自覚し、それによって生まれた心の生傷が疼いた。心無い言葉。鮮やかな仮面の下には、吐き気をもよおす人間の暗闇が存在しているのだ。
「苦しむ?……ああ、なるほど。嘘が見抜けるということは、その言葉の裏を返せば嫌でも相手の本音がわかるということだもんね。あんたが言おうとしていることは何となく分かるわ」
そう言ってフェリシアはふん、と鼻で笑った。そしてぎろりとジェリコを睨みつけた。
「そんなことでうじうじしてんじゃないわよ。ほんと甘ちゃんよね。過去を引きずる男って嫌だわ」
「うるさいっ!」
ジェリコは我慢できずついに怒りを爆発させた。突然の咆哮に驚いた一同は一斉にジェリコを見つめる。ジェリコはそんな視線をものともせず、叫び続けた。
「フェリシアに僕の何がわかるんだよ。言いたい放題言って、ちょっとは人の気持ちを考えてものを言ったらどうなの!?」
ジェリコの必死の抵抗に、フェリシアは先ほどと変わらない冷徹な眼でジェリコを見つめる。そしていつもよりも低めの声でゆっくりと話し始める。
「あのね、人の気持ちなんてね、完全に判りっこないのよ。あんたが特別なの。あんたの常識を常人に押し付けないでよ。それにね」
フェリシアは一度言葉を切った。
「確かにあんたは辛い過去があったのかもしれない。それは今も続いているかもしれない。だけどあんた以外の人間にもあんたのその悲しみと同じくらいの悲しみを引きずっているかもしれないと思ったことは無いの?辛いのは自分だけじゃないって考えたこと無いの?世界にはね、あんたよりも辛い状況に立たされている人間が馬鹿みたいにいるのよ。そういうことを考えたことある?」
「ぐっ……」
ジェリコは言葉を返せない。フェリシアの言うことは尤もである。今フェリシアが言ったことは、世界を見てきたものだけが言うことを許される言葉だった。ジェリコよりもあきらかに経験を積んでいるという証拠。ジェリコは自分の視界の狭さに改めてうんざりした。
自分は何のためにこの不運な旅に出ているのか。もちろん自分の命を明日に繋げるためだが、世界を見るためでもなかったか。世界を見て、多くの人間を見て、そして悲しみに暮れている人たちを絵で救いたいのではなかったのか。
沈黙したジェリコに対してフェリシアは何も言わず、腕を組んで目を閉じた。
しばらく炎が自分勝手に爆ぜる音と、唐突な風が一同を覗き見しながら過ぎていく。森の雰囲気と相まって重苦しい時が流れていたのだが、「そう気に病むことはない」とアヤジの一言が森の空気を振るわせた。
「お前はまだ若い上に今まで普通の生活をしてきたのだ。急にこちら側に引きずり込まれたら世界の違いに戸惑うのも当然だろう」
ジェリコに同情しているようで、実はただ現状を冷静な感想として述べているだけだった。そしてアヤジの黒い瞳はフェリシアに向けられる。
「君もからかい過ぎだ。同年代くらいなんだから仲良くしてあげたらどうだ」
「何であたしがこいつと仲良くしなくちゃいけないのよ。あのね、勘違いしてもらったら困るけど、あたしはこいつの命を狙ってるの。天地がひっくり返っても楽しい会話なんてできないわ」
「そうか」
アヤジはそれきり黙りこくってしまった。フェリシアもこの空気に嫌気が差したようで、ふん、と不満たらたらの様子で場を一瞥するとやっていられないとばかりに寝転がった。
ジェリコといえば、ただただおぼろげな炎の揺らめきを見つめ、おぼつかなく、足場が緩くなった自分の精神を繋ぎとめることで精一杯だった。
情けない話だが、ベルガモにいた頃はこんな時、いつもダニエラが慰めてくれた。もしくは、無心で絵を描いていた。
ただただ心の赴くままに、思い浮かぶ筆遣い、色を用い、心が凪に満たされるまで描き続けていた。そうすることで、ジェリコは自分を保ってきたのだった。
モンツァにいた頃はそんな悩みに苛まさることなど一度も無かった。ベルガモに移って社会を知って、そして今、不本意な瞬間、言葉ではあるが世界の厳しさを痛感した。先ほどのフェリシアの言葉はこれまでに無いほど頭に来たが、自分の愚かなところを鋭く指摘してくれたという意味では非常にありがたい言葉でもあった。
「何をしているの?」
「え?」
突然、声をかけられてジェリコは我に返った。声のした方を見るとフォレンティーナが興味深そうにジェリコの足元を見つめている。釣られて目をやると、そこには奇妙な形の絵のようなものが描かれていた。絵の端にはジェリコの指が添えられてあり、つい今しがたまで自分で描いていたと気づかされる。
「無意識に絵を描いていたみたいだ」
「そういえば孤児院を飛び出た理由は画家になるためだったわね。絵は上手になったの?」
「モンツァにいた頃よりかはね。だけど、まだまだ勉強不足さ。いつか世界を漫遊して自分自身の絵を作り上げたいと思っていたんだけど……この状況じゃあ、ね」
ジェリコは非日常な連中を一度見渡した後、肩をすくめた。
「だけど、この旅でしか得られないものもあると思うわ」
フォレンティーナは瞼を伏せた。そして穏やかな声で話し続ける。
「それに気づくか、見過ごすかはジェリコ次第だけどね。解ってると思うけど、時は誰のためでもなく、過ぎ行く青い記憶の残滓のように、振り返って見返すことはできるけど、そのおぼろげな襟をつかんで引き戻すことは絶対にできないわ」
フォレンティーナは色々な分野で造詣が深いせいか、稀にこういった意味深な言葉を綴ることがある。フォレンティーナの詩的な言葉の影響で、一時期ジェリコは詩を書いたこともあった。
「だからいつも世界を意識して、今何ができるかを考えたらいいと思うわ。その積み重ねが、ジェリコが望むその姿へと導いていくのじゃないかしら」
「うん、わかったよ。難しそうだけど」
ジェリコがそう答えると、フォレンティーナは唯一の右目を開き、そっと微笑んだ。
ジェリコは、フォレンティーナに説かれて少し活路が見えた気がした。
自分がとんでもない性質の人間なのはわかった。ならばそれを活かして、自分の夢へと続く架け橋とすればいいのではないか。自分には類稀な力があるらしいのだから、それを利用しない手はない。ならば、それを自分のものにするためには何をしなければならないのか。
――魔術を、学ばなければならない。
予想だにせぬ場所に辿り着いた結論に、思わずジェリコは一人目を丸くしてしまった。
しかし、よくよく考えてみると自分は魔術が引き起こすような奇跡を心の奥底で求めていたのかもしれなかった。孤児院で初めて絵画に魅入られたときの、あの言葉に尽くせぬ感動はまさに魔性の美しさだったではないか。頭を思い切り殴られ意識が吹き飛ぶその瞬間の時間が無限に引き伸ばされ、時を忘れるような感覚。天地を忘れ、自分すら見失い、真っ白な揺り篭の中に叩き落されたような感覚。ただただその美しい世界観(かつての世界にはあったのかもしれないが)しか見えなくなるような感覚。そのような感覚を引き起こす絵画の力――すなわちそれを生み出す画家というのは、様々な奇跡を扱う魔術師と同義ではないだろうか。
そういう意味では、自分が魔術というものに目覚めようとするのは当然なのかもしれない。ましてや常人には無い訳の分からない身体能力を持っているのだ。魔性の存在に惹かれるのは、奇妙な因果だが、運命としか言いようが無いではないか。
――魔術を、学びたい。
絶え間なく盛る夕日のような炎を見つめながら、ジェリコはそんなことを考え始めていた。