#17.旅立ち part4
大空が黄金に輝き始めても、一行は相変わらず歩き続けていた。
黒く伸びる五つの影が草原になびき、大きさがでこぼこなところが今の一行を象徴しているようだ。
ベルガモからはすでにかなり歩いている。先の魔術師以来、刺客からの攻撃も受けず順調な旅路である。ちょうど日が沈むくらいにはベルガモとモンツァの間にある宿に到着するだろう。
「風が吹いてきたわね」
唐突にフォレンティーナが言った。確かにそうで、一時間くらい前から風が吹き始めている。だだっ広い草原ならではの風ではあるが、時折前髪が逆立つほどの突風が吹くことがある。大陸からの季節風なのかもしれない。
「雲も出てきている。宿に着く前に降られると面倒だ。少し急ぐぞ」
続いてアヤジはそういうと歩く速さを少し上げた。後ろに続くジェリコたちも同様に歩く。
この時不穏な気配をジェリコは感じ取っていた。いつもの直感である。この無作法に吹き付ける風と美しい空を隠そうとする暗澹とした雲に、どこか身震いするような気がジェリコに纏わり付いていた。ただ、エメが何も反応しないので取り越し苦労の可能性もあるが。
一行は風が吹き荒ぶハルベー街道を歩く。できることなら日が沈む前に宿に着きたいな、とジェリコは思っていた。
「見えてきたぞ」
前方からアヤジの声が聞こえてきた。どうやら宿の灯が見えたらしい。幸いまだ雨は降っていない。このまま無事に到着できそうだ。
思わずジェリコはほっとため息をついた。流石に今日は歩き疲れた。ベルガモからほとんど休まず歩き続けでいい加減しんどかった一行は、間違いなく宿の明かりを見て一日の終わりを感じ取っただろう。
――しかし、
ヒュフィーーーッ!
そんな気持ちは鳶の鳴き声のような口笛によって切り裂かれた。突然の警笛によって反射的に身構える。
「まさか、宿にいるというのか?」
アヤジがエメの方を振り返りながら言った。エメは険しい顔で頷く。
「数はどれくらいだ?」
アヤジの問いにエメは左の手のひらを右手の人差し指と中指で叩いた。
「流石に数が多いな。どうするか」
「何があったのですか?」
尋ねたのはフォレンティーナ。アヤジは難しい顔で答える。
「間の悪いことに、宿に調査団がいるようだ」
一同に不穏な空気が立ち込める。先ほど調査団については説明を受けていたので、事の重大さはジェリコにも分かった。
「僕たちが宿に来ることが分かっていたのかな」
「いや、それはないだろう」
アヤジはジェリコの言葉を否定する。
「調査団はわざわざ待ち伏せなんてしない。奴らは教会の者だといい、堂々と正面から当たってくるからな。今回は偶然鉢合わせただけだろう」
「で、何人いるのよ?」
言葉は乱暴だが、目は冷静なフェリシアが言った。
「エメが言うには十七人だ」
「十七人って、随分多いのね。十字教会と争ったことが無いから分からないけど、そんなもんなの?」
「こんなものだな。俺とエメは一度調査団と戦ったことがあるが、そのときも二十人くらいだった。聞くところによると、調査団は通常騎士団長二人以上とその配下によって構成されているらしい」
「やっかいね。ジェリコのことを直接知っているとは思えないけど、もし向こうがジェリコの、見た目を知っていたら確実に一悶着あるわね」
言いつつフェリシアは腕を組む。
「ああ。そうなればこちらはかなり不利だ。それに俺とエメがやりあったことのある調査団だと尚まずい。場合によっては調査団の中で俺とエメは手配されているかもしれないし、できるだけ接触は避けたいところだ」
「ち。今日は疲れたんだからベッドで休ませてよね」
フェリシアは憎まれ口を宿に向かって投げつけた。これに関してはジェリコも同感である。
それにしてもジェリコのお荷物感が半端ではない。相変わらず自分の役立たず加減には腹が立つ。おまけにどうしようもないのがさらに拍車をかける。しかし怒りのはけ口は無いので結局ため息をついて落ち着かせた。
アヤジもフェリシアのように腕を組んでしばらく考え込んでいたが、結論に至ったのか重い口をゆっくりと開く。
「今夜は野宿をするしかないだろう。道を外れて少し歩けば森がある。そこで火を焚こう」
フェリシアはわざとらしいほどの大きいため息をつくと、うんざりした声で言った。
「やっぱそうよね……。まぁ教会に因縁つけられるよりかましよね」
そして再びため息をつく。本当に残念そうだった。そして何を思ったか、くりっとした猫目をぎろりと鋭く細めると、宿の方めがけて「ばかやろー!」と吼えたのだった。もちろん周りを警戒してぎりぎりの大声で、である。フェリシアらしいストレスの発散方法だった。
「三人も野宿に依存は無いな?まぁあるといっても強制させるが」
ジェリコ、フォレンティーナ、エメの三人もアヤジの言葉に頷く。それしか道はないのだから強制云々は余計な一言である。アヤジのことだ、分かっているのに言っているのだろう。そういうところがジェリコは嫌いだった。
そのまま一行は街道を右に外れ、ひたすら草原を突き進んでいく。数分歩くと前方に深い緑が視界に入った。それほど大きい森ではない。局地的な森である。
森に近づいてみると、木々の奥は思っているより暗かった。日が落ちると真っ暗になるかもしれない。
そして一行は森に侵入する。草を掻き分けながら中腹辺りまで歩くと、丁度日が落ちてしまった。
「暗いわね」
フォレンティーナがぼそりと言った。ジェリコの予想通り、森の中は蒼い闇に包まれている。草の匂いも伴って全身が森に食われたようである。
「あそこが割りと開けているな」
アヤジが指差す先にはぎりぎり五人が座れそうな空間があった。
その空き地に立って周囲をよく見ると、地面に生えている草がへたれていた。ここは森に入ってきた旅人の溜まり場なのかもしれない。
「火を焚くか。薪を採ってくるからここで待っていろ」
そう言ってアヤジは森の奥へと姿を消した。一人だが心配しなくても無事に帰ってくるだろう。何せあの背中には巨大な化物を背負っているのだから。ちょっとやそっとの事態ではアヤジは動じないとジェリコは思っていた。
ジェリコは口から溜まりに溜まった疲れを吐き出しながら腰を下ろす。固い地面とはいえ、立っているときより何倍も楽である。精神はともかく、体は予想以上にくたびれていた。
ジェリコが一息ついていると、隣のフォレンティーナも腰を下ろした。次いでエメも座り込む。
あの口喧しいフェリシアはというと、
「……何してるの?」
思わずジェリコは呟いてしまった。
フェリシアは向こうの方で何やら草むしりをしていた。小ぶりなお尻をこちらに向けてごそごそと草をいじっている。
フェリシアはジェリコの声に気づくとこちらに顔を向けた。
「見れば分かるでしょ?薬草を探してんのよ」
フェリシアはそう答え、「あんたも手伝ってよね」と一言付け加える。見ても薬草を探しているとは分からないだろうと胸の中で呟きつつ、ジェリコは手伝うことにする。
フェリシアの傍らに行くと、すでに緑の束がもっそりと山積みされていた。まさかこれ全部食べられるのだろうか。
「あ、それは調合用のアベラベという毒草よ。食べたら体が麻痺するわよ」
「え!」
葉をひらひらさせたり匂いを嗅いだりしていたジェリコは、何の変哲も無い葉を思わずまじまじと見つめてしまった。よりにもよって毒草を弄んでいたとは……。そういうことは最初に言ってもらいたいものである。
ジェリコの驚いた様子を一瞥すると、フェリシアは山積みの毒草を麻の袋に乱暴に詰め込む。そして一つの草をむしりとってジェリコに見せた。
「これはルジオという薬草よ。葉には体の血行を良くしてくれる作用があるわ。野草の中じゃ栄養価も高いし、野宿にはぴったりなのよ。根っこは駄目だけど茎は食べれるわ。シャキシャキして結構美味しいわよ」
ジェリコは黙ってフェリシアの解説を聞く。野草のことなど露も知らないジェリコにとって興味深い話である。話を聞く限り、フェリシアは野草に関して随分詳しいようだ。よく分からないが錬金術にはそういった知識も要るのかもしれない。
「あんたはこのルジオを探して摘んできて。どこにでも生息する植物じゃないし、摘める時に摘んどきたいのよ。どうせこれから野宿が増えそうだから丁度いいでしょ」
フェリシアはそう言うとルジオをジェリコに渡す。
「それを見ながら摘んできなさい。匂いも独特だから分かりやすいでしょ」
ルジオを鼻に近づけてみると、確かに、鼻の奥がすっとするような香りがする。
「あたしはこっち側を探すからあんたは向こう」
フェリシアとは反対側を探すよう命じられる。ジェリコは頷くと早速ルジオの葉を探し始めた。
空き地周辺をまんべんなく調べてみると、ルジオらしき植物は意外とたくさん生えていた。木の根付近によく繁殖しており、木から栄養をもらって育つのかもしれない。葉に鼻を近づけて匂いを確かめると、やはりすっとする香りがした。ジェリコは一つ二つと、ルジオを摘むと片方の手に貯めていく。
それにしても草いじりなんて随分久しぶりだが、自然と戯れるのは楽しいものである。孤児院にいたころは登山とか散歩とかに仲間と共に出かけていたが、ベルガモで暮らし始めるとすっかり酒場一色になってしまった。だからだろうか、自然に触れるのはどこか懐かしい感じがした。
そして酒場という言葉が脳裏によぎった瞬間、ラ・メールの住人達が、ベルガモの友人達の顔が浮かんできた。
ジェリコは思わずベルガモの方角を振り返ってしまう。黒い孔のような暗がりを歩いて森を抜ければ、まだベルガモに引き返せる距離なのがいじらしい。覚悟を決めたはずの心がぐらりと揺らいだ。人の心なんて、弱いものである。
しかし、ここで逃げては何もかも失ってしまうだろう。あらゆる人の心を、自分自身をも裏切ることになる。それは自分で自分を殺すのと同じことだ。
「……そんな馬鹿なこと、できるわけないじゃないか」
己に言い聞かせるようにジェリコは呟く。愛しいものを思い出してはならないのに、そう思えば思うほど思い出してしまう。この矛盾がとてつもなく辛かった。
「あんた、なんで泣いてんの?」
びくりとして振り返ると、フェリシアが腕を組んで仁王立ちしていた。
「な、泣いてなんかいないさ」
ジェリコは焦って目を乱暴に拭うと、その手は濡れており確かに涙を流していた。知らない間に泣いていたのか。
フェリシアは眉毛をハの字にしながらジェリコを見つめていると、ため息をついた。
「あのね、草をむしりながら泣くなんてみっともないったらありゃしないわよ。で、ルジオは見つかった?」
フェリシアの問いにジェリコは左手を見せる。ジェリコが摘み取ったルジオを確認すると、フェリシアはふむと頷く。
「じゃ、あんたはもう休んでいいわ。ほら、シャキッとしなさいよ」
情けないわね、と言いながらフェリシアはジェリコの肩を軽く叩いた。フェリシアなりに励ましてくれているのかもしれない。
――なんて思っていると、
「そんなに隙を見せていると後ろから刺すわよ」
ぞくりとする言葉を吐くのである。背筋に冷たいものがつぅっと流れた。
しかしおかげで幾分気持ちがすっきりしたというか、気が引き締められた。
ジェリコは立ち上がってフェリシアを見据えると、その猫のように生意気な瞳を見つめる。
「僕は死ぬわけにはいかないんだ。みんなとの約束があるから」
フェリシアは腕を組み、思いの他澄んだ瞳でジェリコを見つめ返す。
「ならメソメソすんじゃないわよ。格好つけるのもいいけどね、あんたは気持ちがついてきてないの。中途半端なのよ」
痛いところを突かれる。ジェリコは思わず言葉に詰まってしまった。
黙りこんだジェリコを見かねたフェリシアは、はぁ、とため息をつく。
「自分が本当に何をしたいのか、何をすべきなのか、もう一度考えなさい。あたしに一言物申すなんて千年早いわよ」
フェリシアはそう言うとジェリコに背を向け、一人森の奥へと歩いていく。木々の枝を見上げているところからすると、木の実を探している様である。
ジェリコはフェリシアに何を言うでもなく、その言葉を噛みしめた。何がしたくて、何をすべきなのか。……なぜか、答えられない。
世界を絵で助ける。だが、そんなこと本当にできるのだろうか。
俯いて考えながら空き地に戻ると、そのまま座り込む。
「口は汚いけど、割と素直でしょ?あの子」
ジェリコの隣にフォレンティーナがやってきた。先ほどの言い合いを聞いていたのだろう。
「でも、ストレートすぎるよ。アヤジといい、フェリシアといい。疲れる旅になりそうだ」
言いつつジェリコは寝転がった。横になると一気に体が楽になる。
「私達が小さい頃も、疲れるようなことばかりだったじゃない」
フォレンティーナが懐かしむように言った。
「そうだけど、楽しさの方が上回っていたから疲れはあまり感じなかった」
「それはどうして?」
「そりゃあ信頼できる仲間と一つのことをやるっていうのは、凄くやりがいがあって楽しいからさ」
「なら、今回の旅もそうなるようにしたらいいじゃない。自分から寄り添っていかないと。努力するのは得意でしょ?ベルガモで何があったのか知らないけど、変わったわね、ジェリコ」
「そうかな……」
ジェリコはそう呟いて目を閉じた。自分から寄り添う、か。確かに、最近かどうか分からないがベルガモで生活を始めてから何かとジェリコは自分の意思を貫こうとしていた。そもそも孤児院を飛び出した理由も理由だ。世界的な絵描きになるといって飛び出たくらい、元々自分はわがままなのだ。それ以来フォレンティーナとは会っていないし、変わったと言われるのも当然だろう。
だが、人の意思は変動していくものだとも思う。それは変わり行く時代、歴史をみれば当然だ。
しかし、貫き続けなければならないものもあるとも思う。それが何なのかジェリコには分からない。セブロに教わった寛大であれ、という教えなのか、紳士の背中が語った誇り高き意志なのか。それとも自分自身でそれを見つけること、その行動が自体が重要なのか。
――分からない。
結論が出ないまま、逃げるようにジェリコの意思は闇に沈んでいった。