#12.幕開け part2
広間を片付けた後、ジェリコは二階から降りてきたドメニコを呼び止めて事情を説明した。もちろんジェリコの血が狙われているとか、怪しげな連中と旅に出るとかは伝えていない。以前から話していた、絵描きとしての技術を向上させるための旅に出ると伝えた。
ドメニコとの話し合いの途中、アンナも話し合いに加わった。アンナは無言でドメニコとジェリコの話を聞き、時折頷いていた。方針はドメニコに任している様子だった。
ジェリコの話しにドメニコは始終渋い顔をして聞いていたが、ジェリコは最近の描いた絵の評判や新しい発想を求めている旨を説明し、なんとかドメニコの首を縦に振らせた。
ただしそれには条件が三つ付けられた。一つ目は必ず帰ってくること。もう一つは定期的に手紙を書くこと。三つ目は帰ってきたら店に飾る絵を描くこと。ジェリコはその条件を快く引き受けた。
「流れる血は違えど、お前はラ・メールの家族だ。旅に出るからには必ず帰ってこい。いいな」
ドメニコのその言葉にジェリコは泣きそうになった。ドメニコとアンナがジェリコのことを心配していることが嬉しかったのだ。
だが、そんな気持ちの裏側には、二度と会うことができないかもしれないという悲しみの念も込められていた。複雑な感情を歪に変形させながら、ジェリコは二人の了承を得たのだった。
ドメニコとアンナを説得した後、ジェリコは二階へ行きダニエラの元へ向かった。ドメニコと話しをしている間、ダニエラは一度も下に下りてこなかった。涙の件もあり、ダニエラに伝えなければならないことがたくさんあった。
「ダニエラ?」
言いながらジェリコは黒ずんだ木の戸をノックする。乾いた音が心の奥まで響いてくるようだった。
――数秒経ち、ジェリコはもう一度ノックしようとする。
「どうぞ」
その瞬間を見計らったように、こもったダニエラの声が戸越しに聞こえてきた。抑揚の無い、水のように無色な声のせいでジェリコは思わず硬直した。
ジェリコは一度深呼吸してからノブに手を掛け、ゆっくりと開いた。
「……ダニエラ」
部屋の奥には、椅子に座って窓の向こうを眺めているダニエラの姿があった。
朝だというのに妙に黄昏ていて、まるで魂が抜けてしまったように空虚な気配を纏ったダニエラは、ジェリコの方は向かずただひたすら窓の向こうに広がる大空を眺めている。声を掛けなければそのまま飛んで行ってしまいそうなほど、覇気が無かった。
ジェリコは部屋の中へ一歩を踏み出すと、そのままダニエラの傍まで歩いた。
ようやくこちらを振り向いたダニエラは、眉をひそめ、困ったような顔をしていた。
「ジェリコ……」
ダニエラはぽつりと呟く。捨て猫のように寂しげで、か弱い声だった。
ジェリコは丁度近くにあった椅子に腰掛けると、ダニエラの目をじっと見つめた。
「ダニエラ、さっきはごめん。許して欲しい」
ジェリコの言葉にダニエラはそっぽを向いた。朝日に輝く金髪が儚げに揺れ、
「気にしてないわ。大丈夫」
そんなことを言うのだった。ジェリコはじっとダニエラを見つめながら話を続ける。
「この数年間、いつもダニエラは僕を助けてくれた。ラ・メールで働けるようになったのもダニエラのおかげだし、今までまともに言ったことなかったけど、本当に感謝してる。ありがとう、ダニエラ」
ダニエラはゆっくりとジェリコの方を向いた。その青い両目には涙を湛えている。
「ジェリコ、私は……」
「さっきも言ったけど、僕はダニエラに恩返ししなくちゃならない。いや、まぁ、恩返ししなくちゃならないのはダニエラだけじゃないんだけど。ごめん喋るの下手で」
ジェリコは頭をかきながら、つい足元に目をやった、白く細いダニエラの足首が目に入り、どきりとした。どうもダニエラと話すときはいつもようにいかない。妙に緊張してしまう。ドメニコと話しをしていたときはこんなこと無かったのだが。
ジェリコはなんとか再び視線を戻した。ダニエラは真っ直ぐにジェリコを見据えている。
「だからその、なんていうか」
一度言葉を切ってから続ける。ダニエラの視線が厳しい。
「僕は旅に出る。だけどみんなから貰ったものを返さなきゃならないんだ。僕は紳士を目指しているから」
それは幼い頃の幻だったのかもしれない。まどろんだ夢かもしれないが、今でもその姿に憧れている。自分を許容してくれる唯一の光のように。
「だから、僕は必ず帰らなきゃならない。恩返しするために」
なんとか言い切る。
「だから、安心して」
さらに「泣かないで」と言おうとした時、
「ごめんなさい。私……」
先に釘を刺された。ダニエラは口を手で覆い、嗚咽を隠しながら涙を流している。
なぜダニエラはジェリコに過干渉するのか。なぜこれほどまでに過剰に反応するのか。ダニエラが秘めている謎は尽きないが、いつの間にかジェリコはもうそんなことどうでもよくなっていた。
――だから、抱きしめる。
「……ジェリコ?」
「泣かないでよ。ダニエラが泣くのは、嫌だ」
椅子に座っているダニエラの身長は丁度ジェリコの頭一つ分低い。ダニエラはジェリコの胸に顔をうずめる形になった。
あまり厚くないジェリコの胸板にダニエラの顔が沈む。いつもと逆だ、とジェリコは思った。
ダニエラを抱きしめていると、彼女の気持ちが何となく伝わってくるような感じがした。寂しさ。焦り。束縛。
ダニエラにはやすらぎが必要だ。どんな間違いがあろうと、それだけは確かである。ジェリコは確信していた。
しかしそのためにはジェリコは離れなければならない。彼女の心の枷になっているのはジェリコの存在だ。ジェリコがいる限り、ダニエラの気持ちが穏やかな草原のようになることは無いだろう。
間のいいことに、ジェリコは今日ベルガモを発つことになっている。ジェリコとダニエラは嫌でも離れる運命に置かれているのだ。因果なものだとジェリコは感じた。
「ありがとうジェリコ。もう大丈夫」
ジェリコの胸から離れたダニエラの顔は、腫れ物が落ちたようにさっぱりとしていた。いつもの柔和な顔とは少し違い、今まで背負い続けていた荷物をようやく降ろしたときのような気配に満ちていた。
「ジェリコ。必ず帰ってきて」
ダニエラはいつもの年上からの目線で綴った言葉ではなく、同じ高さからジェリコに話した。
「待ってるから。父さんも、母さんも。みんな」
ジェリコはダニエラの言葉を噛みしめながら深く頷いた。
「もちろん。僕は紳士を目指している。約束は必ず守るよ」
ジェリコの言葉に、ダニエラはようやく笑顔を浮かべた。影のない、文字通り輝くような笑顔だ。
ジェリコはその顔を待っていた。つられてジェリコも笑ってしまう。やはりダニエラに悲しげな顔は似合わない。笑っていないと。ダニエラはこうでなくちゃならない。
「それじゃ僕は部屋に戻るよ。荷物や部屋の整理をしておかないと」
「わかったわ。何か手伝えることがあるなら言って。私はもう少し」
ダニエラはそこで話し終えると再び窓の外を見た。
「こうしていたいから」
窓の外にはベルガモの町並みが広がっている。赤茶の屋根がずらりと並び、空には渡り鳥が気ままに飛んでいる。商人や子供の声がダニエラの部屋まで届くあたり、今日もベルガモは活気に満ち溢れているようだった。
ここからの景色は決して良いわけでもないが、慣れ親しんだ街を眺めるのは悪くない。景色の一つ一つにはかつての思い出がたくさん保管されており、その本棚から記憶を取り出しパラパラとめくると、懐かしさについ心が温かくなる。
おそらく今、ダニエラもそんな気持ちなのだと思う。ジェリコとの思い出を抱きしめているのかもしれない。
「それじゃ、また」
ジェリコは最後に声を掛けると、静かに部屋を出て行った。ダニエラはただ穏やかに窓の向こうの青空を眺めていた。