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#10.夜明け part2

 ラ・メールに戻り、ぼそぼそのパンとチーズを一人頬張りながらジェリコはラ・メールの広間をぐるりと見回した。ところどころ染み付いた木の壁やブドウ酒の匂い、椅子やテーブルの跡がついた床を見ていると、懐かしい記憶が体の奥から沸いてくる。

 六年の間、この店でジェリコは泣き、笑い、日々を過ごしてきた。それはとても温かくて優しくて、心地の良いものだった。

 仕事を始めて間もない頃は、酒場の仕事に慣れずに注文を間違ったり料理をこぼしたりして随分と迷惑をかけたっけ。それから客に酒を無理やり飲まされぐでんぐでんに酔っ払い、意識を失ったこともあった。アドリアンに出会い絵画の歴史や技術の勉強をさせてもらったし、アルドンの露天の手伝いをして小遣い稼ぎもやった。マドックの船に乗って大海原に沈む夕日を眺めた。そのときに描いた絵はたまたま居合わせた船乗りに買ってもらったんだっけ。他にも読書家から読み終えた本を恵んでもらって読み書きを学んだり、異国から来た行商人から旅の話を聞いたりして世界の広さを学んだ。ジェリコは知識を得ることで、描く世界観に現実感を増すことできた。そのお礼に一段階向上した技術で描いた絵を額に入れて渡したこともあった。ラ・メールにやってくる人間たちは、ジェリコにとってあらゆる方面の先達であり、ジェリコという人間の道しるべだった。ジェリコの異様に素早い判断力は、彼らがもたらせた様々な知識に裏付けられたものなのかもしれない。

 そしてなによりジェリコという人間をここまで運んできてくれたのは、ダニエラの援助があったからだ。

 そもそもラ・メールで働くことが出来たのはダニエラのおかげである。ダニエラの一言がなければ、今のジェリコは絶対に存在しなかっただろう。

 ジェリコが働き始めてからも、ダニエラは先輩としてジェリコに仕事を教えてくれた。注文の取り方や料理の運び方、客との接し方などだ。他にもモンツァから流れてきたジェリコを街に溶け込みやすくしてくれたのもダニエラが一枚噛んでいた。これに関しては豪快な性格のマドックがよくジェリコを連れまわしたの原因だが、時折ジェリコの傍にいたダニエラのおかげで、より馴染み易くなったのも事実だ。

 そしてダニエラはジェリコの絵をよく見てくれた。作品というのは、見てくれるものがいてこそ価値がある。部屋に閉じこもり、誰の評価も受けず一人黙々と絵を描いていたジェリコを、今の開放的な描き方に修正してくれたのもダニエラだった。時折孤児院で描いていたものと今の絵を比べるが、技術抜きにして明らかに作風が変わっていた。方向性が大きく変わっていたのである。孤児院の頃は攻撃的なものをよく描いていたのだが、ラ・メールで働き始めてからは風景画や人々が笑っている絵を描くようになった。人々を絵で幸せにするのがジェリコの夢である。人間の温かみがある絵の方が、方向性としては合っているだろう。

 そんなジェリコの姉のような存在だったダニエラとも別れなければならないと思うと、ついため息が出る。身を裂くような思いとはこのような気持ちを言うのだろうか。孤児院を去るときも自分の一部を置いていくような一抹の寂しさがあったが、それとは別の辛さをジェリコは抱えていた。だが、それを言葉に表わす術をジェリコは知らない。まだまだジェリコは無知だ。嫌というほどに。

 もう一度ため息をついたとき、二階から人が降りてくる気配がした。こつこつと響く足音を聞くだけで誰か分かるほど、ジェリコはラ・メールに馴染んでいることにたった今気づいた。

 振り向くとあくびをしているダニエラが目に入った。眠そうに瞼をこすりながら、ゆっくりと階段を下りてくる。ジェリコはパンを一気にかきこんで飲みくだすと、

「おはよう、ダニエラ」

 ダニエラより先に朝の挨拶をした。

 若干寝癖のあるダニエラはジェリコに気づくと「おはよう」と返した。だがその声にいつもの張りはなかった。もともと風邪気味だったこともあるし、昨日は一日中動きっぱなしだったのだから無理も無い。

「あの、ダニエラ。少し話があるんだけど」

 ジェリコはダニエラに礼を言う義務がある。そして、これからのことを伝えなければならない。二度と会えなくなるかもしれないということを。

 ダニエラはジェリコの言葉に頷くと、

「丁度いいわ。私も話したいことがあったから。その前に顔を洗ってくるからそこに座ってて」

 そう言ってジェリコに背を向け、すたすたと玄関へ歩いていった。

 ダニエラの話とはなんだろう。見当がつかないが、あまり良い予感はしない。アヤジに出会ってからどうも憂鬱な考え方をするようになった。悪い傾向である。

「それにしても、どこから話すべきか」

 ジェリコが抱えている事情をそっくりそのままダニエラに言うのは得策ではない。おそらくダニエラは信じないだろうが、万が一信じた場合、旅についてくる可能性がある。そうなってしまっては本末転倒である。なんとかダニエラに心配させずに話す方法は無いだろうか。

 下手な嘘はまず通用しないだろう。画家として腕を磨くために出かけてくるといっても説得力に欠ける。何せアドリアンの話を断ったのだ。今更絵を描く技術云々という話は避けたほうがいい。

 ではモンツァの友人を訪ねるという話はどうだろう。ダニエラは危険だ、といって聞かないだろうがアヤジとエメという同行者を連れていると言えば問題は無いだろう。アヤジ達は昨日の酒場で知り合い、意気投合してモンツァへ行くこととなったとでも説明すればいい。

 ただ、彼らと話している最中に倒れてしまったところや、その後の展開をジェリコ知らないという点が少々怪しい。ジェリコが気を失った後、アヤジとダニエラが何らかの話をした可能性がある。そのときに妙な話しをしていたら、ジェリコは嘘をついているということを容易く看破されてしまう。

「うーん」

 妙案が思い浮かばない。いっそ素直に全てを話してしまうべきか。

 思い悩んでいると、がちゃりという音がした。ダニエラが帰ってきたようである。

 はっとしてそちらの方を向くと、さっぱりとした顔のダニエラが歩いてくる。もはやこれまでか。

 ダニエラはジェリコの斜め前の椅子に腰掛けた。そして左手で頬杖をつくと、

「で、話って何?」

 青い瞳から放たれる穿つような視線を、真っ直ぐにぶつけてきた。

「実は」

 一瞬、一から十まで説明しようという気がよぎった。だが、

「今日あたり、モンツァへ行こうと思うんだ。行って仲間に会いに行く。そして、そのまましばらく旅に出ようと思う」

 頭で考えるより先に、喋っていた。

「今日モンツァへ?そしてそのまま旅に?また唐突なことを言うのね」

 ダニエラは目を丸くさせて驚いた。

「うん。祭りも終わったし、丁度いいかなと思ったんだ。旅に出たいというのは、前から言っているように少しでも見聞を広めようと思ったんだよ。長くて一年。船に乗って行こうかとも思っている」

 我ながらよくもこんな口から出任せを言えるものだと思った。半分くらいは本心ではあるが、それにしても嘘を見抜けることができる自分が人に嘘をつくとは、実に酷い。吐き気がした。そもそもダニエラに対してこんな心理戦のようなものを仕掛けるのが嫌だった。自分で自分を傷つけるような気がしてくる。

「そう。でもモンツァの友人に関しては、問題ないわよ」

「どういうこと?」

 ダニエラはよく分からないこと言った。

「私が話したかったことはモンツァのこと。昨日、モンツァへ行ってジェリコのお友達に会ってきたわ」

 予想外の展開に、ジェリコは固まってしまった。ダニエラはそのまま話し続ける。

「知り合いに孤児院の主であるセブロさんを知っている人が居て、その人づてで会いに行ったの。そしてセブロさんを通じてお友達の居場所を聞いて、一軒一軒尋ねて周ったの。おかげで帰るのが随分遅くなったけどね」

 なんということだ。ダニエラはジェリコの代わりにわざわざモンツァへ行って友人たちに会いに行ったという。信じられない。

 しかしジェリコが持つ例の意思はダニエラの言葉を肯定している。だから尚更信じられなかった。

 なぜダニエラはここまでジェリコに優しいのか。彼女が危険を冒したことよりも、このことの方がジェリコは気になった。ついこの間も思ったが、いい加減怪しかった。仲が良いとはいえジェリコは赤の他人である。家族でなければ血も繋がっていない。それにも拘らず、ダニエラは家族以上とも思える情をジェリコに与えてくれる。言いたくはないが、ダニエラはジェリコに対して異常な感情を持っているとしか言いようがなかった。

 それを裏付ける理由は今回の件のみで充分である。まず、危険だと承知の上でモンツァへ向かったこと。若い人間が次々に失踪しているというのに進んでその中に飛び込んでいくのは愚の骨頂だ。賢いダニエラならば尚更ありえない行動である。しかし事実モンツァへ行ったという事は、それだけの危険を冒してまでジェリコのために行動をするのは正直妙だ。

 それから、時間的にダニエラは早馬を使ったと判断できるのだがこれには大きな問題がある。なにせモンツァへの早馬は非常に金がかかるのだ。最低でもここからモンツァへ早馬を使えば銀貨七枚はかかるだろう。往復で十四枚。ちなみに、銀貨十四枚分とは三食付で一月近く過ごせる。そもそも早馬とは本来貴族が移動用に使ったり、緊急時に使うものだ。街酒場の娘が早馬を手配するなど、親の死に目になんとか間に合わせるときくらいしか思い当たらない。ジェリコが一刻も早く友人たちの現状が知りたいということと、できるだけ酒場の運営に迷惑にかからないようにするために早馬を使うのはあまりに常識はずれな行動だ。断言するが、赤の他人に銀貨十四枚を使うなんて贅沢、貴族ならいざ知らず常人ならば絶対にしない。

 次に、モンツァへ到着してからの行動。聞いた話からするとまずセブロのところへ行き、その後街に散らばった仲間のところへ向かったはずだ。ベルガモと比べてモンツァは小さいが、それでも女の足で歩くには充分な大きさを持つ。おそらくは一日中休まず街を駆けずり回って友人達を訪れたと考えられる。そんな銅貨一枚の得にもならない苦労など、普通の感性を持った人間ならば絶対にしない。

 思わず考え込むジェリコをよそに、ダニエラは穏やかに微笑みながら話を進める。

「それで、モンツァに住んでいる友人はみんな無事だったわよ。ジェリコのことを話すと懐かしそうに笑っていたわ。そうそう、たまには帰って来い、ってセブロさんが言っていたわね」

 友人達は無事だったらしい。まぁ冷静に考えてみれば、ちょっとやそっとでくたばるような連中ではない。共に死線を乗り越えてきた仲だ。彼らの生命力はジェリコがよく知っていた。

「それから旅に出る、って話だけど、絵を描く腕を磨くのが目的ならアドリアンさんの話に頷けばよかったのに」

 ダニエラは予想通りの返答をしてくる。ジェリコは饒舌に返す。

「前にも言ったけど、著名な画家であるティッツアさんに会えるというのは大きな経験になる。けど、僕はまだ未熟だから彼が話すことを理解しきれるかどうか分からない。それに、僕が絵に対して求めているものは、ティッツアさんはどうか分からないけど、少なくともアドリアンさんとは方向性が違うんだ。だから断った。おそらくこの気持ちはいずれ変わっていくと思うけど、今は自分のわがままに従いたかったんだ」

「そう。まぁジェリコがそう言うのなら私は何も言わないわ。けど、旅に出るってどういうこと?突然過ぎるわ。何かあったんじゃないの?」

 この展開はまずい。やはりダニエラを説得するのはちょっとやそっとの嘘で言いくるめるものではなかった。

「何も無いさ。最近絵を描くのが行き詰ってて、気分の入れ替えをしたいんだよ。だから旅に出て色々なものを見て、心機一転して絵を描きたいんだ」

「それはモンツァに行かなければならないの?」

「いや、モンツァへは行かない。友人が無事なのは分かったから、北のロンバルディに向かう」

「でも船に乗って行くんじゃなかったの?」

「ああ、まぁそれは確定した話じゃないから」

「そんなあやふやな計画で旅ができると思ってる?甘いわよ」

 ジェリコは完全に墓穴を掘っていた。段々とダニエラの顔が険しくなっている。

 ダニエラの視線に射竦められたジェリコは思わず視線をそらし、黙り込んでしまった。馬鹿。これでは何かを隠しているということを示しているようなものだ。

「……何か、隠しているでしょ」

 案の定ダニエラは尋ねてきた。必死に頭をめぐらせるが、妙案は出てこない。どうやらここまでのようだった。元々嘘をつくのは苦手である。ましてや相手が相手だ。ボロだすのは必然だったのだろう。

 ジェリコは観念してため息を一つつくと、素直に話すことにした。

「実は昨日――」

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