奥に光が灯る町
1
仕事を終え家に帰りついた私は帽子をいつもの場所に置き、脱いだ靴を揃えた。ネクタイをゆるめながら中へ入ると箪笥を開き、浴衣を出して早々に着替える。
「やっぱりこれが一番だなあ」
全身をうんと伸ばして体の力を抜き、台所に水を飲みに行くと台の上に『冷蔵庫に麦茶あり』と書かれた紙が置いてあった。飛ばないように文鎮をのせてある。冷蔵庫を開けるとガラスの瓶に入れて麦茶を取り、コップに移すと一気に飲み干した。それから奥の部屋に行く。妻はいつもの部屋で何かを縫っていた。
「帰ったぞ」
私の声に気づいた喜美恵は手を止めてこちらを向き「お帰りなさい」と微笑んだ。
「上の電気をつければいいのにお前はいつもその行灯だな」
部屋全体が明るいよりは自分のすぐそばに向く灯りに照らされる方が心穏やかになれると以前言っていたのを思い出す。喜美恵のすぐ横に腰を下ろすと彼女の頬に手をあてた。そうすると嬉しそうに笑う。私が部屋に入った時の強張った様子はなくなっていた。一人でいる時間にどれだけ彼女が不安なまま過ごしているのかが一瞬で見て取れる。彼女を不安にさせるのは生まれた時から目の周りにあったという痣の影響が大きい。ほくろのひとつで囃し立てるような輩が多くいた村から離れる私とこの土地に共に来てくれた。ここの者たちは気にはしてもそれをからかったり嘲笑うような者はいない。
わん!と外から犬の声がした。その声が聞こえると喜美恵はさらに表情を崩した。そして私を見てから立ち上がり、掛けてある羽織を羽織って玄関に言った。出掛ける時でないと帯は閉めずに着物は腰ひもでとめるだけで過ごしているが、来客があるとこうやって迎える。小走りとまではいかない早さで部屋を出て移動する妻に私はゆっくりと着いて出る。それが習慣となっていた。
「けんちゃん」
茶色と焦げ茶が混じったような毛をした犬がいつものように首輪に繋がれた紐を振り切って駆け寄ろうとするが飼い主の翁はそれくらいで手を離してしまうほど非力ではなかった。筋肉質なのが目に見えてわかる。犬のけんに動揺することなく体が揺れることもなく連れていられるこの翁は私などには到底辿り着けない力を持っている。
「灯治〈とうじ〉さん、今日はちゃんと帰ってたか」
妻に飛びついて顎を舐め続けるけんをちらりと見ながら私は翁に挨拶をする。
「玄三郎〈げんざぶろう〉さんがいらっしゃる時にいなかったことなどないでしょう」
私は笑った。
「いやいや、わからんぞ。けんの散歩は朝にも昼にもしている」
肩を揺らして声にならない声で笑うこの翁はいつも、一人で不安がっている喜美恵の様子を見にきてくれている。喜美恵とけんが大の仲良しだから出来ることだ。そうでなければ穏やかで優しい口調の翁とはいえ妻が気を許すには何年も必要だったはず。こちらで話しているのを気にもせずに犬のけんと共にはしゃいでいる姿は小さい子のようでとても愛らしい。
「昼に私がいるのは休みの日だけでしょう」
玄関の戸の横にある柱に寄り掛かると私は右の握っていた手を少し曲げて人指し指だけ伸ばし翁に向けた。それをすると必ず玄三郎さんも私に向かってそれを返しす。これは私がいない間に妻がいつもの平穏な時間を過ごしていたことを知らせてくれる合図だった。内緒だぞと翁が合図してくれたのが始まりだった。その時には言葉にもしていたのが二度目からは仕草だけになった。それがなんとも愉快でならなかった。喜美恵はそのことにまったく気づいていない。けんの喜びっぷりに自身がさらに喜んで、翁が自分の様子を見にきてくれたいることにまったく気づきはしない。そういう純心なところが子供の頃からかわらず愛しい。
「じゃあ散歩の続きに行ってくる」
一通り喜美恵とけんが戯れる様子を一緒に見ると玄三郎さんはさらりと背を向けて道に戻った。行ってらっしゃいと私と妻が言うと翁は背中のまま片手を上げ、けんは振り返ってわんと鳴き道を行った。その姿をしばらく見ていると通る家から計ったように人が出てきて玄三郎さんに話しかけていた。けんは飼い主と誰かが喋っている間ずっとおとなしく座って見つめていた。
2
休みの日に妻が気持ち良さそうに昼寝をしているのを見てから散歩に出掛けると、小さな子供が「じいちゃん」と何度も言っている声が聞こえてそちらを見ると玄三郎さんの腕を掴んでぐるぐると回りながら笑っている女の子がいた。あれは玄三郎さんの孫娘だ。私たちがこの土地に引っ越してきて近所の方々に挨拶に行った時、玄三郎さんの家で翁の後ろに隠れてこっそりこちらを見ていたのを思い出す。私と妻を交互に見てその視線が私に止まったと思うと何か素晴らしいものを発見したように目を輝かせて
「けんちゃんのお父さん」
と指差した。
翁が確かに似ているかもしれぬと笑うので似た人が近くにいるのかと聞くと彼は草履をはいて庭を指した。歩いて行く後ろを着いていくとまだらになった濃い茶色の凛々しい犬がいた。その犬の家の入り口に『けん』と書かれていた。それを見て先程までの緊張が急にとれ笑いが溢れてしまった。
「可愛い」
斜め後ろで妻がぽそりと喜ぶ声をしたもので振り返ると不安も緊張もまったくなくなっていた。あの不安がりの喜美恵が初めて訪ねた所でそんな風になったことに私は大層驚いたが、それを上回って驚いたのが翁だった。凛々しく座っていたけんが突然立ち上がり尻尾を大きく振りながら喜びの顔になり、妻を見つめてこちらに来たがったからだ。
「これは珍しい。家族以外にこんな風にはならない奴なのに」
それを聞いた妻はさらに嬉しそうにする。触っても良いか聞いてからけんに近づき、しゃがんで両手を出すとけんも同じようにして抱き合った状態になった。けんは初めて会ったと思えない勢いで妻の顔を舐めている。
「奥さんはずいぶん犬が好きなんだなあ。動物はそういうのがわかると言うし」
私は首を傾げて思い起こしてみるが特に犬が好きだった記憶はない。それを伝えると
「おお、なら一目惚れだな。ご主人気をつけないと持っていかれてしまうぞ」
と愉快そうに腕をくんだまま笑った。雪がちらつき始め「冷えると思ったら雪か」と翁は半纏の袖に両手を入れた。
「挨拶は雪がやんでから行くといい。けんの散歩の時に近所の奴らには伝えておくから」
おお寒いと言いながら翁が孫娘を家の中へと促す後ろを着いて出る。けんが行っては嫌だと必死に妻にすがりついている。
「けん、やめなさい。またすぐに会えるから」
翁は妻にけんの散歩の時訪ねても良いか確認してから玄関に入り、またなと手を上げた。孫娘も手を振っていた。少し行ってから見返すと道まで出てきてあの子は何度も両手を上げて振っていた。
3
「お花畑でけんが鳴くぅ」
玄三郎さんの孫娘が花咲かじいさんの歌の歌詞をけんの日常に替えて歌っていた。
「遊ぼう遊ぼうと白鷺に 雀は数匹 背ぇでうたた寝中」
実際にその様子を見たことがあったので吹き出して笑ってしまった。それで二人は私に気づいたらしくあいている方の手を振った。私は軽く頭を下げる。
けんは何かに夢中になっている時には他のことにまったく気づかない。雀はずっとそれを見てきたから知っているのだ。それに自分達を食らおうとはしないこともわかっているようだった。きっと他にもたくさんけんを歌ったものがあるのだろうなと思いつつ、即興のものならば大抵は覚えていまいとあえて聞くことはしなかった。自分がそうだったからだ。
「喜美恵さんは昼寝中か」
こちらがうなずくと、そんな時間かと翁は空の太陽の高さを見た。一緒に見上げると燕が見えた。そういえば子育ての頃だ。昨年巣立って行った燕たちは戻ってきているのだろうか。今見た者がそのどれかだったりするだろうかと空を見上げたまま考える。この土地にで初めて迎えた春の、思い出の燕たち。
「大丈夫だ。燕は必ず帰ってくる」
翁の声が小さく入ってくる。
「あ!けんちゃんのお父さん、うちのお隣さんが鶏を飼い始めたんだよ」
ほう、と私は顔を向ける。翁の真似をしようとしているのだろう、人差し指一本を立てているが角度が少し違う。
「でも鶏じゃなかったの!」
可愛いから良いけれど…と赤い頬を膨らませているのは恐らく翁のへの字口を真似ているつもりなのだろう。よく聞くとふわふわしていて小さい黄色い鳥だったらしい。
「それはひよこじゃないかな」
さっきのままの顔でみんなそう言うと答えて頷いた。何がそんな顔にしてしまっているのかわからなくてしばらく聞いていてなるほど理由がわかった。
「ひよこは鶏の子供だよ。燕の子供が親と違う姿をしているのと同じだ」
するとこの子はぽかんと口を開き、そうなの?と表情だけで言っていた。玄三郎さんは口の両端を上げて肩を揺らしながら笑っている。そこに昼寝から起きた妻が探しにきたので妻も混じって四人でしばらく話した。その間、翁の孫娘はじっと妻を見つめ続けていた。
4
少し前からすれ違うこの町の人たちからよく話しかけられるようになった。翁の隣家の鶏の子を見に来たと言っていた。可愛い、可愛いと口々に言ってそこの庭から出てくる人たちと妻は毎日のように出会い、満面の笑顔をいただいているらしい。私が休みの日にも見た。少しずつ鶏の姿に近づいていく様子を見られたことも感慨深かった。妻が一人の時にも気になって見に行くようになったことに私は何より驚いている。私たち二人が生まれ育った村ではなかったことだ。喜美恵が安心出来るようになったことが嬉しかった。
「ひよこさん」
けんの散歩に着いてきた翁の孫娘が我が家の玄関でけんと戯れる妻に呼びかけた。私と妻は何を言われたのかわからずに止まった。
「ひよこさん」
そう再び言ってその子は目の周りを指でぐるっと示した。喜美恵は首を傾げて私を見る。その顔を見て気づく。妻の目の周りの痣のことがこの幼子にはひよこに見えるのだ。
「ひよこさんのお母さん」
今度は妻をまっすぐに見て呼びかけた。嬉しくてたまらないように、内緒にしていた秘密を話した時の妙に誇らしげな顔をしながら時々、口許を丸めた手のひらで隠してそのこは何度も翁の後ろに回っては出てきた。思わず顔がほころぶ。
私はしゃがみこんでその子と同じ視線の高さに行った。妻を見るとまだよくわからないでいるようなので私は自分の目の周りをなぞって示した。するとやっとわかったらしく目を丸くしてから微笑み、私と同じようにしゃがみこんだ。
「私はひよこさんのお母さんなの?」
そう嬉しそうに問いかける妻に幼子は大きく何度も頷いた。
「だって優しくて可愛いもん。目に入れても痛くないのが目から飛び出てしまうくらい可愛いんでしょう」
勢い良く言って翁の後ろから飛び出したその子は妻に抱きついた。翁は覚えたばかりの言葉を使いたかったんだなと笑っている。すると違うと反論する。実はひよこが鶏の子供だと知った日から孫娘は喜美恵の痣をひよこさんと言っていたらしい。動物が好きな幼子が言うひよこはそれはもう可愛くて愛しい者らしく、この町の人と話すたびにこの子はその話をしていたらしい。もちろん好まない人のことを笑顔で話すような子でないことは同じ町でずっと見てきた人々は知っていた。元から妻にひどい言葉を吐いたり嫌な者を見る視線を向けたりすることがなかったこの町で、新たに加わった者の顔の痣をひよこだと幼子が言うことで玄三郎さんの隣の家のひよこを見ようと人がしょっちゅう来るようになった。そして行くと必ず出会う喜美恵の顔の痣は確かにひよこに見えたと口々に言っていたらしい。小さなこの子の中の可愛らしい光が町中の人たちの心の灯りをつけてくれた。
四人とも笑顔のまま時がとまっていると、途中で放置されたけんがもっと遊んで欲しいと二度鳴いた。




