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企画モノ

if 人魚姫〜もしも人魚姫がサロメだつたら〜

作者: 中島 透乃

冬の童話祭2018参加作品


いや〜、イベント予告見た時点では、企画内イベントのベースになる原作が三作に限定されているとは思わなくて……

|ω-`*)シュン

でも書いちゃったから企画内イベント参加外でアップします!


微温(ぬる)い穏やかな海中を割つて、人魚姫は泳ぐ速度を上げました。魔女の棲家は深い淵にあるのです。

銀の小(あじ)の群れが敬意をもつて道を開けます。きらきら光る群れを抜けると、きぴーん、きぴーん、と海豚(いるか)の声が辺り一帯に響きました。


「お前の子供はあちらにゐたよ」


母海豚とすれ違いざまに、人魚姫はもと来た方角を教へてやります。

礼をとる母海豚を見もせずに海草の茂みをかき分けて、更に深みへ潜らうと尾鰭(おびれ)を振り上げたその時に、海豚の呼び声が遠くで悲鳴に変はりました。


「ああ(しやち)だ。なんて愚図な母親だらう。せつかく居場所を教へてやつたのに」


人魚姫は後ろを振り仰ぎ、もがく子海豚が喰ひ殺されてゆくさまを眺めました。朝焼けと満月に並んで美しいと讃へられる、血の光景です。


水中に広がる血の色は、人魚の目には燐のヴエイルのやうに光つて見えます。散り沈む輝きはレエスのやう。広がればひろがるほどに、このうへもない美しさです。見物に出た人魚達はみな、白、墨、紅、黄、緑、藍、紫、……色とりどりの吐息の泡を上げました。

人魚姫も感嘆の気泡を一つ吐くと、燐光と断末魔の演目に背を向けました。姫の吐息は人魚で唯一、不思議な虹いろをしてゐるのでした。






陽光から遠ざかり、人魚姫はひたすら深みを目指します。特別に煌めく黒真珠いろの髪と鱗、つやつやした青白い肌を持つ姫は、非常に華奢で麗しい、けれども妖しの娘でありました。まるで儚い、ほつそりとした優美な水母(くらげ)が致死の毒を持つやうに。


姫には望みがありました。それゆゑ魔女を探すのです。他の人魚が怖がつて近づかぬ、深い黒い淵の奥を金いろの目で覗き込みます。人魚の(まなこ)は大きく丸い。中に封じた水晶で、かすかな光を増幅して見る為です。さうして閉ぢる事がない。ずつと望みに飢ゑてゐます。


その眼がやうやく、目的の場所を捉へて輝きました。


魔女の棲家は濁つた朱色の玉藻で編まれてゐました。人魚姫は入口まぢかの藻の玉に手を伸ばします。蓑笠子(みのかさご)が華やかな(ひれ)を開いたかのやうに指を広げて玉の一つを握り潰すと、入口から老女が顔を出しました。


「お久しう、(ひい)様」

魔女は虎魚(をこぜ)に似た顔で笑ひ、姫を中へと導きました。

「はてさて今日は、どのやうなご用でござりまするか? ひい様のお戻りが三日もないと、王宮は大した騒ぎのやうですが」


「さうであらうね。騒々しいこと。此処へも隠れて来たのだよ」

人魚姫は虹のため息を吐いて首を振りました。黒真珠の髪が仄暗くひるがへります。

「騒ぎなど如何でも構ふものか。婆や、あたくしは欲しいものが出来たのだよ。何をしても手に入れたいものが。でもそれは今にも逃げやうとしてゐる……ねえ、婆やはきつと、あたくしを助けておくれだらうね。あたくしは、ほんの小魚の時分からお前に可愛がられたのを覚えてゐるよ。きつときつと婆やは、あたくしの望みを叶へておくれだらうね」


「おやおや、お珍しい。この前に差し上げました素敵に光る海牛(うみうし)の髪飾りでは足りませなんだか。そのやうに懸命に、一体何を望まれまする」

「男だよ婆や。東の凪で立ち往生してゐた船団の男。王子と呼ばれ、かしづかれてゐた男。気高うて、愚かしうて、渦潮(うづしほ)のやうにつれない男。あたくしを見て驚き叫んだ顔がたいそうかわゆかつた。あの男が恋しい。抱いて口づけしたいのだよ」


魔女は驚きのあまり、好物の沙蚕(ごかい)と管虫を詰めた壺を取り落としました。ざわざわとテイブルを逃げ出す虫どもを、姫は二つ三つ摘んで齧みちぎりました。


「ひい様狂うてしまはれたか! (おか)の王子などといふ夕餉の主菜程度のものにお心を寄せられますとは。

さては波の上から月をご覧になりましたな。月をぢかに見たせゐですぞ。我ら水の民は、月を長くみると中毒するのだと、婆はあれほど言うて聞かせたではありませぬか」


「さうかもしれない。あたくしは中毒した。あの男が欲しうてたまらのうなつた。あの波間の月のやうに白い、でも逞しい腕! 初夏の晴れわたつた水面の色の瞳! あたくしの瞳よりもずつと眩しい黄金の巻毛!」

湧き出づる熱に煽られるやうに、人魚姫は身をよじりました。胸の前で手を組んで、恋しい王子のゐるだらう東の上を仰ぎます。烏賊の眼をぎらりと配した首飾りが胸元で踊りました。

「たとへ美しうても、あたくしのやうな神の摂理を外れた怪物とは交はらぬと、さう拒むのだよ。いぢらしいこと。神などといふ目にも映らぬものを、無邪気に信ずるのだから可憐だね」


「困つたひい様であらせられる。ほんたうに、お母上にそつくりな」

魔女は人魚姫の酔狂に薄紅いろのため息を吐きました。

「如何してもその陸の王子がよろしうござりますか。よき男など、他に幾らでもをりませうに。ひい様が陸に行つてしまわれましたら、王はきつとお嘆きになられまする」


「あたくしが陸に?」

「さやうです。……この壜の、秘密のお薬を飲みますれば、鰭は人の足に変はり、陸でも呼吸が楽になりまする。そのかはり、ひい様はお声を失ふ事になつて、」

「陸になど行きたうないよ婆や」

「ひい様?」

「鱗もない、二つに裂けた足など気色が悪うて仕方ない。おお嫌だ。嫌だよ。声を失うては恋を語れぬではないか。それに陸では、人は何だか妙な顔をしてゐる事が多いのだもの」


海底に沈む人はみな苦しみぬいて溺れた人なので、人魚達はその苦悶の死相が陸の普通だと思つてゐるのでした。


「では如何なさりますお心算(つもり)でせう」

「今まで凪だから良かつたものの、風が動けば船が逃げてしまふ。あたくしは、あの男に口づけしたいのだよ。あの男の赤い唇は嫌ひだけれども、水に入れてしまへばあの赤は落つるのだらう? 顔も普通にかわゆくなつて、あたくしを拒む言の葉も吐かずに大人しうなるのだらう?

……ねえ婆や、あたくしはあの船を嵐で沈めてしまひたい」


魔女は吐息を呑みました。鼻から細かい泡が昇ります。


「ひい様!」

「出来ぬのかい、婆や」

「陸の民は水中では息が止まりまする。そのくらゐはご存知でせう。引き込めば王子は生きてはをりませぬぞ」

「良いのだよ。あの小判鮫の息子のやうに、ひらひらと弁の立つ賢しらな男など苦いばかり。あたくしは大嫌ひ! 静かでかわゆい男が好いよ」

「生命を奪ひ、陸にまで術を及ぼすのなら、それは禁呪になりまする。禁呪の薬は解毒が効かぬゆゑ、飲めば心変はりは許されませぬぞ。瞬きの間さへも恋に飽きなば、ひい様は泡と化しまする。ひい様の美に靡かぬ愚かな陸の王子のために、おん身を危険に晒されまするか?」


「晒さうよ。晒さうよ。我らは小暗い、冷たい水の民だけど」

人魚姫の眼が炯々と金いろを増しました。

「恋は死ぬるもの。殺すもの。さうではないかえ。血が狂はねば恋とは呼べぬ」


人魚姫から湧き立つ溶岩のやうな熱流が、ぐらぐらと魔女の玉藻の棲家を揉んで、その屋根を吹き飛ばしました。年老いた魔女はその威に服して額づきます。薬棚の奥の奥から取り出された鈍い群青いろの壜が、やがてテイブルに置かれました。


「これが禁呪のお薬にござります」

「震へてゐるね。こはい薬なのかい?」

「婆の長い生でもこれを使ふのは初めての事。畏れと喜びに手が震へまする。

これを飲めばたちまちお身体の血の半分が流れるでせう。しかしお気を失うてはなりませぬ。そのうへで、ひい様は天を呪はねばなりませぬ。失敗すれば泡。成功しても恋を失へばやはり泡。……お覚悟はよろしうござりますか」

「良いよ」

「ではお飲み下さりませ。……ああ、血が滲み流れて尾を引いて、なんと妖しう映えるのでせう。さ、ひい様。呪ひの今この時、ひい様の光る燐の血が、虹なす吐息が要りまする。すんなりした腕、豊かな乳房、(なま)めく胴鱗と、いやらしうはためく尾鰭も要りまする。

天を誑かす為にひい様、踊りなさりませ。嵐のやうに喘ぎをあげて、可憐なお手に生命を握つて、猛り荒ぶりなさりませ」


人魚姫は抜けた屋根から遥かな天を見上げました。もとより一糸だに纏うてはをらぬ身。差し伸べる腕も肩も所作なめらかに、つれて乳房が浮き沈みします。

流れる血を光るヴエイルのやうに纏ひ、ひるがへし、跳ね上げて、人魚姫は古い蠱惑の舞を七度踊りました。恋に狂うたその姿は魔女がをののくほどに淫靡なさまでありました。


「かかつた」


にい、と魔女の虎魚の口が弧をゑがきました。


「首尾よういつたかい?」

「然り。かかりましたぞひい様。天はすつかり惑乱してをりまする」

「あの男が他愛ものう信ずるやうに、天にゐるのは神なのかい?」

「……まさか。神なら惑ひませぬ」

「では何がゐるのだらうね」

「惑ふのだから、それは男でありませう」

「さうかさうか。高みの男もかわゆらしいものだねえ」


失血に青褪めながらも人魚姫は鰭を叩いて笑ひました。

徐々に辺りの潮の気配が変はつてきます。そろりと一筋、鱗を撫でる冷えた流れに乗るやうに魔女はテイブルに跳び上がり、天に印をきりました。


「それひい様、婆の禁呪をご(ろう)じろ!」


どおん、と太い音が海中に轟きました。鯨の群れが一斉に鰭を打つやうな。彗星が海へ堕ち入るやうな。

水の(こだま)はそれは長く続きました。鳴りのおさまつた後は、ぴーーん、ぴいーーん、と尾を引く海豚達の警戒音。嵐が来る前触れです。


「いささか術の掛かりがきつうござりましたな。見た事もないやうな、語り草になるやうな大嵐の到来ですぞ、ひい様。かまへて愛しの王子をお取り(こぼ)しになさいますな」

「ありがたう婆や。きつと捕まへるよ」

「では婆は王宮に参りませうかの。嵐となれば沢山人が降つて来まする。祭の用意をいたさねば」






外法ゆゑんの邪悪な嵐は三日三晩続きました。天をも呑まんと荒ぶる波が、恐怖も悲鳴も弱者の祈りも、一緒くたに粉砕しました。海上はおろか海中さへも沢山の生命が散りました。嵐が去つてなほ濁つた海に、もう(くだん)の船団は影も形もありません。


魔女の深淵の家は、人魚の衛兵に十重二十重に囲まれてゐました。飼ひ慣らした鋭い駄津(だつ)を槍がはりに並ばせて王の号令を待つてゐます。


「お聞き及びでござりますか、ひい様?」

「かわゆい眼だこと、婆や見てご覧。こんなにまあるく見開いて。ああ、ああ堪らない、舐めてあげやうね」

「こたびの不手際は婆の咎。条理を曲げた、そら恐ろしうなるほどのあの嵐で、王宮は死体に埋もれてすつかり壊れてしまひました。人魚の犠牲も幾人か出ましてござります。婆と姫は禁忌の罪人として討手がかかり、今や何処にも逃れることは(かな)ひませぬ」


不穏な説明をまつたく聞かうとせず、人魚姫は恋人との逢瀬に酔ふばかり。しばし眺めて魔女は諦めたやうに首を振りました。嵐の前よりいつそう年老いたさまで萎びた鰭を揺らします。


「赤いろを失うて青紫になつた唇は、やはり一際()いものだねえ。なんど口づけても足らぬ」

「さうでありましたな、ひい様は恋に死ぬるも本望なご様子。詫びが届かぬのは口惜しうござりますが、勝手ながら婆が(とも)をいたしませう。……おや、王子の首がもげかかつてをりまするな」

「いつそ外してしまはうかしら。下の半身が邪魔で仕方がない。首だけのはうが、かわゆうないかい?」

「陸の足が気味悪うござりますか」

「飾り気のない棒のやうで厭はしいよ」

「しかしせつかくの立派な胸板。取って生首だけにしてしまはずとも、ほれ、かうして逸物を股に仕舞ひ込み、両の足をすつかり綴じ付けて、つま先の甲の皮を裂き広げれば……さすればお仲間の胴、鰭の形に似かよひませう?あとは鱗を挿せばよろしうごさいます」


全裸の王子を抱いて、人魚姫は虹の吐息を上げました。


「やれ嬉しや。この素敵なお尻に何の鱗がにあふかしら。真珠にしやうか。血赤の珊瑚のはうが良いか。それとも白緑いろの龍涎香を砕かうか。(はだへ)に鱗を挿すたびに、緋色の燐が昇るだらう」


人魚姫は夢見るやうに、うつとりと目を閉ぢました。魔女の暗い淵の底で、波間にそよぐ陽光にもまさるほほゑみでありました。






お読みいただき、ありがとうございました。

妖しくほの暗い人魚姫、お楽しみいただけましたでしょうか?


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[良い点] 初めまして、こんばんは。 おもしろいものを読ませていただきました。 ワイルドの『サロメ』とはまた違ったお話で…… ワイルドの戯曲は、サロメの自覚なき狂気にいたるまでの過程……月の光、ヘ…
[良い点] 献身的な女性が妖女だったら、という正反対の性格でのおどろおどろしい話が怖かったです。 綺麗すぎる童話よりも、仄暗いダークな残酷さのある童話の方が人外である人魚姫をうまく表していると思います…
[良い点] 昔の小説を思わせる独特の文体にもかかわらず、読みやすく、またその文体が妖しさとダークな雰囲気を醸し出していました。 [一言] 実はお恥ずかしい話、サロメを知らなかったのですが、調べてみると…
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