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5 高天山高校野球部、始動

「じゃあ士郎はピッチャーに戻んのか? 」

「そういうことになるな。ごめんな、守備の戦力落ちちゃうけど」

「いや、いねぇ方が助かる」

「ひどいなそれ」

 六限が終わり野球部の部室へ向かう士郎は、同じく野球部で士郎と同じクラスの太刀川守に自分が投手に戻る旨を伝えていた。

「いやぁでもお前の球捕るやつが出てくるとは思わなかったよ。しかも一年の女の子だし」

 太刀川の言う1年の女の子というのは和葉の事であるが、昨日士郎の頭にボールが当たった後、あてた本人である和葉はかなり落ち込んだのか、野球の練習が終わるまで一塁側のベンチで沈んでいた。よって野球部のほとんどの部員は「少し暗いやつ」という印象を受けたに違いない。確かに月見里は暗い、しかしそれだけではなく熱いものを心に持っていることを士郎は感じていた。

「それで、あの子今日来るの? 」

 部室の部屋を開けながら太刀川は士郎に問うた。扉が開かれた部室にはまだ誰もいなくて、まだまだ冬が居座っているような冷気が部屋に充満していた。寒さに一瞬身震いをしたが、その質問を受け、士郎は昨日の出来事を思い出した。そうだった。自分は昨日月見里に仮入部に来るかということを聞いていなかった。士郎は「またグラウンドで」と言って和葉の返答も聞かず帰ってしまったのだ。何も言わない士郎を見て太刀川は自分のロッカーに入っている着替えを取りながら士郎の顔を見ながら答えた。

「お前また逃げたんじゃないだろうな、もしそうならお前怒られるぞ? 」

 うかうかしているとチャンスを掴むことはできないという意味で、『幸運の女神には前髪しかない』という言葉がある。士郎はその前髪が迫ってくると途端に怖くなってしまうのだ。境内で初めて和葉に球を捕ってもらった時も「こんなに幸運なことがあっていいのか」という思いが体を支配し、気づけば逃走してしまっていた。士郎にこの欠点があることを知っている太刀川はどうにかして治してほしいと思っていた。

「ま、謝っとくんだな。それと早く治せよその逃亡症」

 ユニフォームに着替えた太刀川はそそくさと部室を後にした。

「ちょ、待ってくれよ太刀川。あとなんだ逃亡症って」

 士郎は道具を持ちベルトをユニフォームに通しながら太刀川の後を追った。



 ◇

 太刀川と士郎がグラウンドに出て20分もしないうちに野球部はぞろぞろと集まり、各人自主的な練習をしていた。頃合を見計らって主将の似内が集合をかける。

「集合しろ」

 似内の声は決して大きいとは言えないが、よく通り緊張感がある。似内の声を聴いた野球部は練習を中止し集まってきた。

「… よし、全員いるな。今日から日曜までの5日間は一年の仮入部だ。一年が合流し次第、練習を開始する」

 何か質問はあるか? と似内が付け足すと、太刀川が手を上げた。

「慶次さん、扇谷先輩と楓さんと本城は? それと今日の練習はどんな感じなんですか? 」

「巧と楓、あと本城は今一年生を迎えに行っている。本当は俺が行くべきなんだがな。行きたいというから行かせた。それにそういうのはあいつらの方が適任だしな。それと今日のメニューは俺も聞かされていない。悪いな」

 ありがとうございますと言って太刀川は下がった。その横で士郎は一人、不安になっていた。月見里さんは来るのだろうか。太刀川に言われてからずっと気にかかっていたのだが、自分は月見里さんの前から二度逃げている。怒られてもいいから来てほしい、もう一度ボールを… そう思考をめぐらせていた時、似内が士郎に近づいてきた。

「おい武士、あの女は来るのか? 昨日の… 」

「あ、月見里さんですか。来ると思います。というか来ると信じます」

 そんな話をしていると上の方が騒がしくなっていた。

「お前ら、集合しろ! 後輩を連れてきたぞ! 」

 手を横にぶんぶんと振り、階段を下りてくる集団の先頭に立っている三年の扇谷巧が大声を上げた。一年は10人程度でこの野球部にとってはかなり多い方だ。似内もボソッと「多いな」と呟いていた。しかしその中には和葉の姿はなかった。そしてなぜか藍の姿も見当たらなかった。落胆する士郎をよそにグラウンドを背にして三年生が横に並び、その横に太刀川を先頭に二年生が並んだ。対をなすように新入部員が一列に並んだ。静寂が訪れ、野球部と一年生との間に緊張した空気が流れる。そこに咳払いを一つして扇谷が喋り始めた。

「えー、一年生諸君! 今日はこの野球部にようこそ! 俺は三年の扇谷巧。ポジションはピッチャーだ。見てもらったらわかると思うが、俺たち野球部はマネージャー含め12人の少数精鋭のチームだ。上手ければ一年生でも試合に出場できる機会は十分にあるってことだ。ま、まだ正式な入部ではないから気楽にな。よろしく! 」

 扇谷はかなり気さくな人間でどんな人間でもすぐに仲良くできる。扇谷のよろしくに続いて、一年生はよろしくお願いしますと言った後ぱちぱちと拍手をした。その横の早乙女楓はやや緊張しながら、一歩前へ踏み出した。

「えっと、三年のマネージャーの早乙女です。佐久間先生と相談しながら練習メニュー考えたりもしているので、何かしたい練習があれば僕に相談してください」

 ここで一年生がざわざわし始めた。どうみても華奢な体の女の子が自分の事を僕と言ったら、誰でも少しは驚くだろう。

「うちのマネージャーってどっちも詐欺師だよな」

 太刀川が横にいた士郎に小声で話しかける。士郎はため息をつき、

「本城は偽文武両道だしな。早乙女先輩は… 」

 一年生の様子を見て、楓は苦笑いを浮かべながら、

「… 一応男です。よろしくお願いします」

 楓はぺこりと頭を下げた。よほど驚いた一年生は先ほどのように挨拶する人も、拍手する人もいなかった。代わりに二年生が拍手を浴びせた。

「この通り、どう見ても女の男。この二人なら一億ぐらい騙し取れるんじゃね? 」

 太刀川自身も二人のマネージャーに騙された苦い経験を持つ。初恋を男にしたことは誰にも言えない。「俺からもいいか」と似内が手を上げた。上げたその手で女と勘違いされてへこんでいる楓の頭をポンと叩いて前に出た。

「俺の名前は似内慶次。一応この部の主将をしている。さっきこいつが一年でも試合に出れると言っていたが… 」

 「こいつ」と言いながら右の親指で楓を挟んだ横にいる扇谷を指した。

「人数が少ないからといって簡単に試合に出す気はないし、そういうイメージがつくと練習もだれる。俺らが目指すのは当然、甲子園出場。そしてその先だ」

 さっきの楓のカミングアウトの驚きとは違う別の驚きが一年生の中で渦巻いていた。しかし二年生は驚いておらずむしろ当然だという表情をしていた。そこで扇谷が声を上げる。

「おい慶次、いきなりそんなこと言わなくてもいいだろうが! まだ正式に入っているわけでもないだろ」

「お前は甘やかしすぎだ、巧。大体お前のピッチャーの座も危ういことになっているのがわかってんのか。武士も投手に復帰するかもしれないんだぞ」

 武士と言われてびっくりした士郎だったが、三年生の喧嘩には参加したくなかったので黙っていた。この二人はよく喧嘩はするが一年が見ている手前、今はよしてほしいと思う士郎をよそに二人の喧嘩はどんどんエスカレートしていく。

「大体お前は昔からそういう冷めたいところがな… 」

「お前はいつも軽い。楽しくやるのは結構だが邪魔するのはやめろ」

「もう、二人とも喧嘩はやめてよ! みんな見てるから! 」

 昔からの付き合いである二人に止めに入った楓も加わったじゃれ合いを見ながら、二年生は「また始まった」と小声でつぶやく。士郎がはやく練習に移らないかと提案しようとした時、

「お前らいい加減にしろ。俺の自己紹介が出来ないじゃないか」

 その野太い気だるさを含んだ声を聴き、似内は黙り、扇谷はふくれっ面になり、早乙女はすみませんと何度も頭を下げていた。その声を発した本人は一年生の後ろに立っていた。困った顔をしていた一年生が全員勢い良く後ろを振り向く。いつの間に来ていたんだと士郎は驚くと同時に、やっと来てくれたと安心した。似内と扇谷の喧嘩を一時中断させるのは年上の声が効果的だ。その男は無精髭を蓄え黒縁の眼鏡をかけていた。

「俺が監督の佐久間幹徳だ。いいか、本職は先生なので『佐久間先生』と呼ぶように。この野球部は三年マネージャー含め3人。二年マネージャー含め9人だ。見た通り少ない。ま、楽しくやるやつは楽しくやればいいし本気でやるやつは本気でやれ。とにかく今を大切にしろ。以上」

 言いたいこと言ってすっきりしたのか、満足した顔をした佐久間は「進めろ」と言って、三塁側のベンチに腰を下ろした。佐久間に指揮を任された楓があわてて口を開く。

「え、えっとじゃあ練習を始めたいと思います。とりあえずあそこにある部室を使って着替えてくれるかな。着替えている間に僕たちで準備しとくから」



 ◇

 「なんなのだいったい。ついてくるな! 」

「君は月見里和葉だろう? 先生から聞いたぞ、入学試験でトップの成績を取ったらしいじゃないか。ぜひ『学力向上部』に! 」

 入部体験を希望する者は中庭に集合しなければならないのだが、和葉はその場所がわからなかった。決死の覚悟で人に聞いたのはいいものの、その男がさっきからずっとつきまとわれている。

「私は野球部の体験入部に行くのだ! 邪魔するな! 」

「何、野球部だと? やめておけ、あそこにはろくな奴はおらん。君のその素晴らしい才能も腐ってしまうぞ」

 昨日藍に連れて行ってもらったルートを辿り、校舎の前まで戻ってこれたところでその言葉を後ろから浴びせられた。野球の事を馬鹿にされさすがの和葉も堪忍袋の緒が切れそうになっていた。

「おいお前いい加減に… 」

「おーい和葉! 探したわよ」

 男の後ろから走ってきたのは藍だった。和葉は男から目を逸らし藍の方に目をやった。藍のかっこうは和葉から見れば見慣れた格好のユニフォームであった。藍が男の存在に気付いたのは和葉の隣で一息ついた時だった。

「あら、誰かと思ったら学力向上部、副部長の田中勉さんじゃないですか。どうしたんですか? 私の可愛い後輩を引き留めて 」

 猫かぶりの藍が顔に笑顔を張り付けてそういった。今まで田中という男に向いていた怒りはそのせいで一気にしらけていった。

「ふん、別に優秀な後輩である月見里和葉を是非我が部にと思っていたのだがもういい。本城藍、早くそいつを連れて行け」

「そうさせてもらいますわ。しかし田中さん? その上から目線はやめてもらえませんか? せめて私より立場が上になってからお願いしますわ」

「おのれ、本城藍。この前の実力テストでは1位の座を譲ってしまったが次こそはこの僕が勝って見せる! 」

 藍に宣戦布告してその男は踵を返して校舎に戻ろうとした。藍は和葉についてくるように催促した。

「田中先輩」

 和葉は田中を呼び止めた。田中はなんだと振り返った。和葉の顔に先ほどまでの怒りはない、ただただ無表情。怖いくらいに無であった。

「先ほどの無礼、詫びよう。だが野球を侮辱されるのは辛抱たまらない。一度野球を見にこい」

 そこまで言うと和葉は軽く微笑み、

「楽しいぞ? 野球は」

 くるっと振り返り行こうと言って藍と和葉はグラウンドに向かった。その場に取り残された田中はただ去っていく二人の背中を消えるまで見ていた。

 グラウンドでは着替えた1年生が今かいまかと練習を待っているところだった。上級生は今日行う一連の練習の準備をしていた。士郎はというと肩を落として一人負のオーラを放っていた。もしかして自分の昨日の能の態度を怒っているのではないかと、どんどん悪い方向へ考えていた。

「どうしたんだよ武沢。チャッチャと準備しようぜ」

 後ろからボールがたくさん入ったかごを抱えた扇谷が士郎に声をかける。先ほどまでにないと喧嘩していたのにもう機嫌を直している。士郎は似内に目を向けるとまだ機嫌が悪そうに黙々と作業をこなしているようだ。

「 あ、すみません。かご持つの交代します」

 気づくのが遅いが先輩が用意をして後輩はぼうっとしているのは少しおかしい。慌てて交代しようとしたが扇谷はそれを手で制した。しかし士郎がそこを渋ると、

「じゃあ半分持ってくれ、これでボールもラストだろ」

 周りを見渡せば準備をし終えた部員が小走りに自分のグローブを取りに行っていた。かごをネットの横に置き、二人も小走りに自分たちのグローブを取りに行った。

「なあ武沢、慶次がお前がピッチャーに戻ると言ってたけどどういうことだ? あいつはお前のボール捕らないだろ? 」

 扇谷昨日補習かなにかで練習に顔を出していない。ゆえに昨日の事は全く知らない。そこにあんなことを言われると聞きたくなるのも無理はない。

「あくまでも可能性の話なんですけど。俺の球捕ってくれる子がいたんですよ。… 今日は来てないんですけど」

 扇谷もピッチャーだ。チームといえど同じポジションを守るものは時にライバルになるし、高め合ういい対戦相手となる。新たなライバルとなるであろう人間の事が気にならないわけがない。しかし今の士郎にとってその質問はとても答えづらいものだ、なぜなら自分でどうこうなるようなことではなく、10割方相手に依存するものだからだ。和葉がいなければ何もできない、そのような状況なのだ。士郎と扇谷が野球部が集まっている輪の中に入る。それを確認して楓は練習の説明し始めた。

「では今から1年生には上級生と二人一組になってにキャッチボールをしてもらいます。とりあえずキャッチャーとピッチャーは左、野手は右に集まって」

 ぞろぞろと動き始める集団の中で士郎はどうすればいいのかおろおろしていた。どっちだ、従来通り野手のメニューをするべきか、投手に入るべきか。1年より出遅れるとは恥ずかしく、あっという間にできた2つの対岸の間に士郎はぽつんと取り残されてしまった。

「どうしたの士郎君? 君は野手でしょ? 」

 そういえば楓も昨日来ていなかった。知らないのだろう、今この両極で揺れる俺の心情が! 本職であるピッチャーに戻れる喜びと、「野手もいいな」と思い始めていた自分が士郎の心の中でせめぎ合っているのだ。

「おい楓、武士は今日はこっちでいいだろう。ピッチャーとして扱ってやれ」

 左の集まりから声を発したのは似内だった。すると楓は首を縦に振り、

「じゃあ士郎君は今日ピッチャーメニューね」

 そそくさと左の対岸へ移る士郎。似内がそばに寄ってくる。

「信じてるんだろ、来るの。だったら信じて待ってたらいい」

 相変わらずかっこいいな、士郎は似内の言葉を聞き頷きながら憧れのまなざしを彼に向けていた。楓はこほんと咳をして改まり説明を始めた。

「みんなも知っている通り、キャッチボールこそ守備の基本であり、基礎です。毎日やるメニューであるこれを真剣にやるかどうかで、守備においての伸び具合というのはだいぶ変わってきます。とりあえず野手のボールを待つ姿勢は… 」

 楓は少し下がりボールを待つ態勢を取った。

「このように股関節をしっかり曲げ、最低でも相手のリリース位置よりも頭を下にして構えてください。こうすることでボールを下から見る意識を常につけ、守備の際反応しやすい形を取ることができます。うちではこの構えを『始型』と言います。あと投げる方はしっかりと耳の横まで持ってきてそれからリリースをして、絶対にふわっとした山なりのボールは投げないでください。手首で調整したりして感覚がおかしくなっちゃいますから」

 野手陣はその場で『始型』を試していた。1年生は野球未経験者がいないのか、全員動きはぎこちないものの頭ではしっかり理解しているようだった。

「よし、野手陣は広がって始めようか。太刀川君指揮お願いね」

 分かりましたと言って太刀川は野手を引き連れてグラウンドに散っていった。

「さてと… バッテリー陣はいつもと一緒のメンツなんだね… 」

 少しがっかりしたように楓が言った。それもそうだ10人も来た新入部員のなかにピッチャーとキャッチャーが一人もいないとは偏りすぎだ。

「で、士郎君は何で今日こっちなの? 本職はこっちだし間違えではないんだけど」

 楓はこの野球部の部員一人ひとりに合ったメニューをよく作ってくる。言っておかないと申し訳ない。士郎が口を開きかけた時、

「ちょっと待ったー! 」

 そこにいた4人が声のした方向を一斉に見た。士郎の表情は太陽に照らされたかのように、はたまたそのまま太陽のように輝いた。そこにはユニフォームを着た二人の姿があった。お願いしますとグラウンドに頭を下げ小走りにこっちに向かってきた。

「楓先輩ごめんなさい。この子が迷っちゃって」

 藍が楓に謝った。全ての罪を被せられた和葉はというと、違うと言いたかったんだろう、口は動くが声が出ずそのまま藍と同じようにぺこりと頭を下げた。

「1年の月見里和葉と言います。いきなり集合時間に間に合わず、本当に申し訳ない。いきなり練習に入れろと図々しいことは言わないので、入部はさしてください」

 頭を下げたままそういう和葉を見て、和葉はぷっと吹きだした。

「そんなに、謝らなくていいよ。僕は3年マネージャーの早乙女楓。よろしくね」

 にこにこしながら楓は答えた。

「楓先輩、この子はキャッチャーです。シロ君とバッテリー組みたいらしいですよ」

 士郎は驚いた。自分が捕ってほしいから和葉を呼んだ。その月見里さんが進んでボールを捕りたいと言ってくれるのなら願ったりかなったりじゃないか。これっていわゆる両想いというやつじゃないか。いや恋愛的な意味では決してなく、ただ純粋に、野球をする関係としてだから! と士郎がまた藍の罠にはまって妄想している最中に、

「じゃあさっそくバッテリーメニュー始めようか。まずは二人組になってくれる? 」

 藍はマネージャーの仕事もこなしながら選手の練習にもよく混じる。なんでも中学のころはシニアリーグでチームを優勝に導いたエースだったとか。藍はバッティングピッチャーをしている時にその片鱗を見せる。前は全員を最低一回は三振させるという自らに課したミッションを達成していた。今バッテリー陣は5人。女の子同士組むのは妥当だし、3年生同士組むのも妥当だ。だったら余るのは必然的に士郎になる。どっちに入るべきか迷っていると、

「シロ君、私とやりましょ! 久しぶりにシロ君とキャッチボールしたいな」

「そうだな、じゃあよろしく。… え? 」

 二言返事でOKしてしまったが冷静に考えたらおかしい。これでは和葉が余るではないか。そんなことはお構いなしに藍は士郎にグッと近づきニコッと笑った。相変わらず100点満点の男心くすぐる笑顔なわけだが、それは表面だけを見たらの話である。奥には悪魔かそれ以上の黒い塊が潜んでいるに違いない。しかし、

「… だめ? 」

 こんな顔を向けられたらたとえそれが嘘だとしても断れない。結局断ることはできなかった。そうなると和葉が気の毒になる。だが士郎は和葉の方を見たが思ったよりも落ち着いていた。あきれたように和葉が口を開く。

「藍、私も入れてくれ」

「私はいいけどシロ君がね、シロ君に聞いてみないと分からないわ~ 」

 もう駄目だ、昨日もあったがこの二人は会えば必ずこんなじゃれ合いをしているらしかった。和葉も和葉で冷静にしているようですぐ乗せられているような気がする。士郎は二人の言い合いを見ながら平和だなとか思っていた。そして和葉が折れたのか、体を半回転さして士郎の方に向き直った。

「武沢先輩、入れてくれ」

 すでに横で軽くキャッチボールをしていた扇谷が吹きだした。

「頼む、先輩のボールが捕りたい」

その言葉にただこくこくと首を縦に振る士郎は目の前の彼女から視線を外し、自分の左に広がるグラウンドを見た。それを見て笑いを堪えている藍と、士郎の視線の先に回りさらに会話を続ける和葉。

「なんだ。視線を逸らして私が入ると迷惑か? 」

 疑うような眼差しでさらに顔を近づける和葉。士郎は限界であった。こんなに顔を近づけられると息が出来なくて胸が詰まる。

「い、いやなんでもない。それよりもはやくキャッチボールを開始しよう」

 そういうと「それもそうだな」と言って和葉は似内の5メートル横ぐらいに並び、

「武沢先輩、藍。始めよう」

 といって持っていたグローブを左手にはめて構えた。二組がキャッチボールをする体制が整い、楓が口を開いた。

「じゃあ始めよっか。とりあえず巧は肩が暖まり次第変化球を中心にキャッチボールをしてて。『上』よりも『下』を中心にね。藍ちゃんはシンカー系の変化球は持ってるし、そうだな… サイドスローならではの横の変化球の練習しようか。スライダーなんていいと思うんだけど。コントロールは気にしなくていいからね。手首を立ててリリースの瞬間に、左投手の藍ちゃんは『三塁方向へ投げつける』イメージで」

 自らの体を使い藍にレクチャーする楓。藍もさっきまでふざけていた態度は消え、真剣に話を聞いている。全て話し終えると藍ははいと頷き持っていたボールで先にキャッチボールを開始した。楓は少し悩んだ後、士郎に話しかけた。

「士郎君はとりあえず大まかなコントロールを身につける練習をしよっか。そんな距離投げないから僕とやらない? これぐらいなら僕も捕れるからさ」

 士郎は一瞬返答に迷った。和葉が相手ではなくなってしまうからだったが練習が効率よくできるに越したことはない。わかりましたと答えると、楓は練習の説明を開始した。

「じゃあ、士郎君に問題なんだけど。的に当てる競技と言えばなーんだ? 」

「的ですか? えっと弓道とかダーツとか、ですかね」

「なるほど、だったら弓道の弓矢とか、ダーツとかはどこから投げる? 」

「まぁ、顔の横からですかね。でも関係あるんですか? 」

「関係大有りだよ! 野球で一番大切な器官はどこかって言われたら、僕は目だと思うんだ。狙ったところにコントロールするのに大切なのは目、もっというと『目線』だね。今から十メートルくらいの距離でキャッチボールするから、僕の方に正対して、ダーツを投げるみたいに顔の横を通して投げてみて。それと… 」

 楓がジャージのポケットから取り出したのはタコ糸だった。

「これを口にくわえてキャッチボールするから。はい」

「… なにするんですかこれで」

「糸を士郎君の顔と僕のグローブで結ぶんだ。そうすることで目線をしっかり意識できると思うんだけど」

 物は試しだと士郎は糸を口にくわえて、糸がぴんと張ったところでキャッチボールを開始した。キャッチボールをしている最中も楓はアドバイスをしてくれ、士郎は何となくではあるがコントロールが見に着きそうな予感がしていた。そこに、

「おーい! 早乙女、本城! 今からノックやるからサポート頼むわ」

 と佐久間が赤のノックバット肩に担いで催促した。

「わかりました! 士郎君ごめんね。藍ちゃん行くよ! 」

 はーいと答え藍も和葉にごめんねと詫びを入れキャッチボールを中断した。藍は士郎の横を通ろうとした時、ボソッと囁いた。

「よかったわね、念願の和葉ちゃんと出来るわよ」

 なぜそんなことをわざわざ言うのか、ムッとした士郎とは対照的に、満足そうに笑った藍はそのまま佐久間がいるホームベースの方へ走って行った。

「先輩」

 和葉が掲げた右手にボールを持ちながら士郎を呼んでいた。キャッチボールをしようということだろう。頭で理解するや否や士郎は体を和葉の方に向け二人はキャッチボールを開始するが二人の間には一切の会話がなく、ただボールが静かに二人の間を行ったり来たりしていた。しかし士郎はその時間を幸せを感じるた。とともにただただ不安に感じていた。明確な理由はないがただこの場から逃げたい、自分がこんなに楽しいことをしていていいのかという疑問を抱いていた。太刀川に言わせれば『逃亡症』というこの現象を今しっかりと自分の頭で理解した。などと頭の中で色々なことを考えていると和葉がキャッチャーミットをメガホン代わりに阿口に当て、少し大きな声で士郎に要求した。

「武沢先輩、立ちでピッチングをしよう。先輩の球をしっかりみたい」

 気づけば10メートルの距離はマウンドからホームベース間ぐらいの距離を取っていた。和葉の格好はほかの選手と同じユニフォームで、昨日や一昨日とは違う正規の服装をしていた。そんな些細なことだがそれだけで士郎はテンションの高ぶりを抑えられずにはいなかった。和葉が中腰になり、ミットのポケットをこちらに向けると士郎は大きく腕を振りかぶる。いつも通りのフォームで和葉のミットに投げ込んだ。乾いた皮の心地よい音を鳴らし和葉はまばたきせずにミットに入ったボールが描いた軌跡を見た後考え事を始めた。士郎は何だろうと思い和葉に駆け寄った。

「どうしたの月見里さん」

「ああ、少し計算をな。先輩がリリースしてからこのミットに届くまで、約0,45秒。目測ではあるがこの距離が18,44mだから言い換えるなら、145キロぐらいだな」

 士郎は彼女と会ってからこれまで何回も驚かされてきたが、今受けている衝撃は今までのものをはるかに上回るものだった。1秒未満の値をほぼ正確に数え、それを速度に直したのだ。さらに和葉は続ける。

「かなり速いが私としてはもっと球速が出ているように思えたのだが… 先輩もう一度頼む。次は少し違うところを見てみる」

 あっけにとられて反応が遅れたが、士郎はさっきと同じ場所に行き、同じように振りかぶった。先ほどよりも力が入っていたように感じたので、ふうっと息を吐き力みを取ろうと努めた。そして足を上げ一本足に立ち、流れるように腕を振りぬいた。先ほどと同じく快音響かせ、ボールを捕った和葉。先ほどの答えを聞くべく士郎は和葉の方に駆け寄った。

「どうだった? 」

「武沢先輩、凄いぞ! 」

 和葉が少し嬉しそうに見えた。そのまま話を続ける。

「先輩の指を離れたボールがこのミットに届くまで、ストレートの場合はバックスピンをかけえながら直進するのは知っているな? 」

「ああ、こんな感じだよね」

 士郎は和葉から受け取ったボールでバックスピンのイメージを伝えた。それを見て和葉は頷き、

「そうだ。このボールの回転数が多ければ多いほどストレートに『ノビ』があると言われるのだが… 先輩はこの距離で24回と少しボールが回転していた。1秒間に54か5ぐらい回転していることになる」

 それがすごいのかどうかわからない。が、いいことだということは何となく和葉の口調が少し早くなっているところから察した。

「む、これはすごいのだぞ。一流のプロ選手でも確か一秒間に40数回だったはずだ。さらにすごいのは先輩、ボールの回転がとてもきれいだ。傾きがほとんど0に近い。ストレートの完成形だ」

 べたべたに褒められ、先ほどの逃亡症とやらが再発しそうになったがすぐに立て直す。

「武沢先輩の謎が解けてすっきりした。よし先ほどやっていた早乙女先輩とやっていたキャッチボールをしよう。さっきのボール二球とも構えたところに来ていなかったぞ」

 分かったと頷き、士郎は先ほど投げていた位置のほぼ半分のところまで歩いて行った。

 こんな球を投げる人がいるのか、和葉は遠ざかる彼の背中を見ながらただただ先ほどの驚きの余韻に浸っていた。野球をやめなくてよかった、一昨日初めて彼の球を捕って以来思っていたがまた頭を駆け巡った。空を仰ぎ昔のことを思い出す。野球が楽しいのは当たり前だがそれ以外にもグラウンドには楽しみなことがあったことを思い出していた。そこに行けば会える今は無き特別な存在があった。右を見るとグラウンドと校外を遮る金網があり、その金網の外にはきれいな白色をした花を咲かす春紫苑が咲いていた。

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