4 待ち人不機嫌
「本当に済まなかった」
「いや、もういいって。だいたい月見里さんもわざとやったわけじゃないし、というか、ボーッとしていた俺が悪いんだからさ」
「そうよ和葉ボール頭にぶつけたぐらいじゃシロ君はビクともしないわよ。殺しても死なないようなやつなんだから。そうそう、シロ君たら去年の暮れにね…」
と幼馴染の美女二人組はわいのわいのと目の前の男の話題で談笑していた。野球部の練習が終わりそのまま喫茶店『山里』に士郎と雄平、藍と和葉が入った。昔から代々この高校のOBが引き継ぐことになっているこの喫茶店の今の店主は、元野球部ということもあって、野球部はよくお世話になっている。今は店の端っこにあるテーブルに和葉と藍、士郎と雄平が隣あい座っている。和葉がこんなにも士郎に謝っているのは、二時間前に和葉の返球が士郎の頭を直撃したからだ。それなりに痛かったが意識が朦朧とするというわけでもなく特に異常はないと言っているのだが、和葉はまだこの調子だ。
「いや、先輩をしっかり見ていなかった私のミスだ。申し訳ない。」
上目遣いで士郎をおずおずと和葉は見ている。やばい、それはダメだ。士郎はとっさに目を背けた。顔が熱い、鼓動が聞こえるほど激しくなっているのが分かる。胸に痛みを感じてとっさに胸に手をやる。
「シロ先輩大丈夫っすか?なんか苦しそうですけど。」
横から雄平が心配そうに見つめてくる。大丈夫だ。と返すがその声自体も大丈夫そうではないのが自分でも分かった。なんだろう三連続フォアボールした時ぐらい大丈夫じゃない。と先ほどから何も話さない藍が気になった士郎は藍に目をやる。悪魔の微笑だった。去年の暮れ、呼び出された教室で人間ピタゴラスイッチの実験台に選ばれ死にかけたことを思い出した。その時の「あなたにしか頼めないの」と男心をくすぐるような単語を言いながら顔面にはっつけていたそれだ。
「…ねぇ和葉。そんなに何か償いたいのなら全員分の飲み物持ってきてよ。その通路曲がった所にドリンクバーあるから。あ、私オレンジジュースね。」
「なぜ武沢先輩への償いにお前のお願いを聞かねばならないのだ」と言いたげな目で和葉は藍を見ていたが、「分かった。」と和葉が答え席を立った。俺も手伝うよと雄平もあとに続いた。相変わらず藍はニタニタと笑っている。何をされるのだ、と士郎は不安を募らせる。一年も一緒にいると、なんとなくその人の表情で何を考えているかはわかるようになる。今の藍の顔は明らかに悪戯をする前の顔だ。
「何?本城、また悪いこと考えてるでしょ。」
「別に?でもねぇ。女の子を見て顔が赤くなって挙句の果てに耳まで赤くしてたらねぇ。どんな人でも笑っちゃうわよ」
言い終わると人指し指をびっと士郎に向けて。
「シロ君、和葉のこと好きでしょ」
どこかの某有名少年探のようにドヤ顔決めて藍は言いはった。一気に血が顔に集まってくるのが分かった。塁線付近がじわっと熱くなって涙が出るんじゃないかと思った。
「なっ!」
多分反論の意を唱えようとしていた口がパクパクするだけで全く言葉は出てこなかった。そこにちょうど雄平と和葉が帰ってきた。一人二つ計4つのジュースの注がれたグラスを持っている。
「 …なにか良いことでもあったのか、藍」
藍の笑顔に気づいた和葉が若干めんどくさそうに言った。
「いやあ、シロ君がねえ。」
「ちょ、ちょっと本城」
「?武沢先輩がどうかしたのか?」
と和葉が視線をこっちにやる。とっさに、反射的に目をそらしてしまった。当たり前だ、あんな話をしたあとでは誰でも意識してしまうだろう。これは正当性のある逃げだ。
「月見里さん、何でもないよ。大丈夫だから。」
なにか頼んだらと言いながらメニュー表を渡した。ありがとうと受け取る和葉は続けて
「武沢先輩、あの、私は年下なんだしその、さん付けはやめてもらえないか?」
気を遣わしてしまってるようで気が引けると無表情に近い顔で言った。分かった、と首を縦に振り藍を軽蔑に近い目で睨みつけた。しかしそれを見て藍は怒るどころか満足げにして笑った。そして藍は思い出すように
「あ、今日試食に来て手の忘れてた。おーい店長!」
呼ばれると厨房から店主が登場した。
「おう藍ちゃんいつもありがとね。材料は用意できてるから時間はそんなにかからないから。じゃあ今から作ってくるから。」
「店長この子にもお願い。私と並ぶくらいかなりの甘党だから評価はしっかりと出来るわよ」
ポッコリお腹の店長に藍は和葉の文のパフェも頼んだ。了解と店長は答えた。
「店長、オムライス1つ」
はいはいと士郎の注文は適当に流して店長は厨房へ戻っていった。
「…俺と本城で態度違いすぎないか」
店長への不満を口に出すと、「まぁ私可愛いからね」と平然とした様子で藍が答えた。そしてグラスに並々注がれていたオレンジジュースを三分の一のところまで飲んだ藍がさっきまでとはうってかわり真剣な顔つきで口を動かした。
「で、今日はやる気のある二人が野球部の練習見に来てくれたわけだけど、入る気はあるの?」
少しの静寂が訪れ雄平が口をひらいた。
「いや、入るに決まってるじゃないですか。今日はさすがに月見里に圧倒されて練習らしい練習できなかったけど、自分としては今日からもうバリバリ練習するつもりだったんですよ。」
何を当たり前なことを聞いているんだと不思議がりながら、野球をやりに来たことをアピールするためかグローブをバックの中から出した。
「まぁ刀根君はなんとなくやる気なのはわかってたわよ。問題は、」
とここで一旦止めて藍は和葉の方を見た。それに釣られ士郎と雄平の目線も和葉に注がれた。
「私は…」
和葉は顔は斜め下を向き、続く言葉を探しているようだった。士郎はそんな和葉を見て、胸の中にあった思いを目の前にいる女の子に伝えたかった。
「言いたいことがあったら言ったらどうなの?シロ君。」
ため息を一つついた藍が士郎に言った。今まで和葉に集まっていた視線が今度は自分の方に向いていた。飲んでいたコーヒーの苦みと酸味の甘酸っぱさを口の中のつばとを一緒に飲み込んだ。
「…俺は月見里さんに球を捕ってほしい。チームのために、それ以上に俺自身のために」
お願いしますと頭を下げた。しばしの静寂が流れる。
「はーいお待たせ。イチゴパフェとプリンアラモードパフェです。それと野郎ども、オムだ。おあがり」
静寂を破ったのは厨房から再登場した店長だった。さっきまで神妙な顔つきだった三人の顔が明るくなった。
「すごいおいしそう!店長やるじゃない!」
「おお、これはすごいな。イチゴのいい香りがする」
「先輩!このオムライス半熟ですよ!美味すぎです。ほら食ってください」
騒がしい。今までのシリアスな雰囲気はどこにいったのだろうか。後輩はオムライスの乗ったスプーンをぐいぐいと顔に押し付けてくる始末。目の前の美女二人はスイーツをがっついていた。返答はもらえるのだろうか。士郎はやり切れない気持ちを抱え、雄平が持ってるオムライスを食した。
◇
「店長ごちそうさま。パフェおいしかったわ。合格ね」
『山里』でパフェを堪能した藍が店長の肩を叩きながら答え、ありがとうと店長は返事を返した。時刻はとうに六時を回り日は後半刻もしたら沈むだろうというところであった。
「じゃあ帰りましょうか。和葉だけ逆方向だけど」
ニタっと笑い藍は和葉の方を見た。その和葉はというと一切顔色変えず、そうだなと答えた。
「大丈夫?怖くない?最近ここらに幽霊が出るらしいわよ」
顔は和葉の方を向いてる藍だが、目は完全に士郎の方を見ていた。
「そんな話は聞いたことがないぞ。誰だそんなことを言うのは」
「シロ君よ」
なぜ俺なのか、大体そんなもの見たことも聞いたこともない。士郎はそう言おうとした刹那、昨日のことをありありと思いだした。
「あっ!」
和葉の事を幽霊だと言ったのは自分だ。そして久方ぶりに見た後輩に幽霊がついてると藍に言ったのも自分だった。
「何だと。武沢先輩、そんな誰の利益にもならない噂を流すのはやめてくれ。怒るぞ」
和葉は眉間にしわを寄せながら士郎に言った。
「違う!いや違わないけど」
「けどなんだ、はっきりしろ」
ああ口下手な自分が憎い、というか言葉が直球すぎやしないかこの子。気の弱い子なら立ち直れないぞ、気の弱い子なら。そう思っていると
「雄平君帰りましょ。シロ君後は頑張ってね。ちゃんと謝りなさいよ」
バスが来たのを確認してから、藍は雄平の手を引っ張りそそくさと乗車した。
「まずお前が俺に謝れ!」
そう叫んではみたが、藍には届かず、ただ窓から手を振り、遠ざかっていった。残された二人の気まずい雰囲気を察してか、店長も店に戻ってしまった。春になったといえど吹く風は冷たく何もせずただ立っているだけなら凍えそうだ。いや凍えそうなのはそれだけが原因ではない。後ろからの冷たい視線、背中に感じるものが一層そうさせている。何とかして誤解を解かないと、士郎は和葉の方を向いた。
「では先輩失礼する。しょうもないうわさはこれで最後にしてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
眉間のしわは取れたものの、依然厳しい口調でしゃべる和葉を呼び止めた。待ち人に出会えたのに仲が険悪とは笑えない。この子がいるのといないのでは俺の人生は全く違うものになる。だいたい本城もそれは分かっているだろうになんでこんな試練を俺に与えるんだ。頭おかしいのか、藍に対しての不満がどんどん積もる。が先に目の前で呼び止めたはずの少女が自分の言葉を無視してスタスタと帰っていくのを追った。
「待ってよ月見里さん!」
「なんだ。言い訳は聞きたくないぞ」
『山里』から50mほどのところで和葉を捕まえた。しかし和葉は歩く速度を落とさず、士郎の顔すら見ようとしない。相当ご立腹らしい。どうにかしてこの怒りを鎮めないと。
「言い訳するつもりはないよ。ただ、本城藍というやつのことを考えてみてくれ。君も知っているだろあの子の事は」
藍の態度は和葉と会っても全く変わらなかった。二人がどういう関係かは知らないが、仲が良いというのはそれだけでわかっていた。士郎の言葉を聞き、和葉はやっと歩みを止めた。
「当然だろう。あいつとは昔からの付き合いだ。自分が楽しければそれでいい、傲慢な奴だ」
「わかっているなら本城が楽しむために嘘をついたっていう可能性もあるだろ」
本城には悪いがあんなにバカにされたのだから、ちょっとぐらい罪を被せてもばちは当たらないだろう。
「…確かに可能性としてはあり得ない話でもないな。というか、うん。言われてみればあいつのあの笑顔はやっぱり悪だくみの顔だったな」
と一人で納得してくれた和葉を見て士郎は胸をなでおろした。そして神社の方向へ歩き始めた。そこから神社までのふたりの会話はぽつりぽつりと時々途切れ、また始まるといった感じで続いた。内容は藍への愚痴を野球の話でサンドするといったもので、途中から野球の話が本題になっていった。
「なぜ武沢先輩は私に球を捕ってほしいと頼んだのだ?あの似内先輩、はどうなのだ」
「ああ、似内さんさんはね、もともとショートなんだ。でもキャッチャーがいないってことでオールラウンドプレーヤーの似内さんがすることになったんだけど…」
「捕れなかった、ということか。なるほど納得した」
口内にたまった言われた言葉をぐっと飲み込んだ。目の前にはもう神社の鳥居が見えていた。
「武沢先輩、ありがとう。ここまででいいぞ」
和葉は鳥居の五メートル前で振り返り、士郎と対面した。ああ楽しい時間もここで終わりか。
「そういえば神主さんにこの神社でもう野球をするなと言われたんだけど」
「何、お祖父ちゃんがそんなことを言っていたのか。わかった、私から何とか言っておこう」
ここで練習が出来るということは、また和葉に取ってもらえるということだ。どうにかオッケーを出してもらいたいものだが。
「ありがとう。今日は楽しかったよ。…また明日」
士郎はこの先の言葉を出すのを渋った。和葉はまだ自分の口から野球部に入るとは言っていなかった。しかし、自分の今の気持ちはそんな思いやりの心と真反対の自分勝手なものであった。そしてそっちのほうが断然大きかった。
「…グラウンドで!」
そこまで言って和葉に背中を向けて走りでした。少し急な下り坂を転がるように駆け抜けていった。春に吹く風はまだ冷たかったが、確かに感じる春の陽気をはらんでいた。士郎が走る歩道の端には、クロッカスの花がけなげに咲いていた。