3 認識するのにはあまりにも遅く
目が覚めると何か違和感があるのに気がついた。が、すぐに違和感の正体に気づく。昨日は祖父の家に泊まったのだ。そのため寝てる部屋が違う、そこからくるものだろうと思った。しかしそれだではない。今までに感じたことのない左手のしびれ、それが少しまだ残っている、ような気がした。ここからの違和感からかも知れないと和葉は思った。武沢士郎という男は今までに受けたことのないようなボールを投げた。…なぜか投げているあの男は最中ずっと泣いていたが。
「…もう一度、受けてみたいな」
久方ぶりに受けたボールは確かに衝撃的なものだったがそれゆえにたった一球しか取れなかったことにもどかしさを感じていた。机の上の時計に目をやる。「あいつ」が来るまでもう少しかかるだろう。このフラストレーションを解消するため和葉は早めに行動を開始した。
◇
生徒にとっての目的地である高校を横切りその少し上にある古い神社を目指していたのは本城藍であった。半年ほど前、月見里和葉から高天山高校に入学することを電話越しに聞いた時は驚いた。てっきり和葉は「あの子」と一緒に野球学校に進むと思っていたからだ。が、いろいろ聞いてそれが叶わない状況になったことを知った。それ以降連絡はほとんど毎日とっていたが会うのは久しぶりということになる。しかし藍は旧友に会うというのに顔を少し曇らせていた。もちろん会うのはとても嬉しいのだけれど、はたして野球をあきらめた和葉にどう声をかければいいのか。「明日一緒に登校しないか」と言われた昨晩からずっと考えていた。そんなことを考えていたら、いつの間にか鳥居が見えるところまで来ていた。色々と候補は上がっていたが「和葉、太った?」と声をかけることにした。それぐらいの冗談なら久方ぶりの再会でも許してもらえるだろう。鳥居の前の坂を登りきると、境内で壁当てをする制服を着た少女が一人。昨晩から湧いて出た心配の煙が風になびくように消えていった。そしてメラメラと怒りと安堵の感情が入り混じりながら湧いてきた。家出した我が子が帰ってきた時の親の感情はこれなんだろう。と藍は思った。
「ちょっと和葉! 」
閑静な神社に藍の声が轟く。境内を散歩していたメジロが、枝垂れ桃で一休みしていたウグイスが一斉に飛び立って行った。和葉は驚く様子もなく藍が叫んだ直後に投げ、壁に当たって返ってきたボールを捕って肩越しに藍を確認した後振り返った。
「朝から騒がしいな藍。元気そうで何よりだ」
フッと微笑み旧友との再会を素直に喜ぶ和葉に対して、藍は再会の喜びと自分の昨日からの心配のをよそに壁当てをしていた和葉への怒りとが入り混じり複雑な表情をしていた。
「… 私はてっきりあんたがへこんでるのかと思ってたのよ。野球が嫌いになったんじゃないかって。だから… 」
言葉を詰まらせる。和葉は少し神妙な顔つきの藍を見て違和感を感じた。
「む。心配してくれていたとは思わなかったな。だが大丈夫だ。私は野球はもちろん好きだぞ」
野球が好き。藍は和葉からその言葉を聞けて嬉しかった。冷静になった今、和葉の声が電話越しで聞いていたものよりも明るくなっていることに気がついいた。
「だから和葉太ってるんじゃないかなと思っていたのよ。運動もせず、へこんでやけ食い。よくあるパターンよね」
「なっ! 」
「実際太ったんじゃない? 制服がきつそうよ」
二重まぶたの大きな目をさらに大きくさせた和葉を見て藍は満足した。先ほどの怒りは和葉のさっきの返答でほとんど消え失せていたのだが、少しからかってみたのだ。
「太ってなどいないぞ。体型はしっかり維持している。… はずだ」
心当たりがあるのか眼を色々な方向へ向ける和葉。それを見ておなか一杯になった藍はちらっと腕時計を確認する。あっと小さな声を漏らし
「和葉遅刻しちゃうわよ。はやく荷物持ってきなさいよ」
あと30分もすれば朝のホームルームが始まるところまで時計の針は進んでいた。無言でうなづいた和葉は少しへこんでいるようだった。1分も待たないうちに離れの家から和葉が出てきた。手には荷物と紙切れを持っていた。「お祖父ちゃんからだ」と和葉から差し出された紙切れには、「後は頼んだ」と書かれてあった。
「なにこれ辞世の句?和葉のおじいちゃん死ぬの? 」
和葉のお祖父ちゃん、つまり月見里源次郎とは藍も面識がある。というより和葉を通してではあるがかなり仲がいい。しかし「後は頼んだ」などと内容を明かされず言われて「任せろ」と二つ返事でいえるほど仲がいいわけでもなかった。
「失礼だぞ。お祖父ちゃんはまだまだ生きるつもりらしい」
それはフォローになっているのか、何を任されたのかはわからないが謎の責任感が藍を包んだ。
「とりあえず行きましょ。遅刻したら私の無遅刻無欠席に傷がつくわ」
と藍が言うと、和葉もうなずき二人で歩き出した。
「こうやって二人で並んで歩くのは久しぶりね。」
「… あぁ、一年ぶりぐらいか。」
神社から学校へ続く下り坂を歩きながら他愛のない話をしていた。受験の事、高校のルール、教師の事など。だがどちらも野球の事には触れなかった。一番聞きたいことであるのにもったいぶってか、はたまたためらってかどちらも野球というワードを避けて会話を続けた。そうこうしているうちに学校の校門前に着いた。
「… さっき神社で野球が好きだといったが。あれは半分嘘だ」
会話に少し間が空いたときに和葉が喋った。藍は横に立つ和葉に目をやった。自分の足の三歩前らへんを見ながらポツリポツリと話し始めた。
「私は野球が嫌いになっていた。嫌いというよりは野球を見るとつらいという感じだったが…」
歩きながら喋る和葉の顔を藍はただ見続ける。その感覚は自分も一度一年前に体験した。そしてそのつらさを解消させるものがこの高校にはあることを知ってほしかった。
「昨日変な男に会ったのだ。名は確か… 」
和葉は顎に手をやり少し考えるそぶりを見せる。あのね和葉、と藍は提案をしようとした。自分と同じく野球部のマネージャーをしないかと。
「武沢士郎といったはずだ」
和葉と同じ不幸を向いていた体を半回転させ、藍は和葉を全身でとらえた。さっきまでの頭に描いていた言葉が一気に吹き飛ぶ。
「武沢士郎!? 」
神社で和葉に向かって叫んだのと同じ、それ以上の声量で聞き返した。藍が止まったので和葉も歩みを止めた。
「む、知っているのか?そいつはピッチャーなのだがいいボールを投げてな。昨日境内でそいつのボールを見て気付いたら私はキャッチャーミットを持って部屋を出ていた」
少し照れくさそうに足元を見ながら話している和葉を見ながら藍の右手はポケットを探っていた。
「そこで野球の事をまだ好きでいた自分に気づいてな。恥ずかしい話、自分が苦しいのをただ野球のせいにしていただけなのかもしれない。それを昨日あいつのボールを捕って気付いた」
藍は紙切れをを開いた。「後は頼む」と書いてある。なるほど、そういうことか。藍の片方の口角がククッと上がった。今の藍の顔は完全に悪人のそれだった。和葉は顔を上げて歩みを進めながら話を続ける。
「だが変な奴でな。ボールを1球投げて、私がふと顔を上げた時には走って帰ってしまっていた。何だったんだろうあいつは」
和葉につられ藍も歩き始める。顔には笑顔を張り付けていた。
「ふーん。変な人もいるものね。でさ和葉、それならちょっと捕り足らないんじゃないの? 」
「まぁ少し捕り足りないな。だからその不満を朝の壁… 」
言い終わらないうちに藍は割り込むように答えた。
「だったらさ! 今日野球部の見学に来ない? 私が野球部のマネージャーやってるのは知ってるでしょ? 私の球捕ってよ。久しぶりに和葉に取ってもらいたいなー 」
マシンガンのごとく藍は和葉に言葉をぶつける。和葉はふむと顎に手を当てた。
「嬉しいが野球部の練習の迷惑だろう。だから部活後神社の境内でどうだ」
急に野球部に来るのはさすがに無理か。無理もない。和葉のコミュニケーション音痴は昔から知っている。野球でしか繋がりを持てないような人間なのだ。しかし今すぐにでも野球部に引きずり込みたい理由が出来た。ここで引き下がるわけにはいかない。
「まぁ見ず知らずの人間がいる所は苦手だしねあんた。… じゃあわかったわ」
はぁとわざとらしくため息をついた。藍は携帯電話を取り出す。
「もう学校に着くぞ。電話して大丈夫か」
校舎がもうすぐ目の前まで迫っていた。
「しょうがないでしょ。あんたとの予定が入ったんだから。キャンセルの一報は早い方がいいわ」
和葉は人に迷惑をかけるのが大の苦手だ。
「い、いや予定が入っているのならそっちを優先させるべきだ。私なんかのためにそんな時間よ削るようなこと… 」
眉毛を八の字にして困った顔をする和葉。ここだと藍は獲物を捕らえる前の豹のように目をぎらつかせた。
「あんたとの予定の方が大事なのよ。『山里』の新メニューのプリンパフェの試食会なんて二の次よ」
和葉は代の甘い物好きだ。目を輝かせながら藍の携帯を持った左手を制した和葉は
「野球部の練習、是非見学させてもらおう。だが迷惑をかけるわけにもいかない。今日は見るだけにしよう。それと藍とはもっと話したいことがある。部活後落ち着ける場所で話をしないか」
「じゃあ決まりね。六限の授業終わったら校舎前にいてね。案内するわ」
じゃあまた後でと手を振り和葉と別れた藍はニタニタと笑ていた。
「まさかシロ君ともう会ってるとは思わなかったわ。和葉のお祖父ちゃんやるじゃない」
予鈴のチャイムと同時に自分の教室である二年四組に入る。教室はチャイムの音が消えるぐらい騒がしかった。
◇
「大変な目にあった」
がっくりと肩を落とし、ため息交じりに和葉は呟いた。場所は学校の玄関、つまりは下駄箱前。時間は十五時半、つまりは六時限目が終了し部活動の始まりである。なぜ和葉がこんなにも疲弊してるかというと、話は先ほどの六限終わりのホームルームまで遡る。明日の予定を伝えるその時間で和葉のクラスでは新入生恒例の自己紹介をした。自己紹介は出席番号前から始めるか後ろから始めるかでじゃんけんをすることになった。出席番号順に並ぶと、和葉の名字は『やまなし』なので最後である。よってじゃんけんしなければならず、見ず知らずの輩から負けるなだの負けろだのの野次を浴びせられる。そしてじゃんけんに勝つと「じゃあ勝ったつきみやまさんから。」と担任が笑顔で名前を間違えて「勝った方から発表」という横暴により何で勝ったんだとブーイングを受ける始末。
「私の名前は「つきみやま」ではなく「やまなし」だ。月見に山と書いてそう読む」
と間違えを訂正すると「変わった名前だね」といろいろな人に名前をいびられた。
「なんなのだいったい。名前が少し変わっているからと寄ってたかって初見の人をいじりよって。これだから自己紹介は大嫌いだ」
少し不機嫌になりながら藍との待ち合わせ場所に移動する。
「おーい。月見里! 」
後ろから男の声がする。肩越しに目をやる。坊主頭の男が近づいてくる。
「俺、おんなじクラスの刀根雄平って言うんだけど…覚えてる? その様子じゃ覚えてないっぽいな」
「すまない。しかし君のことは覚えている。入学式の時ハンカチを拾ってくれただろう?」
「そうそう。まぁクラスもおんなじだし、よろしくな」
刀根雄平というその男は右肩に大きなバッグを背負い、左手には裸のグローブを持ってあった。
「刀根雄平だな、覚えたぞ。こちらこそよろしく。これからどこに行くんだ? 」
聞かなくてもわかっているだろう質問をあえてしてみた。
「ん?野球部の練習見学。アポなしだし初めてだから緊張するけどな。月見里は? 」
「私もそんな感じだ。っと、いたな」
学校の校舎とグラウンドは少し離れている。歩けば十分弱。この学校の標高はかなり高い、よって運動に負担がかからないよう、出来るだけ標高の低い所にグラウンドを造ったらしい。校舎からグラウンドまでは急な坂道と階段が続いている。グラウンドへ続く階段の前に見慣れた立ち姿があった。
「来たわね和葉!…そちらの方は? 」
刀根に気づいたのか、藍の態度が豹変した。昔からそうだったが、藍は中学の時「完璧超人」と呼ばれていた。容姿端麗、文武両道の藍は『他人』と認めた人には猫を被る。つまり他人だらけの学校生活では完璧な令嬢のような態度をとるが、友人だけの空間になるとその態度はがらりと変わる。阿諛追従な「自分が楽しければオッケー」の快楽主義者になる。裏表があるが逆に言えばそんな女王様みたいな彼女を見れるというのは、それほど彼女が心を許したということである。今は猫を被った状態。なじみが長い和葉にとっては心底気持ち悪い。
「刀根雄平って言います! 野球部の見学に来ました! 」
体育会系の見本となるような、元気ハツラツという言葉がぴったり合うほど刀根はハキハキと元気よく答えた。
「あら、部活動の見学は明日だけど、やる気があるのはいいことね。私は野球部二年マネージャーの本城藍って言います。よろしくね。刀根くん」
それに対し、いかにも「私は真面目です」と言った感じで藍は答えた。とても気持ち悪い。普段の図々しさはどこにいったのか。行きましょうか、と藍は和葉と刀根を引き連れ急な階段を降りていった。
「なぁ月見里。本城さん?めちゃくちゃ美人じゃね!? 大人しそうだし、こういうのってひんこーほうせーって言うんだよな! 」
品行方正、大人しそう、…藍が?藍に聞こえないように刀根は声を沈めて言ってきた。それを聞いてたまらず鼻で笑ってしまった。こうやって騙されてきた男が何人いたことか。新たな犠牲者を見ながら和葉は一言。
「刀根、君はもっとこう本質を見る目を鍛えたらいいぞ」
といった。刀根は何を言ってるかわからないという様子だった。そんな雑談をしてる間に階段は全て降りきり、私たちはグラウンドの土を踏んでいた。
そこではもうすでに野球部の練習と、サッカー部の練習が開始されていた。グラウンドについた途端、刀根は黙り込んでキョロキョロしていた。そして、
「居た! シロ先輩だ!! 」
刀根の目はとてもキラキラしていた。どうやら知っている先輩がいるようだ。野球部の選手は今ランニングのまっただ中だが、ぎりぎり野球ができるほどしか人がいない。少ないなかで頑張っているから藍も応援したくなるのか?などと考えていた。
「あれ? 刀根くん武沢くんのこと知っているの? 」
相変わらずリンは猫をかぶっている。…武沢? 和葉は藍に声をかけようとした。
「おい藍… 」
「おーい! 武沢く〜ん!!ちょって来て」
野球部の塊の中から一人こっちに向かって走ってきた。和葉はその男を知っていた。というより、昨日からずっと忘れられなかったといったほうが正しいだろう。
「… その優等生ブリッ子やめてよ。気持ち悪いよ。で、何? 」
武沢はこちらにチラッと目をやると、再び藍の方を向いた。と思ったが凄い速さでこっちに顔が向いた。とても丸い目をしていた。その驚きようにこちらもびっくりした。
「ちょっと本城! 」
士郎は藍の右手をつかみ和葉と刀根から藍を引きはがした。
「何よ」
「やばいよ、俺の後輩に幽霊くっついてんだけど。それにあの子うちの生徒だったんだ。やばいよ雄平呪われちゃうよ」
士郎は刀根雄平を親指で刺しながら言った。藍は前にいる男の発言が日本語であるのに理解するのに時間がかかった。そして理解した後吹き出し笑った。一通り笑い終えた後、藍は士郎の耳もとに寄り、
「シロ君、あの子、月見里和葉はね私の後輩よ。今年からこの高校の生徒よ。キャッチャーでね。昨日からあなたの球が忘れられないんだって」
士郎はぱちぱちとまばたきをし、和葉の方を見た。
「え!月見里さんうちの生徒だったの!? 」
幽霊じゃないということにもかなり驚いたが、同じ高校ということに士郎は心底驚いた。ドクンと心臓が跳ね上がる。昨日の神社での一件がこのグラウンドで再現可能だということだ。
「ちょっとシロ先輩無視はひどいですよ! 無視は! 」
刀根が士郎と和葉の間に割って入る。今まで掛け声しか響いてなかったグラウンドに一気に雑音がこだまする。それを聞いてランニングしていた野球部も集まってきた。ああ、さっそくややこしいことになりそうだと和葉は思った。寄ってきた野球部の先頭にいたがっしりとした体型の男が話し始めた。
「武士どうしたんだ? そんなに目を輝かせて」
士郎の事を「ぶし」と呼んだその男は似内慶次。士郎の先輩にあたる受験を控えた高校三年生だ。いつもの落ち着いたトーンで士郎に話しかけた。
「いや、聞いてくださいよ似内さん!この子ですよ!昨日僕の球を取ってくれた月見里さんですよ」
武沢は鼻息を荒くして自慢するように答えた。
「そういうことか。ちょっと待ってろ」
そういうと似内は駆け足でどこかに向かって行った。
「武沢先輩」
士郎は慌てて振り返る。昨日は自分の事を呼び捨てのフルネームで呼んでいた目の前の少女は申し訳なさそうに自分の名前を呟いた。
「な、何? 月見里さん」
和葉のことを意識しているのは自分でも分かった。
「昨日はすまなかった。先輩を呼び捨てにして本当に無礼な行為を… 」
「そんなこと気にしなくていいよ! 」
手をブンブンと横に振り武沢は早口で答えた。幽霊じゃないというのになぜこんなにも緊張しているのだろう。
「お取り込み中のところすみませんが、シロ先輩僕のこと忘れてませんか? 」
刀根が少しふてくされながら言った。
「おう、雄平久しぶり。というか先輩とか言うな気持ち悪い。いつも通り呼べ」
「なんか月見里の時と対応違いません? あと高校だから上下関係はしっかりしないとですよ」
「いいだろ。家が隣でよく遊んでたし、引っ越したのだって一年前だろ? そんなに改まる必要はどこにもない」
士郎と雄平は和葉と藍とちょうど同じ関係だ。士郎と雄平が昔話をしていると似内が帰ってきた。左手にはキャッチャーミットを持っている。これは俺のボールを捕ってくれるのか?ちらっと和葉の方を見る。和葉は藍のの方を見ていた。藍はニンマリとした笑顔でさよならする時のように、手を横に軽く振っていた。なんだろう、あの二人の美女の間で熾烈な戦いが繰り広げられているような気がする。そこに似内は歩み寄る。
「… 月見里だったか? 今からこいつの球うけてもらえないか? 服装が服装だから無理にとは言わないが」
似内が親指で武沢を指しながら言った。周りには野球部が物珍しそうに周りを囲む。困ったような顔をした和葉はため息をつき分かったと返事を返した。似内からキャッチャーミットを受け取り、とてとてとこちらに歩み寄ってきた
「武沢先輩、肩は出来てるか? 」
「俺は大丈夫だけど… 月見里さんこそ大丈夫? 制服だし… 」
「昨日よりは幾分かましだ。それより早く始めよう」
士郎は頷きそのままマウンドに駆け足で向かっていった。小高い丘の頂点に立った士郎は、空を見上げふぅと息を吐いた。昨日のことを思い出していた。自分のボールを捕ったあの姿がもう一度見れる。ワクワクが体を支配する。そして軽くキャッチボールした後、
「月見里さん、もうオッケーだよ! 座って」
「… 分かった」
和葉はすっと目を瞑り体の中心にミットを持ってき、そして捕球の体制に入った。それを確認し士郎はゆっくりと動き出す。野球部はそれを固唾を呑んで見守っていた。しかしその中で藍ただ一人はまるで勝ち誇った方に笑っていた。
「なんで笑ってるんですか。自慢じゃないけど、シロ先輩は中学の頃から超速球派として結構有名だったんですよ」
藍が笑っているのを見て刀根が伺うように答えた。
「確かにシロ君の球はかなり早いし「特殊なもの」だと思うわ。でもね、和葉はそんな球でも快音響かせて取るわ」
自信たっぷりという感じで藍は答えた。そしてその言葉通り、士郎の投げたボールは和葉のミットに収まっていた。昨日の神社での再現であった。一瞬の沈黙、その後に野球部が大歓声を上げた。一人ひとりが心から喜んでいるようだった。しかし士郎にはその歓声は届いていなかった。ただこのマウンドにいる自分と、ホームベースの少し後ろにいる月見里和葉の存在を頭でしっかりと理解したのだ。長い間待っていた待ち人は18,44m先にいる彼女の事であるということを。「君に会えてよかった」という気持ちがのどから溢れそうになったとき
「武沢先輩! 」
と聞きなれないが確かに自分を呼んでいる声が聞こえた。刹那士郎はおでこあたりに鈍痛を感じ、仰向けに倒れた。「ああ今日は格別いい天気だ」駆け寄ってくる野球部の気配を感じながら士郎はそう思った。