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○○の事情

父親の事情

作者: 藍月 綾音

死に関する表現があります。苦手な方はお気をつけ下さい。

「彼女の事情」「彼の事情」の進バージョンです。前半シリアスですが、後半に砂糖注意報発令中です。

 金の光がふわふわと揺れる。指と指を絡ませながらしっかりと手を繋ぎ、雪の積もった道なき道を親子程年の離れた二人が歩いていた。ようやく春が訪れようとしているこの時期は、まだまだ体の芯から凍ってしまうのではないかと思うほど寒い。けれど晴れ渡った空が気持ちよく、白い息をせっせと吐きだしながら隣を歩く奇跡を体現したような美しい少女が進の心を温めてくれるので、寒さをあまり感じなかった。


 しばらく無言で歩いていたが、大きな道路が見えてきたあたりでピタリと少女のあゆみがとまった。進も立ち止まる。自然と眉間にシワがよった。見通しの良いその場所からは、数台の行き来する車と信号が見える。道に沿うように家が建ち並ぶがすぐに真っ白な雪原になっている。秋には稲穂が黄金の絨毯をつくる田んぼだ。古い家ばかりのこの町では進の子供の頃から景色はあまり変わらない。


「ここね」


「あぁ、ここだな」


 進はギュッと少女の手を握り、過去に思いを馳せる。いまだに胸が締め付けられ、苦しくなる日の事を。


◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇


 その日はわざわざ東京から進の造る酒を扱いたいと大企業の社員が商談に来る予定だった。兎澤 進は古くからこの地で酒造を営む兎澤酒藏の社長という肩書を持っている。父親が亡くなり跡を継いでから、十年以上の歳月が過ぎた。妻の深雪との間には十歳の息子がいる。母親と妻と長男、それに数十人の従業員にも恵まれ、やっと社長の役割を分かりかけているような気がしていた。


 長男の誠のピアノの発表会の日と重なってしまったけれど、この商談がまとまれば兎澤酒蔵の将来が保証されるようなものっだったし、契約の内容はほとんど決まっている。後は直接会って細かい所を詰めるだけで、午前中で商談は終えられるはずだった。万が一終えられなくとも、将来的には誠の為になる商談だった。ピアノの発表会は来年もあるけれど、大企業との商談のチャンスは今だけだ。そう考え、進は実質まだまだ実権を握っている母親の智子と共にピアノの発表会には遅れていくことにした。勿論、誠は納得ぜずに散々駄々をこねたようだったが深雪に説得されて渋々会場に向かうことにしたようだった。まぁ、誠には埋め合わせに好きなゲームを一つ買ってやる約束はさせられていたのだが。


「じゃぁ、進くん。お仕事頑張ってね。ちゃぁんと午前中の連弾はビデオに撮っておくから。いってきまぁす」


「いってきまぁす」


 事務所で契約書の確認をしている進の所に深雪と誠が顔を出した。進は書類から顔を上げずに片手を挙げて左右にふった。


「いってらっしゃい。話が終わり次第すぐに行くから、頑張れよ」


 息子にそう声だけかける。「はーい」という返事が遠ざかっていき、車のエンジン音にタイヤが凍った雪を擦る音が続いた。この辺りは雪が深い。昨日は一日中大雪だったので、雪が凍っているのだ。夜が明ける前から除雪車が動きだし、道路は車が走れるようになっているはずだから、雪道に馴れた深雪の運転ならば心配はないだろう。


 深雪は東京育ちだ。高校を卒業してすぐに進について、ここに嫁いで来たのだが右も左も分からないここで暮らすのは決して楽ではなかったと思う。深雪はよくやってくれていると進は感謝していた。それでも、深雪が文句も言わずに仕事の手伝い、家事、子育てを引き受けてくれている事に気づかぬ内に甘えていたのかも知れない。深雪と誠の顔を見なかった事を、息子にだけしか声をかけなかった事を、そして商談を断らなかった事をすぐに後悔することになる。


 深雪達が出かけてから三十分もたたないうちに、誰かが大声を出して近づいて来ていた。進はその切羽詰った声に、何事かと書類から目を上げ窓の外を見る。窓は半分雪に埋まっているが、敷地の中に近所に住む同級生が駆け込んでくるところが見えた。その様子はいつも穏やかに笑みを浮かべている男と同じ人物と思えぬほど慌てている。何度も雪に足を取られながら、大声で叫んでいた。何故か嫌な予感に襲われ、書類を机の上に放り投げると音を立てて進は立ち上がった。良い知らせを持ってきているように見えない。なにか良くない事があったのだと思った。昨日の吹雪は凄かったから、近所の誰かの家が雪崩にでも巻き込まれたのだろうか。そう思い、事務所を出ると同級生の木田が進と目があった途端に大きく口を開けた。



 『聞いてはいけない』そう思った。



 木田の膝が震えていて、何故か涙目になっている。そして、顔面が蒼白になってすがるように進の目を見た。よい知らせのはずがなかった。


「み、深雪ちゃんの…………っ」


 言葉が途切れ、国道の方を指さす。それだけで十分だった。深雪と誠の身になにかあったに違いない。迷わず木田が指し示した方へと駆け出した。短く「母に」と言えば木田が頷く。それを見て進は足を速めた。


 一体、深雪と誠になにがあったというのだろうか。心臓は早鐘を打ち、思考は乱れる。祈りが天に届くならと、深雪と誠の無事を祈った。




 進の祈りは半分聞き遂げられ、半分届かなかった。




 夢中で走り、辿り着いたその先で、進は赤く光る回転灯と大勢の人だかりを見た。田舎町で朝も早いのに、近所の人達が進の顔を見ると道を譲り痛みをこらえたような表情をする。誰かが妻の名を悲痛な声で叫んでいる。急に足が重くなった。なぜ、妻の名をそんな声で呼んでいるのか理解したくなかった。先程の木田はなぜ足が震えていたのだろうか。まるで今の進のように。


 止まってしまった足と思考を許さないと言うかのように、両脇に手が添えられた。


「しっかりしろ」


「道をあけろ、進が来た」


 幼馴染の幸太と大樹が進を支えていた。しかし、その声は今まで聞いた事がないくらいに重く進の胸に響いた。目の前の人がいなくなり、白い白衣と見覚えのある結婚指輪をした細い手が血にまみれ力なく揺れている所が見えた。


 深雪と誠が乗った車が信号待ちをしていた所に、スピードを落とさずに左折したトラックが、雪で滑って曲がりきれずに深雪達の車に突っ込んできたという。深雪が覆いかぶさるようにして盾になってくれたおかげで誠は無事だった。しかし、深雪は即死だった。


 細くほそく煙が立ち昇っていく所を、進はぼんやりと見ていた。考える暇も、悲しみ暮れる暇もなかった。葬儀の手配に、事故から目を覚まさない息子の入院の手続き、仕事だって休めない、やらなければならないことが山積みだった。あっという間に五日がすぎ、深雪は今、煙となって空に消えていく。なにをどう、考えていいのか、捉えればいいのか、分からない。智子は悲しみのあまりに泣き続け、それでも誠にずっと付き添っている。さすがに今日は喪服を着てこの場にいるが、憔悴しきっていた。空に消えてく煙を見ながら、まだ、ダメだと自分に言い聞かせるしかなかった。


 どこか現実感がなく、映像を見ているような錯覚に落ちている。そう自覚があったが、かと言って現実感がともなったら一体自分がどうなってしまうのか想像もできなかった。そしてただ、不安だった。


 深雪の葬儀が終わった夜、まだ目を覚まさない息子の病室に進はいた。智子が孫の傍にいたいから病院に泊まり込むと言って聞かなかったが、もうそろそろ体力的にも精神的にも限界が近い事は誰の目にも明らかだった。進と古株の従業員に説得されて、今夜は家で体を休めている。進は誠が目を覚ました時に不安にならないように、ジッと誠を見つめていた。


 どこにも外傷はなく、CTのMRも撮影したが問題は見つけられなかった。けれども、誠は目を覚まさない。誰かにこの不安を吐露したいが、もう隣に深雪はいなかった。そっと誠の手をとる。小さいが温かいぬくもりを感じられる。規則的に上下する胸に安堵しながら、ギュッと誠の手を握り締めた。


 深雪と最後に交わした視線を思い出せない。進が目を覚ました時にはもう朝食の支度をして、台所で背を向けていた。一緒に食卓を囲んだ朝食時はいつもどおり新聞を片手に文字をおっていた。食後に淹れてもらった珈琲も、新聞から目を離さずに受けとった気がする。深雪の笑顔はすぐに思い出せるのに、最後に交わした視線だけは、どうしても思い出せなかった。


 商談を断って進も一緒に車に乗るべきだった。いつも外出する時のように進が運転をするべきだったのだ。だいたい、誠は男の子なんだから、ピアノなんて習わせなくても良かったのだ。あの日、深雪が『いってきます』と挨拶にきた時に、どうして進は書類から顔を上げて、深雪の顔を見なかったのだろうか。あの時数分でいい、少し会話をして引き止めていたら、深雪達は事故に合わなかった。どうして、いつもの日常がこの先ずっと続くなどと信じていられたのだろうか。『いってきます』と行って出て行ったならば、『ただいま』と帰ってくる事が当然なのに、何故深雪は『ただいま』と言えなかったのだろうか。


 なぜ、どうしては尽きない。

 ああしていたら、こうしていたらという後悔も尽きない。

 確かなのは、深雪はもう進に笑いかけはしないという事だった。


 深雪がいなくても、誠が目を覚まさなくても。時間は無情に過ぎていく。朝起きれば日が昇っているし、夜になれば月が昇る。学校のチャイムはいつもどおりに鳴って子供達に時間を知らせるし、町内放送だって五時になれば家に帰れと音楽を流す。TVは世の中のニュースをさも重大な事件だというかのように大げさにとりあげ、進のお腹は食べ物をくれと悲鳴をあげる。


 進はそこに在る現実という名の苦しみを飲み込んでいくしかなかった。


 神がいるのかいないのか、進には分からない。けれど、事故から一週間後誠は目を覚ました。一週間も目を覚まさなかったとは思えないほどあっさりと笑い声をあげる。食欲もあり、目を覚ました後、念の為にと受けた検査も全く問題はなかった。医師もこれならばとすぐに退院の許可を出してくれ、誠は家に戻る事になった。


 そこで問題になったのは、深雪のことである。病院で過ごす間も、しきりに母親は無事だったのか、なぜ病室に顔を出さないのか聞きたがった。その度に進は胸を痛めながらも大丈夫だと言い続けた。誠の心に負担をかける事を思うと本当の事を言う事が出来なかったのだ。勿論、いずれは話さなくてはならないし、家に帰れば仏壇に深雪の遺影がある、隠し通せるものでもないと分かってはいた。


 きっと、進自身が深雪がもうこの世にいない事を口に出したら深雪が帰ってこれなくなると思っていたからだ。おかしな話だが、進はそう考えてしまうのだ。深雪の骨も拾ったのに、なぜ深雪が帰ってくると思ってしまうのか、自分でも説明が出来なかった。


 けれど誠に伝えなかったのは、間違いだった。ここでも進は後悔をする。

 

 深雪の死を伝えられた誠は、絶叫を上げ暴れたのだ。子供の声とは思えない慟哭だった。瞬時に深雪の死で自分を責めているのだと伝わる叫びだった。進は誠を抱き寄せ、暴れる子供を力いっぱい抱きしめた。責められるべきは誠ではなく、二人で行かせてしまった進だった。



「誠は悪くない。誠のせいじゃない。お前が無事で嬉しいんだ」



 そんな言葉を誠が意識を手放すまでずっと繰り返していた。

 そして、次に目を覚ました誠は深雪の事を自分の心から消去してしまっていた。


 この時進の手の中にある小さな子供を育て、独り立ちさせる事が、たった一つの深雪の為に出来る事だと思った。誠の様子から、自然と誠の前で深雪の話をすることはなくなった。あまりに辛い事があると自分を守る為にその記憶をないものとしてしまう事があるらしい。憶えていると心が壊れてしまうのだと医師は言った。成長してゆけばその内思い出すこともあるだろうと言われ、今はそっとしておく事が誠の為だと診断されたのだ。


 けれどもほんの少し、そう、ほんの少しだが進は理不尽だと思ってしまった。深雪は誠を守って亡くなったのに。誠はそれを封じ込めてしまった。同時に、それほどまでに自分を追い詰めてしまった小さな子供に心が痛む。正反対の感情をおさめることは、進にとって辛いことだった。


◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇


 元々進と智子は仕事にかかりきりで、家事と子育ては深雪に任せきりだった事が良くなかった。そして、まだ若いとはいえ智子が孫の面倒を見ることにも限界があったようだ。深雪が亡くなって二年が過ぎた頃、智子から見合い写真を渡されたのだ。相手は昨年離婚して東京からこちらへもどってきた同級生の幼馴染だった。


「丁度バツイチ同士、いいだろう?あたしゃもう年だ。深雪さんが亡くなってから二年待ってやったんだ。跡継ぎが一人ってのも不安だし、四の五の言わずに結婚おしっ」


 その頃、進には迷いがあった。小学六年になる誠は未だ深雪のことを思い出さない。母親というものがどんなものかを知らずに大人になる事が良い事だと思えなかった。それに贅沢なのだろうが、誠も智子も生活に疲れていた。自営業で時間が自由になるといえばなるのだが、ありがたい事に売上が年々伸びていてそれにともない仕事量も増えていた。かと言って家政婦をやとう程収入がある訳でもなかった。

 深雪を連れて帰ってこなければ、進は母親の決めた相手を結婚をするはずだった。そう考えれば、結婚をする事も良いかと思えた。誠に母親というものを教えてやれるのだから。


 幼馴染の真知子も『出戻り』と言われ実家で肩身の狭い思いをしていたらしい。あっという間に話はまとまり、半年後には真知子が嫁いできた。

 しかし、そんな結婚が上手くいく訳がなかった。深雪でなければ誰でも同じだと思っていた進が、真知子が家の中にいることに拒否を示したのである。お見合いをし、付き合っていた半問の間は平穏だった。真知子は良く気のつく、穏やかな気性の女性だった。幼馴染だけあって、進の事もよく知っている。誠にも優しく接してくれ、母親になりたいと言ってくれた。誠もよく懐き、これならばと思ったのだ。

 けれど、母親として、妻として迎えた真知子の行動に進は強烈な違和感を憶えてしまった。真知子の座る場所は深雪の座る場所だった。真知子が捨てようとする食器や小物は深雪が好きで集めたものだった。深雪のいた場所に、真知子がいるその違和感に進は愕然としたのだ。つまるところ、これっぽっちも深雪の事を忘れられていなかったのだ。それでも、そんな気持ちを表にださなければ、この結婚は続けられると思っていた。


 しかし、日を重ねるごとに、真知子は元気をなくしていき、暗い顔をするようになった。そして、進の前で毎晩泣くようになった。原因はどうやら姑らしい。真知子がなにをしようとしても、『兎澤家のやり方』というものを教えようとするそうだ。それが真知子には耐えられなかったのだ。そんな事を訴えられても進に出来ることは、うんとかあぁとか生返事をするくらいだった。『兎澤家のやり方』がどんなものかは知らないが、それこそ一度母親の言い分を聞いて、良い返事をしておけば良いのだ。そして、母親の見えない所で自分のやり方とやらをすればいいだけの話ではないか。しかし、生真面目で立派な自分の理想の嫁を目指す真知子に、そんな事は出来なかった。それに進は気づかなかったのだ。


 真知子は大学を卒業してから、しばらくは都内の大手企業で社員として働いていたという。自分の考え方、行動が常に正しいと言い切れる自信を持っていた。洗濯物のたたみ方一つでも、姑と真知子は衝突し、お互いに引かなかった。毎夜、真知子が漏らす愚痴は増え、自分の正しさを主張する。仕事で疲れた体に鞭打ち、向いあって話を聞くが日々繰り返される小さな衝突に進は疲弊していった。真知子や智子にとってはおそらくとても大事な事なのだろうと思う。母親に至っては昔から気難しく、こうと決めたらやり通したいだった。だから小さいなルールが無数にある。小さい頃から智子のルールに従って生きてきた進や誠にとって当たり前の事でも、嫁いできた真知子には難しい事なのだろう。智子は悪い人柄ではないが、面倒臭い人間ではあると息子の進でさえ思うのだから。


 真知子の中で徐々に進に対しての不満も、蓄積されていった。進にたいし真知子は「庇ってくれない」や「私を認めてくれない」などと言い出すようになっていたのだ。


 進なりに努力をしていたつもりだった。真知子にわからぬように智子に話をしていたし、家事などをし、誠を可愛いがってくれる真知子に感謝もしていた。決して深雪に対する愛情と同じものではなかったけれど、確かに情はあったのだ。


 よくある事だったと言えばよくある事なのだが、結婚をして一年も立たぬ内に真知子はアルバイトの若い男と男女の仲になり、店の金を持ち出して行方をくらました。しばらくしてから届いた署名済の離婚届けは、その日の内に進の手によって役所に提出された。深雪にたいしても、真知子にたいしても良い夫ではいられなかった。どうしたら良いのか、どんなものが良い夫なのかも、もう分からなくなってしまった。


 もう結婚はしないと、智子に宣言をして少しだけすっきりした。真知子がいなくなって智子はとても落ち込んでいた。よく小言は言っていたが、決して真知子を嫌っていたわけではなかったのだ。元々智子が真知子を気に入った事から始まった結婚だった。真知子に兎澤の家の事について教えているつもりで、悪意はなかった。キツイ物言いが真知子にどんな影響を与えるか気づいていなかっただけだ。進からは深雪と真知子どちらにも同じように接していたように見えた。真知子は進の言う事を信じなかったが、好意からの口出しだったのである。


 それからは、 ただただ仕事に没頭し、もう二度と弱気にならないように家事を覚え、母親と二人で誠を育てる事に専念した。子供成長が楽しみだった。幸い何故か誠は真知子にあまり懐いていなかった為に、大きな心の傷は負っていないようだった。中学に入学したと思ったらあっという間に大学受験の時期になる。日々が充実していたのか、生活に追われていたのか、瞬く間に年数が過ぎていくように感じた。誠が教師になりたいと言いだした時、反対をするかと思った智子はあっさりと許可をだした。東京の大学に行くことも承諾したので、誠よりも進のほうが驚いた。思い返せば、真知子が出ていってからピタリと跡継ぎ関してなにも言わなくなっていたとやっと気づいた。


 無事に都内の大学に合格した誠が新潟の家を出て行ったあと、静かになった夕飯の席で進は切り出した。


「本当に良かったのか?」


 一瞬、何を言っているのか分からないという顔をしたが、すぐに得心顔になり煮物をつつきながら頷いた。


「いいんだよ。人生は一度きりだ。後悔のないよう好きにさせおやり。深雪さんが生かしてくれた命なんだから、あたしの思いなんざ誠には邪魔なだけだよ。この蔵は従業員に恵まれてる。後は進の好きなようにすればいいさ」


 カタリと箸を置くと、細くなりシワが増えた手を伸ばし進の頭をポンッと叩いた。


「アンタと深雪さんには悪い事したね。アンタが大学院に進んで博士にでもなってればこんな田舎で事故に合う事もなかっただろうに。真知子さんのことも、悪かったと思ってるよ」


 身内に頭など下げたことのない智子が、後悔を滲ませ目を伏せた。まさか、母親が深雪の事故に責任を感じているとは思っていなかった進は、息をのみ物を言う事ができなかった。

 急に母親が小さく見えたのである。良く考えればもう七十近い、仕事の上でもしきりに自分の衰えを口にするようになっていた。進にとってはいつまでも母は母であり老いやそれに伴う衰えなど考えた事もなかった。いや、見ないようにしてきたのかも知れない。なんだかとても親不孝をしているような気になり、労るように母の背中を摩った。口から零れた言葉は、「おふくろのせいじゃない」という、実にありきたりな言葉だった。


◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇


「進くんのせいじゃないわよ。深雪の運命だったのよ。誰かのせいにするなら、神様のせいよ。神様だって悪いと思ったから私を進くんの所まで連れきたのよきっと」


 まるで進の心を読んだかのように、隣に立つ少女がいった。進を見上げながら微笑んでいる。


「ねぇ、進くん。私はクリスティンなの。深雪じゃないわ。確かに深雪の夢を見て、深雪の知っている事はほとんど私の中にあると思う。進くんの事も大好き。だけど深雪じゃないわ。深雪じゃない私でもいい?」


 不安そうに揺れる瞳が眩しくて、進は目を細めた。少女は息子の誠に連れられて進に会いにきた。親の転勤の都合でイギリスから日本にやってきたという。生粋のイギリス人である少女クリスティンには、深雪の記憶があるのだそうだ。大昔進が深雪に送ったプロポーズの言葉を実現する為に、進の元へと海を超えてやってきた。


 もうすぐ五十に手が届く進にとっては赤面ものだが、プロポーズの言葉は、『死んでも生まれ変わってまた一緒になろう』だった。正確には、その前に『結婚して一緒について来てほしい。俺はお前しか考えられない』と言い、最後は『なろう・・・』ではなく、『なりたいほどに・・・・・・・愛している』なのだが甘すぎるそれを息子にバラされなかった所にまた深雪らしさを感じた。


 クリスが進を見つめる瞳には、熱が籠もっている。誠を見る目は慈愛に溢れていた。十八歳の娘がする眼差しではなかった。プロポーズの言葉もそうだが、クリスの行動も言動も深雪しか知らない事をいくつも知っている。短い間に間違いなくクリスが深雪の記憶を持っていると進は確信していた。


 今もクリスが眉をひそめ辛そうに見る地面は丁度深雪が事故にあった場所だった。進は何も言ってはいないのに、クリスはちゃんと分かっている。よい思い出ではないだろうに。


 けれども同時に、深雪では無いことも分かっていた。姿形だけの話ではない。クリスとして十八年間生きてきたのだ。やっぱり深雪ではないのだと思う。


 不安そうなクリスに悟られないように顔を一瞬そむけ、片手で口元を隠して笑みを浮かべる。

 

 年甲斐もなく、車から降りたクリスが満面の笑顔で駆け寄ってきた時に恋に堕ちたと言ったら笑われるのだろうか。まさか深雪の記憶があるとは思わなかったけれど、全く違う容姿なのに、深雪が帰ってきたのだと思ってしまったのだ。


 まるで、映画のワンシーンを見ているように、クリスの金色の髪が光を反射し、雪に反射された光と混じる光景を美しいと思った。同時に何故か深雪の姿が重なって見えた。見間違いだと思ったのにすぐにプロポーズの言葉を言われ、納得してしまった。


 どうやら進は深雪の魂に弱いらしい。理屈ではなくストンと恋に堕ちた。クリスが愛しくて可愛くてたまらない。この年になってまた、この病気に襲われるとは思いもしなかった。クリスが若いからそれに引ずられているのかもしれないけれど。不安そうなクリスを安心させたくて、昔そうしていたようにクリスの腰を引きよせ抱きしめた。


「今度は焦らずにゆっくり進もう。君が望む事をすればいい。昨日も同じ事を言ったけれどこんなおじさんに縛りつけられなくてもいいんだ、君は君の道を歩けばいいと思う。そうだな、しばらくはお付き合いって事でお互いの事をもっとよく知ることからまた始めよう。二十年近い月日は人を変えるに十分だ」


「ずるいわ、そんなの答えになってないもの。やっぱり深雪じゃない私では進くんの一番にはなれないの?私だって進くんしか考えられないのに。それとも深雪じゃなくて二番目の奥様を愛してるの?とても綺麗な方だものね」


 その衝撃に思わずむせて咳き込んでしまった。なぜ、クリスの口から真知子の容姿を知っているのか。

 なぜだか、もの凄く悪い事をしているような罪悪感に襲われた。咳き込む進の背中をさすりながら、クリスは唇と尖らせて呟いた。


「さっきまこちゃんの部屋に行っって二番目の奥さんとの結婚式の写真を見せてもらったのよ。だって気になるじゃない」


 実の息子に殺意を覚えた瞬間だった。そういう物は見せてはいけない。例え頭で納得したって感情は別物なのだから。深雪は怒ると進くんではなく貴方になる。ヒヤリと肝が冷えた。


  誠とクリスは教師と生徒という立場で再会したという。どうやらクリスは誠に世話をやいたようだ。前世での息子が大人になって現れたのだ。世話をやくなと言わないが、こんな美少女に好意を持たれたら、相手がどう思うかは予測するべきだった。前世の記憶があるならばそれぐらい出来たはずである。おかげでバカな息子は母性愛と異性愛をすっかり勘違いして恋人を紹介するつもりでクリスをここまで連れてきてしまったのだ。


 しかし、クリスの想い人は父親である進だった。少し亀裂を入れたくなる気持ちもわかる。わかるが、なにも真知子の写真を見せて、ほじくり返さなくても良いではないか。従業員とかけ落ちされた事はそれなりに傷になっているのだから。


「真知子の事は過去の事だよ。上手くいかなかったんだ」


「深雪も過去の事?」


 かぶせるように問うクリスに深い悲しみの色が混ざる。クリスのそんな表情一つで、進まで胸が痛くなる。相手の表情で一喜一憂する事なんてもうないと思っていたのに。


「過去の事にできないから、上手くいかなかったんだよ。誠にどう聞いたのか分からないが、真知子は働いてくれていたアルバイトとかけ落ちしたんだ。もう未練なんてないよ」


「私、不安なの。進くんが好き。今すぐにでも結婚して欲しいのよ」


 進の腕の中でクリスは身を震わせた。泣かれる事が苦手な進は腕に力を込め直した。


「貴方はもう大人だし、私が今子供だということは分かっているのよ。だから進くんが慎重になるっていうのも、頭では分かるの。だけど、明日私が生きている保証はどこにもないと思わない?進くんが生きている保証もどこにもないのよ」


 頭から冷水をぶっかけられたかのような衝撃だった。深雪と誠を二人でピアノの発表会に行かせた事を進はずっと後悔していた。誰よりも分かっていたはずだった。『いってきます』と言って出かけても『ただいま』と帰って来ない人もいるということを。


「深雪はもっと生きているつもりだったわ。明日も明後日も十年後も、ずっとずっと年をとるまで進くんと一緒に生きていくつもりだったのよ。自分じゃどうにもならない事もあるって私は知っている。トラックがあんな勢いで向かってきたら私に出来る事なんてなかった。深雪にはふせぎようもない最期だったと思うの。あんな事故がまた私に襲ってきたら?進くんに襲ってきたら?」


 声をつまらせて、クリスは進にしがみついた。


「人は簡単に死んでしまうのよ。私は後悔をしたくない。許されるなら、もう貴方と離れ離れになりたくない。一日、一日を大事にして貴方と過ごしたい。どうしても深雪じゃないと駄目?私じゃ、クリスじゃ、記憶を持っているだけじゃ嫌なの?」


 よみがえる事故の日の痛みに顔をしかめて、進はクリスをかき抱いた。一人の人間の一生分の記憶をもつクリスに、どうしようもなく胸が痛んだ。力を込めて抱きしめて、首筋に顔をうずめる。


 普通に暮らしていれば、まだ死の恐怖に怯えることのない年齢のはずだった。深雪の最期の記憶がクリスを苦しめたのだろう。


「俺はいい夫になれなかった。いつも苦労ばかりさせて、労ることも、ねぎらうこともロクにしなかった。仕事ばかりして、深雪と一緒にどこかへ出かけることも少なかった。今は年も離れている、君を幸せにする自信がないんだ」


 吐き出す言葉は震えている。進にとって深雪との結婚生活は幸せだったけれど、深雪にとって幸せではなかったろうと思う。真知子とも良い結婚生活が送れなかった。もう一度誰かと恋愛をして、結婚をすることが恐ろしいと思う。


「貴方、相変わらず頭がいいくせに馬鹿ね」


 泣きながら、クリスが深雪の口調で言った。


「深雪は幸せだったのに。じゃなかったらここに私はいないわ。そんな簡単な事も分からないの?深雪の記憶の貴方はいつでも素敵だったわ。私と深雪は、いいところも悪いところも全部ひっくるめて貴方の事が好きなんだから。深雪が幸せじゃなかっただなんてどうして思うのよ」


 それは紛れもなく深雪からの許しの言葉だった。もう二度と許されることなどないと思っていたのに。


「本当にもう一度、やり直させてくれるのか?君は新しい人生を生きていけるのに?」


 また、自分を選んでくれるのかと思うと歓喜でどうにかなりそうだった。


「ここから、もう一度始めましょう。でも、結婚はすぐにしてくれなきゃ駄目よ」


 大人びた口調で、もう一度許しの言葉を口にする。涙がでそうなほど嬉しかった。


「今度こそ良い夫になれるように努力する」


「だから、そのままの貴方でいいんだってば。大好きよ進くん」


「うん」


「うん、じゃないでしょ」


「もう一度結婚してください」


「よくできました」


 そう言って笑うクリスの目尻に涙が伝う。そっと目尻に口付けると、そのまま引き寄せられるように口づけを交わした。何度も何度も交わされる口づけに生きている喜びを感じる。進のもとへやってきた奇跡に感謝して二度と手放さないとあの日に祈ることをやめてしまった神に誓った。


 プップーと後ろからやってきた車にクラクションを鳴らされ、その車が目の前に止まる。慌ててそちらを見ると、見慣れた軽自動車に幸太と大樹が乗っていた。目を見開いて驚くその顔はちょっと間が抜けて見える。


「やっぱり、進!じゃねぇっ!おまっ、それ犯罪っ!!」


「いい年して、なにやってんだっこんな公道でっ!」


 驚く幼馴染をもっと驚かしてやろうと悪戯心が芽生えた。


「あ~、うん。嫁をもらう事にした」


「大樹さん幸太さん、こんにちは。クリスティンといいます」


 やっぱり憶えていたかと思いクリスと顔を見合わせて笑う。

 

「「……………………嘘だろうっ!」」


 こんな若くて綺麗な、しかも金髪美女をどこで捕まえたんだと、喜びと羨望の混ざった幼馴染達の叫びが静かな町に響き渡るのだった。


読んで頂きありがとうございました。前作を読んで下さった方々、評価、お気にり登録して下さった方々、本当にありがとうございました。この作品もすこしでも楽しんで頂けたらうれしいです。

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[一言] 素晴らしかった! これまで読んできた恋愛ものを超えるぐらいおもしろかった! 泣けた!笑えた!感動した! すぐ3つ読んでしまいました。 この作品のこと、胸に刻んで生きていきます。 ありがとうご…
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