第1話「バーでの騒動」a
カウンターを背に、黒髪の彼は頭をポリポリと掻いた。真っ黒なコートを羽織り、両手に革手袋をはめた、文字通り全身黒ずくめの男――マイティ。
映画に出てくる悪役エージェントのような格好をした彼は、溜め息混じりに呟く。
「面倒なことになった……」
ここは街の小さなバー。酒の値段はあまり高くなく、落ち着ける静かな場所として、街の人々には好評である。
そのバーにて――マイティは今、窮地に陥っていた。彼の目の前には三人の男が仁王立ちしている。一人は長身の男、もう一人は豚のように丸々太った男、三人目は猫背で禿げ頭の男だ。三人とも黒いスーツを着ており、いかにも裏稼業の人間らしい威圧感を放っている。
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、他の客達は料金を机の上に置くと、そそくさとバーを脱け出していった。
「なあ、うちのお嬢様に手を出すとは一体どういうつもりだ?」
ノッポが手をポキポキと鳴らしてマイティに訊く。殺気を放ちながら。
マイティは質問にすぐには答えず、ノッポの影に隠れている女性に目を向ける。長く垂らした空色の髪に真っ白なブラウス、まだ幼さを残す顔立ちの美女だ。
そして、その彼女は汚物を見るような目をマイティに向けていた。
そんな目で見られる筋合いは無いんだがなあ、とマイティは思う。俺が一体何をした? ちょっとばかしスカートを捲ってやっただけじゃないか、人様を空気のように扱った報いだ、と心の中で相手をなじっていた。
一体何が起きたかと言うと――先程、いつものように独り寂しく飲んでいたマイティはカウンターに座っていた美女を発見。顔もスタイルも彼好みだった。近くに護衛の男がいることに気付かず、早速口説こうとするも、美女はマイティをまるで相手にしない。そんな彼女の態度に苛ついたのか、それとも、ただ酔っていたためか、マイティは彼女のスカートを勢いよく捲ったのだった。それはもう勢いよく。周りの男性客の注目を集めるほどの勢いであった。それまで氷のように無表情だった彼女は一瞬で赤面し、慌ててスカートを押さえた。その傍らでマイティはざまあみろと言わんばかりに笑った。当然のことながらその行為は護衛の三人の怒りを買い、そして今の状況になってしまったのだ……。
「自業自得」――これほどこの状況に合う言葉が他にあろうか。
だが当のマイティは自分が悪いとはこれっぽっちも思ってはいない。むしろ相手が悪いと思ってさえいた。「自分は悪くない、無視した相手が悪い」――酔っているとはいえ、素晴らしいまでの自己正当化。ここまでくると、もはや質の悪い酔っ払いである。
ちなみに誤解の無いように言っておくが、マイティは普段からこのようなことをしているわけではない。今回は少しばかり酒で酔っていたため、そのような行為をしてしまったのである。そう、全ては酔っていたから起きてしまったこと。本人は軽いイタズラのつもりだったが、相手の怒りを買うのには充分だった。
「お嬢様に恥をかかせることがどれだけ罪深いことか、オメェの身体にわからせてやるよ」
忘れないように深く刻んでな、と言うや否や、禿げ頭の男は懐からダガーナイフを取り出す。
キラリと光を反射する刃を見て、マイティはぞっとした。このままでは三人と一戦やらかさねばならない。マイティにとって、それは出来るだけ避けたかった。そもそもこの状況は自分で引き起こしたようなものだが、そんなところまで頭が回る酔っ払いではない。
「まぁまぁ、落ち着いて」
ジェスチャーを使って、マイティは禿げ頭の男に落ち着くように諭す。もっともそんなことをしたところで相手の怒りを軽減させることなど出来ないのだが。
「そうカッカしないで、よく考えてみてくれ。いいか? たかがスカート捲りだぞ? そこまで怒ることか?」
三人はお互いに顔を見る。一体こいつは何を言っているんだ? この状況下でよくもそんな馬鹿なことが言えるものだ、と呆気にとられる。
一方、マイティは三人が黙って自分の話を聞いているものだと思い込み、そのまま話を続けていった。
話が続くにつれ、三人の表情はより険しいものへと変わっていく。「少し痛い目に遭わせるだけでいいだろう」という考えから「徹底的にやってしまえ」という考えへシフトしたのだ。
そうとは知らずにマイティは自分の行為を正当化する言い訳を語っていた。
そして――
「別にいいじゃないか、スカートなんて捲ったって減るものでもないし……ん?」
ふと話が途切れた。
マイティの先程までのふてぶてしさが急に影を潜めていく。
……はて、俺は何をこんなに力説しているんだ?
酔いが醒めてしまったのだ。
酔いから醒めたばかりか、まだ頭がボーッとしている。
今の状況を飲み込めていないマイティはとりあえず周りを見渡した。
客の代わりに金だけが置かれた淋しいテーブル、顔を真っ赤にした怪しい男達、こちらを睨んでいる清楚な感じの美女……。マイティは現在自分が置かれている状況を把握するため、必死に記憶の糸を辿る。そして――
「これはヤバい……」
スーッと血の気が引いていくのが自分でもよくわかる。おそらく今の自分の顔は真っ青だろう。
今頃になって、自分の仕出かした事の重大さにようやく気付いた。
だが時既に遅し。
目の前の男達はマイティを半殺しにするつもりでいた。
「おい、ボブ」
ノッポはデブの男へ声をかける。
「何だい、兄貴?」
「お嬢様を安全なところ――車へお連れしろ」
「了解」
ボブと呼ばれた男は「こちらへ」と美女をバーの外へ誘う。彼女はしばらくマイティを睨みつけていたが、やがて諦めたかのようにボブに連れ添われて出入口のドアまで歩いていく。
ドアまであと一歩のところ、彼女は何か思い出したかのようには足を止める。するとこちらへ振り向き、こう言った。
「そいつを殺して」
……はい?
マイティは我が耳を疑う。確かに今、「殺して」と彼女は言っていた。小さく、しかしハッキリとした声で。
殺して? スカート捲っただけなのに?
呆然とするマイティを一瞥した後、美女はボブと共にバーを出ていった。
残された三人――マイティ、ノッポ、禿げ頭の男の間に重い沈黙が流れる。
マイティはノッポ達の顔を見る。彼らの顔は少しばかり青ざめており、先程の命令に困惑しているようだった。無理もない。なにせ護衛対象から殺害命令が来たのだ。「半殺し」ではなく「殺害」。前者はともかく後者はリスクがあまりにも大きすぎる。しかもスカート捲りの仕返し(と思われる)のためとは……。
マイティは彼らに心底同情した。
おそらくあの美女は彼らの上司、もしくはボスのご令嬢なのだろう。彼女に逆らうことはつまり、自分の出世に差し障りが生じることでもある。いや、出世だけではない。信頼や印象も傷をつけられてしまう。そうならないためにも彼らは彼女の言うことには従うしか無い。なんて哀れな奴等なんだ! スカート捲りをしたために「殺害」対象になった俺も哀れだけど!!
「おい、お前」
ノッポが俯いていた顔を上げる。その表情から彼が覚悟を決めたことがよくわかる。
こいつ、殺る気だな。
彼としては出来るだけ穏便に事を進めた「つもり」だったがどうやら失敗したようだ。
もう、やるしかない!
マイティも覚悟を決め、身構えたその時だった。
「死にやがれ!」
「ッ!?」
先程まで黙っていた禿げ頭の男がいきなりダガーナイフを突き出してきた!
マイティは咄嗟に左へ飛び退き、それを交わす。だが、男は諦めない。二、三度ほどマイティに斬りかかる。マイティは紙一重でそれを避けていくも、あっという間にバーの隅に追い詰められてしまった。
「これで終わりだな」
「…………」
男がナイフの切っ先をマイティに向ける。対するマイティは何も言わずに、ただ切っ先を睨み付けていた。
「死ねッ!!」
男がナイフによる渾身の突きを仕掛けた、その瞬間――
「……超感覚」
ヒュンッと空を斬る、むなしい音。本来ならばナイフの切っ先が狙い定めた獲物の肉を切り裂く感覚が手に伝わるはずだった。だが、禿げ頭の男に伝わったのは空振りによる慣性力。
直後、勢いで男の身体が前へ持っていかれる。
「なッ!」
驚く間も無く男はバランスを崩し、床に倒れる。そして、そのすぐ側でマイティが何事もなかったかのように立っていた。
「全く……新調したばかりのコートが汚れたじゃないか」
マイティはカッコつけてコートの埃を払った。クリーニングに出していない、大して綺麗ではないコートだ。もちろん「新調したて」ではないことは言うまでもない。
ナイフで斬りかかられたにもかかわらず、マイティの態度には幾分か余裕が含まれている。一方、ノッポは顔を青ざめて、そして悲鳴混じりに叫んだ。
「お前、“異能者”か!!」
“異能者”という言葉にマイティがニヤリと笑った。
直ぐ様、ノッポが懐から消音装置付きの拳銃を取り出し、マイティに向け発砲した。
パシュッ、――乾いた音と共に弾丸が一発、マイティへ真っ直ぐと飛んでいく。ノッポとマイティの距離は僅か四、五メートル。絶対に外すことのない近距離射撃――のはずだった。
かわした……!
禿げ頭の男の突きをかわしたときと同じように。弾丸の軌跡に触れるか触れないかのギリギリの体勢――上半身を大きく斜めに反らすことでマイティは弾丸をかわしたのだ。それも、一瞬で!
標的が消えた弾丸は壁に打ち付けられ、壁に波紋を刻む。その壁を背にマイティは体勢を戻した。まるでこれ以上の発砲は無駄だと言わんばかりに、ゆっくりと。
その光景を見て、ノッポが戦慄する。
「この、化物め」
ノッポは躍起になって引き金を引いて、引いて、引きまくる。弾倉が空になるまで、いや、空になっても彼は引き続けた。
発射された弾丸は十四発。一人を殺すには多すぎる数だが、一発たりともマイティに命中しなかった。
全てかわされたのだ。
まるで全ての弾丸の軌跡がわかっているかのように次々と体勢をすぐに変え、いや、「すぐ」なんて比ではない。この場合、「瞬時に」という方が適切だろうか。そうでなくては猛スピードで次々と飛んでくる弾丸などかわせない。とにかく、彼は並外れた運動神経で弾丸十四発を全てかわしたのだ。
先ほどの一発も加え、計十五発の弾丸が壁にめり込んでおり、マイティの身体には掠り傷一つ無い。
「これが異能力、というやつか……」
ここでノッポは弾切れになっていることにようやく気付く。が、新しい弾倉を取り出そうとはしなかった。ノッポはわかっていたのだ。目の前の男に銃撃は無駄だということを。