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カップル割引を使うため幼馴染と恋人のフリをしたら、そのまま本当に付き合うことになりました

作者: 久能のの
掲載日:2026/08/01

「なんでアンタがここにいんのよ」


 西日が深く差し込む放課後の教室。オレンジ色の光が机の木目をなぞり、舞う埃をキラキラと照らしている。そこへ、彼女の声が不機嫌そうに響いた。

 声の主は、幼馴染の結城凛ゆうきりん。腰まで伸ばした黒髪を払い、眉間を寄せて俺を睨みつけてくる。廊下で見せるよそ行きのすました笑顔は影を潜め、少し尖らせた唇だけがそこにある。この飾り気のない不機嫌な面持ちこそ、俺だけが知る彼女の素顔だ。


「こっちのセリフだ。日直の仕事を押し付けておいて、とっくに帰ったと思ってたぞ」

「……忘れてたのよ」


 凛は気まずそうに黒板の隅へ視線を逃がした。


「だろうな。お前が覚えてるわけないと思って、俺が代わりにやっておいてやったんだよ。感謝して、ジュース一本くらい奢れ」


 机を挟む俺たちの間には、誰も割り込めない空気が漂う。クラスメイトは「夫婦漫才」と面白がるが、これが俺たちの日常だ。昨日も購買で小銭を切らした凛に十円玉を渡せば「頼んでない」とそっぽを向いたくせに、昼休みが終わる頃には俺の机の上にコーヒー牛乳が置いてあった。言葉を交わさずとも通じ合う仕草の中に、二人の重ねてきた時間が静かに息づいている。


 すらりと伸びた手足に凛とした立ち姿、少し色素の薄い茶色の瞳。成績は常にトップクラスで、体育の授業では女子の中で一番速く走る。すれ違う誰もが見惚れて振り返り、女子からは「凛様」と羨望混じりに呼ばれていた。


 ――だが、普段の彼女はガサツで面倒くさがりで、すぐに毒を吐く。休日はよれよれのジャージに眼鏡姿で転がり、部屋に至っては俺が片付けないと足の踏み場すらなくなる始末だ。だらしなくて意地っ張りな素顔。それを知っているのは世界で俺、瀬戸悠真せとゆうまだけだ。誰にも見せない無防備さを独占している満足感が、静かに胸の奥へ広がっていく。


「ふん。頼んでないし。だいたい、悠真がいつも勝手にやるんでしょ」

「やらなきゃお前、平気で一週間くらいゴミ袋放置するだろ。カビでも生えたらどうすんだ」

「生えないわよ。ていうか、アンタは私のお母さんか何かなの?」

「誰が母親だ。こっちは善意の無償奉仕でやってんだよ、無・償・奉・仕。まったく、どこまでも人使いが荒い」


 互いに言い返してばかりのこんなやり取りも、もう何千回繰り返したか分からない。


 夫婦、か。


 冷やかしを耳にするたび、苦い歯痒さがこみ上げる。こいつのことが、ずっと好きだった。物心ついた頃から隣にいるのが当たり前で、その笑顔を誰より近くで見つめていたかった。


 だが、想いは口にできない。長年かけて築いたこの脆く愛おしい均衡が、たった一言で瓦解するのが恐ろしかった。肩肘を張る彼女が素でいられる場所が俺の隣なら、一線を越えて逃げ場を奪いたくはなかった。


 だから軽口で本心を隠す。「人前の顔ばかり飾りやがって」と揶揄し、悔しそうに膨らむ頬を見ては、密かに安堵のため息を噛み殺していた。


「……で? 結局、なんで残ってたんだよ」

「別に。ちょっと調べ物してただけ」


 凛はそう言って、手元のノートを素早く閉じた。その拍子に、一冊の雑誌が机から滑り落ち、パサリと乾いた音を立てた。


「うわっ」


 拾い上げてやると、それは最新のファッション誌だった。表紙には『この夏行きたい!オシャレなカフェ&レストラン特集』の文字がポップなフォントで躍っている。


「へえ、お前もこういうの読むんだな」

「……悪い?」

「別に。ただ、意外だなってだけ。学校じゃ誰からも文句のつけどころがない優等生として通ってる凛様が、俗っぽい雑誌読んでるなんて、ファンが知ったら幻滅するんじゃないか?」

「うるさいわね。別にいいでしょ、私が何読んだって。……ていうか、ファンとかやめて。鳥肌立つ」


 すっと顔をそむける凛。夕光を浴びる横顔に、わかりやすい頑なさが滲んでいた。


「まあ、いいけど。で、行きたい店でもあったのか?」

「……別に、そういうわけじゃ」

「ふーん?」


 凛が雑誌のページをめくっていく。虹色のクリームソーダ、星屑を散りばめたようなパンケーキ、そして、レンガ造りの壁が印象的な、シックな雰囲気の洋食レストラン。そのレストランのページで、凛の指がふと止まった。一瞬のことだったが、俺の目はその動きを捉えていた。


『レトロな雰囲気で味わう、半熟卵が解ける極上オムライス。カップルには嬉しい特別割引も!』


 そんなキャッチコピーが、やけに目に焼き付いた。


「……ここ、行ってみたい、とか?」

「違っ……たまたま開いてただけよ!」


 首筋から耳たぶまで熱を帯び、落ち着かない手つきで視線をあちこちへ逃がしている。指先がノートの端をきつく巻き込んでいた。そのわかりやすさに、つい口元が緩んでしまう。


「そうか? じゃあ、今度の休日、暇なら付き合ってやってもいいぞ」

「はあ!? なんでアンタと!」

「なんだよ、その言い方。せっかく俺様が誘ってやってんのに」

「誘われた覚えはない! それに、アンタと出かけたって、どうせロクなことないでしょ」

「そりゃどうも。じゃあ、一人で行けよ。寂しくな」

「ひ、一人で行けるわけないでしょ! ……そんなの、一人で行ったら余計虚しいじゃないの」


 俺が立ち上がると、凛は言葉を詰まらせ、口元をキュッと歪めた。本当は行きたいくせに。素直に「行きたい」と言えない頑固さが、いかにもこいつらしい。


 俺はわざとらしく大きく息を吐き出した。


「はあ……。まあ、いいや。どうせ俺も暇だし。そこのオムライス、美味そうだしな。仕方ないから、付き合ってやるよ」

「……アンタがそこまで行きたいなら、付き合ってあげてもいいけど」

「よし決まり。じゃあ、さっさと片付けて帰ろうぜ」

「ちょっと、置いてかないでよ!」


 凛は慌ててノートと雑誌を鞄に押し込むと、俺の後に続いて歩き出した。上気した顔を夕光から隠すように俯く凛から目を逸らし、俺たちは教室のドアへと向かった。


 こうして、俺たちの休日の約束は、いつものように、気づけば流れで決まっていた。

 他愛のない約束を交わしたはずの二人。しかしこの時、十数年守り続けてきた距離が静かに崩れ始めていた。


 ◇


 そして迎えた日曜日。俺と凛は、例の洋食レストランの前に立っていた。

 レンガ造りの壁に、蔦の絡まるアイアンの看板。あたたかなランプの灯りが窓から漏れるような、歳月を穏やかに重ねた老舗ならではの趣を漂わせている。


「へえ、結構いい感じの店じゃん」

「でしょ? 雑誌でも人気なんだって。ほら、悠真が好きそうな、レトロな感じで」


 今日の凛は、学校で見せる隙のない結城凛の姿だった。胸元に繊細なレースがあしらわれた真白なブラウスに、流行りのアシンメトリーなロングスカート。丁寧に巻かれた髪が光を浴びて揺れ、すれ違う誰もが見惚れるほどの華やかさだ。俺の隣にいるのが場違いに思えるほど、完璧に仕上がっている。


「……なんでアンタ、そんなジロジロ見てくんのよ。穴が開くわ」

「いや、別に。ただ、いつものよそ行きモードも大変だなと思ってな」

「な、失礼ね! こっちが普段の私よ!」

「はいはい、そうですか」


 軽口を叩きながらも、視線を外せずにいた。普段のジャージ姿とは違う、気合の入った装い。視線のやり場に困り、浮足立つ気持ちを夏の暑さのせいにして誤魔化す。


 店内に足を踏み入れると、カラン、とドアベルが軽やかな音を響かせた。その音は短くて丸く、まるで古い友人に背中を叩かれたような、気取らない歓迎だった。

 温かみのある照明が、磨き上げられたダークブラウンの木目をしっとりと照らし出している。

 店内にはデミグラスソースの甘い香りが漂い、調理場から届く肉の焼ける音やカトラリーの繊細な金属音が心地よく重なっていた。壁に飾られたセピア色のポスターや低く流れるジャズも相まって、どこか懐かしい温もりが空間を満たしている。


「いらっしゃいませ」


 店の奥から、人の良さそうな初老のシェフが顔を出した。白髪のオールバックに、糊のきいたコックコートがよく似合っている。俺たちに気づくと、にこやかに微笑みかけた。


「お好きな席へどうぞ」


 俺たちは窓際のテーブル席に腰を下ろした。メニューを開くと、そこには手書きの温かみのある文字で、ハンバーグやナポリタンといった、子供の頃に胸をときめかせた定番の洋食メニューが並んでいる。


「うわ、どれも美味しそう……。ナポリタンもいいし、カニクリームコロッケも捨てがたい……」

「だな。俺、やっぱオムライスにしようかな。凛は?」

「私はナポリタンにしようかな。……でも、オムライスも気になるわ。一口ちょうだいね」

「おい、自分の分頼めよ。一口あげるつもりはないぞ」

「なによケチ! ……一口くれないなら、私もオムライスにするわよ。その方が気兼ねなく食べられるし!」

「はいはい、好きにしろよ」


 結局、二人して名物のオムライスを頼むことにした。

 注文を終えると、俺たちの間には心地よい沈黙が流れた。普段なら何かと憎まれ口を叩き合うところだが、店の雰囲気がそうさせるのか、それとも、お互いに少しだけ、この特別な時間を意識しているからか。


 やがて運ばれてきたオムライスは、息を呑むほどの美しさをまとっていた。

 ふっくら丸みを帯びたきつね色の卵が、温かな照明を返して輝いている。たっぷりとかかったデミグラスソースは濃厚な光沢を放ち、香ばしく立ち上る湯気が食欲を刺激する。フォークと皿が触れ合うかすかな音が、心地よく耳に届いた。


「「いただきます」」


 二人で同時に手を合わせ、スプーンを手に取る。

 卵にスプーンを入れると、中からとろりとした半熟の部分が、ゆっくりと溢れ出してきた。チキンライスと一緒に口に運ぶと、卵のまろやかさ、デミグラスソースの奥深い味わい、そして鶏肉と玉ねぎの旨味が凝縮されたケチャップライスの優しい甘みが、互いに溶け合いながら口の中いっぱいに広がっていく。


「……美味しい」


 凛が、ぽつりと呟いた。肩の力が抜け、吐息のように漏れた声。学校で見せる計算された笑顔ではなく、幼い頃のように素直に口元をほころばせている。微かな紅潮を浮かべ、瞳を輝かせるその無防備な横顔から、俺は視線を外せなくなった。


「だな。これ、マジでうまいわ」


 俺も素直に感想を口にする。それからは無言のまま、二人で競うようにスプーンを動かした。香ばしいデミグラスと柔らかな卵が解け合うたび、自然と口元が緩んでしまう。時折視線が交差しては、照れくさそうに目を細め合った。こんなにも穏やかで満ち足りた時間は、いつぶりだろうか。


 あっという間に皿は空になり、俺たちは食後のコーヒーを飲みながら、満足感に浸っていた。窓の外では、夏の太陽が、木々の緑を鮮やかに照らし出している。


「はあ、美味しかった。連れてきてくれて、ありがと」

「別に。俺が来たかっただけだし」

「……素直じゃないんだから」


 凛が小さく声を漏らして笑う。その無邪気な響きが、肩に溜まっていた力みを柔らかく解きほぐしてくれた。ああ、こいつをここに連れてきて、本当に良かった。


 そろそろ行こうか、と俺が腰を上げかけた、その時だった。


「……あ」


 凛が、小さな、しかし凍りつくような声を漏らした。見ると、彼女は自分の小さなショルダーバッグの中を手探りで漁りながら、みるみる顔色を失っていく。


「どうした?」

「……ない」

「は?」

「ないの! 財布が!」


 その言葉が落ちた瞬間、頭の芯が冷え込み、胃のあたりが重く沈み込んだ。

 財布がない? どういうことだ。


「嘘だろ。よく探せよ、バッグの中、全部出してみろ」

「探してる! でも、どこにも……! どうしよう、家に忘れてきたのかも……」


 学校でお手本のように振る舞う凛が、こんな凡ミスを犯すなんて。だが、こいつのだらしない「裏の顔」を知っている俺には、十分にあり得ることだと納得できてしまう。


 蒼白になって右往左往する凛。俺はひとまず落ち着かせようと、自分の財布を取り出した。


「まあ、待て。とりあえず俺が払うから。お前はたまにこういうことやらかすからな」

「ご、ごめん……。本当に、ごめんなさい……」

「いいって。気にすんな。で、いくらだ?」


 伝票を手に取り、金額を確認する。オムライスが二つと、食後のコーヒーが二つ。合計で、三千円。まあ、妥当な値段だ。

 俺は余裕綽々で財布を開き、中身を確認して――そのまま凍りついた。


「……嘘、だろ」


 財布の中には千円札が二枚。小銭入れの十円玉を一枚残らず数えても合計二千五百円足らず。三千円という現実の壁の前に、たかだか数百円が絶望的な隔たりとなって立ちはだかる。


「ど、どうしたの?」

「……足りない」

「……え? う、嘘でしょ……!?」


 凛の絶叫が、静かな店内に響き渡った。

 しまった、と思ったが、もう遅い。店の奥から、先ほどのシェフが心配そうにこちらを覗いている。


 二人で顔を見合わせ、途方に暮れる。どうする、どうすればいい。

 高校生が二人で食い逃げなんて、洒落にならない。警察沙汰は確実だ。そうなれば、学校にも連絡が行き、凛の「品行方正な優等生」という評判も地に落ちるだろう。それは、絶対に避けなければならない。


 冷や汗が背中を滑り落ち、心拍数が跳ね上がる。指先までじんじんと痺れるような焦りに襲われ、店の温かな喧騒さえ遠のいていった。ポケットを探っても硬貨一枚出てこない。必死で打開策を探るが、完全に空回りしていた。

 万策尽きたと思ったその時、先日教室で目にした雑誌の記憶が、焦る頭の中にふと思い浮かんだ。


『カップルには嬉しい特別割引も!』


 慌てて視線を走らせると、壁のポップが目に入った。『カップル限定・全品20%オフ!』。その文字が、手詰まりの状況における唯一の抜け道に見えた。


「……なあ、凛」

「な、なによ……もうおしまいだわ……私の築いてきた学校での立場が……」

「まだだ。まだ終わっちゃいねえ。あれ、見ろよ」


 俺が指差した先を見て、凛もハッと目を見張った。


「カップル割引……」

「そうだ。三千円の二割引なら、二千四百円。俺たちの所持金で、ギリギリ払える……!」


 救いの手が差し伸べられた。しかし、そこへたどり着くためには、一つの、そして非常に高いハードルをクリアしなければならない。


「……でも、私たち、カップルじゃ」

「ふりをするんだよ」

「ふりって……そんなの、できるわけ……!」

「やるしかねえだろ! ここで警察沙汰になって、お前の内緒の顔がバレてもいいのか!?」


 俺の言葉に、凛は葛藤するように口元を固く結んだ。躊躇うように、その瞳をめまぐるしく泳がせている。


 やがて、彼女は意を決したように深く息を吐いて顔を上げた。うっすらと涙を溜めた瞳の奥に、覚悟を決めた強い意志が宿っている。


「……わかった。やるわよ」

「よし、決まりだ」


 俺たちは、アイコンタクトで頷き合う。

 俺たちが付き合いたての初々しいカップルであるかのように振る舞い、堂々とレジで割引を申請する。それが俺たちの立てた作戦だった。幸いにも、人目を引く美少女である凛と、その横に並ぶ俺の組み合わせは、客観的に見ればそれなりにお似合いの二人に見えなくもない。問われているのは、こちらの演技力だけだ。


「いいか、凛。絶対にボロを出すなよ。俺に合わせろ」

「……アンタこそ、足引っ張らないでよね」


 いつもの憎まれ口が、今は頼もしく聞こえた。

 深呼吸を挟み、互いに湿った指を絡め合わせてレジへ向かう。

 これから始まる、予期せぬ大勝負。その先に待っているのが、天国なのか地獄なのかも知らずに。


 ◇


 店のレジカウンターは、厨房の入り口のすぐ隣にあった。アンティーク時計が重々しい音を刻む中、俺と凛は湿った手を固く繋ぎ、そこへ向かう。一歩ごとに高鳴る鼓動が胸を打ち、緊張で足が重かった。


 カウンターの中には、誰もいなかった。厨房の奥から、リズミカルに皿を洗う水音と食器の触れ合う金属音が聞こえてくる。


「すいませーん、お会計お願いします」


 俺が震える声をなんとか絞り出すと、奥から「はーい」という、少しけだるそうな、しかし妙に色っぽい女性の声が返ってきた。

 現れたのは、先ほどの人の良さそうな初老のシェフではなかった。

 年の頃は、三十代後半だろうか。緩くウェーブのかかった紫色の髪を無造作にまとめ、口元には深みのある艶やかな赤いルージュを引いている。黒いエプロンの下には、体のラインがくっきりと出るようなタイトなセーター。その美しいシルエットが際立っている。なんというか、大人の余裕を漂わせた、艶やかな魅力を纏う人だった。


 その女性は、俺たちを一瞥すると、何かを見透かしたような笑みをそっと浮かべた。唇の端だけが、楽しそうに持ち上がっている。


「あら、可愛らしいお客様。お食事は楽しめたかしら?」

「は、はい。とても美味しかったです」


 凛が、練習通り、澄んだ笑顔で応対する。さすがは人前で百の顔を使い分ける女だ。見事に取り繕った澄まし顔だったが、繋いだ指先が小さく震えているのは隠せていなかった。


「それは良かったわ。……あらあら、仲良く手を繋いじゃって。あなたたち、もしかしてカップル?」


 核心を突く質問に、息が胸の途中でつっかえる。練習通りだ、と自分に言い聞かせた。


「えっと……はい。付き合ってます。付き合いたて、なんですけど」


 俺は、アドリブで付け加えた。付き合いたてなら、多少ぎこちなくても許されるはずだ。


「まあ、素敵! 一番楽しい時じゃない! じゃあ、これ、使わないと損よ」


 女店主はそう言って、カウンターに置かれたポップを指差した。『カップル限定・全品20%オフ!』の文字が、やけに挑戦的に見えた。


「あ、はい。それ、お願いします」

「もちろんよ。青春の輝きは、お店からのささやかなプレゼントだもの。……ただし」


 女店主は、そこで言葉を切ると、値踏みするように俺たちを隅々まで観察した。一瞬で全身を測り終えたような、冷静で鋭い視線だった。俺も凛も、反射的に身をすくませる。


「本当にカップルかどうか、ちょっとした証明をしてもらうわ」


 その言葉に、俺たちの偽装カップルは、早くも最大の危機を迎えた。


「しょ、証明、ですか?」

「そうよ。最近は、割引目当てで嘘をつく不届きな輩もいるからね。あなたたちが本物の愛で結ばれているのか、このマダム・カトリーヌの目で見極めさせてもらうわ」


 マダム・カトリーヌ。それが、この女店主の名前らしい。


「さあ、まずは小手調べ。お互いに向き合って、見つめ合って、愛の言葉を囁いてごらんなさい」

「「は……?」」


 あまりに突拍子のない要求に、俺と凛の声が重なった。

 愛の言葉? なんだそれは。そんなの、練習してないぞ。第一、そんな恥ずかしいこと、できるわけがない。


「な、何言ってるんですか、急に……」

「あら、嫌? 嫌なら別にいいのよ? 定価でお支払いいただいても」


 マダム・カトリーヌは、口の端だけで笑った。どこか楽しげで、それでいて有無を言わせない微笑みだった。


 俺と凛は、顔を見合わせた。お互いの顔は、きっと真っ青だろう。

 しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。俺たちの全財産は、割引後の金額にしか満たないのだから。


「……わかりましたよ。やればいいんですよね、やれば」


 俺は覚悟を決めた。凛を見ると、彼女も泣きそうになりながら、こくりと頷いた。


 俺たちは、ぎこちなく向き合う。ほんの数十センチの距離にある凛の顔。長いまつ毛の一本一本まで見えそうだ。透き通る肌、わずかに上気した頬、揺れる瞳。演技のはずなのに、潤んだ瞳でまっすぐ見つめ返され、視線を外すことすらできなくなる。凛の唇がかすかに震えていた。


「……早くしないと、気が変わるわよ? 青春は待ってくれないの」


 カトリーヌの催促に、俺は覚悟を決めて口を開いた。


「……り、凛」

「な、なによ」

「……その、なんだ。いつも、迷惑かけて、悪いと思ってる。でも、お前のこと……その……」


 ダメだ。言葉が続かない。「好きだ」の一言が、喉の奥に張り付いたまま動かない。こんな偽物の状況で、本物の気持ちを伝えていいはずがない。頭ではそう分かっているのに、言葉にしようとすると、どうしても本心が邪魔をする。


「……ぷっ。なあに、それ。全然ダメじゃない」


 カトリーヌが、堪えきれないといった様子で吹き出した。


「男の子が、そんな情けないことでどうするの。もっと情熱的に、こう、ガツンと!『君のいない世界なんて、考えられない!』くらい言ってみなさいよ!」

「む、無茶苦茶言わないでください! ハードルが高すぎます!」


 俺が叫ぶと、カトリーヌは「じゃあ、女の子からどうぞ?」と悪戯っぽく笑った。

 視線が凛に集まる。彼女は首筋まで紅潮させ、顎を引いて胸元に顔を埋めてしまった。


「……う、悠真」

「お、おう」

「……いつも、ありがとう。……その、世話、焼かせちゃって、ごめん。……愛してる、わ」


 最後の言葉は、消え入りそうな吐息だった。

 だがその一言は、俺の思考を根底から停止させた。


 愛してる? 今、こいつ、愛してるって言ったのか?


 演技だと分かっていても、耳奥に残る声の残響が胸を強く揺さぶる。顔に熱が集まり、固く目を閉じた凛の張り詰めた息遣いと体温が、重なる指先から直に伝わってくるようだった。


「はい、よくできました。まあ、及第点ね」


 カトリーヌが、パチパチと拍手をする。その音で、俺は我に返った。


「じゃあ、次いくわよ、次。第二の試練。今度は、バックハグね」

「バックハグ!?」


 またしても、聞いたことのない単語が飛び出した。いや、意味は分かる。分かるが、それを俺たちがやるのか? 今、ここで?


「もちろん、彼から彼女に、よ。優しく、でも力強く、抱きしめてあげなさい」

「で、できるわけないでしょう、そんなこと!」

「あら、できないの? じゃあ、割引は……」

「……わかりましたよ! やればいいんでしょ!」


 俺は、もうヤケクソだった。

 凛の背後に回り、恐る恐る、その肩に手をかける。華奢な肩だ。少し力を入れたら、壊れてしまいそうなくらいに。


「……もっと、ぐっと! 彼女が安心できるように、全部受け止めてあげるみたいに! 背中で彼の愛を感じさせてあげなさい!」

「う、うるさいですよ! キザな言い方しないでください!」


 俺は腹をくくって、凛の体を腕の中に閉じ込めた。

 凛の髪から漂う甘酸っぱい柑橘の香りがふわりと鼻をかすめる。掌に伝わる華奢な背中の緊張と微かな体温。凛が小さな呼吸を吐き、俺の腕の中で少しだけ力を抜くのが分かった。背中越しに伝わるその柔らかさが、こちらの強張りまでゆっくり解きほぐしていく。


「……あったか、い」


 凛が、ぽつりと呟いた。その声は、俺にしか聞こえなかっただろう。

 その一言が胸の奥を激しく揺さぶり、抑え込んでいた感情が溢れ出しそうになる。今すぐ、このままどこかへ連れ去ってしまいたい――そんな柄にもない思いが胸に渦巻いた。


「んー、まあまあね。でも、まだ足りないわ。パッションが」


 満足げに頷くカトリーヌ。その目は、完全に楽しんでいる。この人は、俺たちを手のひらの上で転がして悦に入っている。


「さあ、いよいよ最後のミッションよ」


 最後。その言葉に、俺はこの試練の終わりを見た。これを乗り切れば、この悪夢から解放される。


「最後は……もちろん、愛の口づけ。キスよ」


 その言葉が店内に響き渡った瞬間、周囲の喧騒がふっと遠のいた気がした。


「「……は?」」


 俺と凛の、呆然とした声が重なる。

 き、キス? 今、この人、キスって言ったか?


「な、何言ってるんですか! そんなことできるわけないでしょう!」


 凛が声を張り上げる。その顔は紅潮を通り越し、うなじから耳たぶまで鮮やかな赤みに包まれていた。


「あら、どうして? カップルなんでしょ? キスくらい、普通にするわよね?」

「そ、それは……! でも、人前でなんて……!」

「あら、可愛いこと。じゃあ、私が目をつぶっててあげる。ついでに耳も塞いであげるわ」


 そういう問題じゃない。

 俺だって、混乱していた。キス? 俺が、凛と? それは、いつか夢見た瞬間ではあったけれど、こんな、こんな形で訪れるなんて、想像もしていなかった。


「さあ、どうするの? これが最後のチャンスよ。これをクリアすれば、晴れて割引適用。クリアできなければ、無銭飲食で警察に通報。選ぶのは、あなたたちよ」


 カトリーヌは、最終宣告を突きつけた。その目は、笑っているようで、どこか真剣だった。

 この人は、本気だ。本気で、俺たちにキスをさせようとしている。そして、俺たちの関係をどこかで見抜いた上で、その背中を押そうとしているのかもしれない。あの、値踏みするような目が、頭から離れない。


 俺は、凛の顔を見た。彼女は小さく震えながら、俺を見つめ返してきた。その瞳は揺れ動き、今にも泣き出しそうな恥ずかしさと諦めの色が入り混じっていた。


 もう、後戻りはできない。覚悟を、決めるしかなかった。


「……凛」


 俺は、彼女の名前を呼んだ。


「……目、つぶれ」


 凛は、ビクッと体を震わせ、おそるおそる瞼を閉じた。

 震える長いまつ毛。

 店舗の静寂。吸い寄せられるように、ゆっくりと顔を近づける。

 高鳴る胸。乾いた喉を鳴らし、必死に息を整えた。

 あと数センチ。

 柔らかな光が影を落とすレジ前。凛の唇から漏れた震える呼気が、俺の頬をかすかに掠める。

 その微かな熱に導かれるように、そっと瞼を閉じる。覚悟を胸に、その温もりへ――。


 触れたのは、そっと押し当てただけで溶けてしまいそうなほど、頼りなく柔らかな熱。ほんのり甘いチェリーの香りが、止まった世界を満たしていく。

 それが、俺のファーストキスのすべてだった。


 重なり合っていたのは、ほんの二、三秒。

 だが視界の感覚すら拭い去られ、その一瞬は際限なく引き伸ばされた時間の中に溶けていく。

 店内の話し声も食器の触れ合う音も遠く消え去り、時の刻みすら途切れていた。

 ゆっくりと顔を離しても、凛は両目を固く閉じたまま動かない。耳たぶからうなじにかけて温かな熱が広がり、その頬は茜色を抱え込んだように深く染まっていた。


「……はい、合格!」


 カトリーヌの明るい声が、夢のような静寂を破った。

 その声で、俺たちはハッと我に返る。


「おめでとう! 見事、全てのミッションをクリアよ。あなたたちの熱い愛、しかとこの胸に刻ませてもらったわ」


 彼女はそう言うと、レジを操作し、割引が適用されたレシートを俺に手渡した。

 俺は、まだ震える手で二千四百円を支払った。


「……それじゃ、またのお越しを、お待ちしてるわね。次は、本当のカップルとして、堂々といらっしゃい。その時は、もっと素敵なサービスをしちゃうから」


 カトリーヌは、悪戯っぽくウィンクをした。

 俺たちは、もう何も言えなかった。ただ、弾かれたように店を飛び出すことしか。


 カラン、とドアベルが鳴る。

 夏の生暖かい空気が、熱を持ったままの俺たちの頬にじかに触れてきた。


 あまりの衝撃と激しい胸騒ぎを鎮めるため、俺たちは近くの公園のベンチで言葉もなくただ座っていた。木々の隙間から落ちる西日の木漏れ日がベンチの木目を緩やかに撫で、遠くのグラウンドから響く金属バットの乾いた打球音や風にそよぐ葉擦れの音が、静まり返った二人を現実へと繋ぎ止める。流れる沈黙のなか、さっき感じた唇の熱と柔らかさだけが鮮明さを増していく。

 気づけば陽は大きく傾き、伸びた俺たちの影が茜色の地面に長く重なり合っていた。


「……帰るか」


 俺がようやく絞り出した声に、凛はこくりと小さく頷いた。


 家路につく。二人並んで歩く道は、いつもと同じはずなのに、今日は全く違う景色に見えた。熱を吸ったアスファルトの匂い、影を深める電柱の陰影、カラスの遠い羽音。そのすべてが、濃密なコントラストとなって目の前に鮮やかに立ち現れる。

 俺たちの間には、相変わらず会話がない。ただ、ミッションの途中で繋いだ手は、どちらからともなく、離せないでいた。

 指が深く絡み合い、お互いの体温がじかに移ってくる。掌の、わずかに湿った感触。その確かさだけが、今の俺にとって揺るぎない現実だった。


 やがて、見慣れた分かれ道が見えてきた。俺と凛の家は、この道を挟んで目と鼻の先だ。


「……じゃあ、またな」


 俺がそう言って手を離そうとした、その時だった。

 凛が、俺の手を、今までで一番強く握りしめた。


「え?」


 俺が彼女の方を向くと、凛は俯いたまま、何かを言おうとして、口を開いたり閉じたりしていた。その唇を目にした瞬間、さっきの感触が蘇り、胸の奥で鼓動が跳ね上がった。


「……ねえ」

「お、おう」

「さっきの……その、キス、なんだけど」

「……ああ」


 ピンと張り詰めた緊張感が走り、身が引き締まる。本当の試練は、ここからなのかもしれない。


「……あれは、その、事故みたいなものだから! アンタ、勘違いしないでよね!」


 出た。またそうやって強がる。


「……勘違いって、なんだよ」

「だから! 別に、アンタのこと、好きとか、そういうんじゃ……!」

「ふーん」

「な、なによ、その返事!」


 俺は、繋がれたままの凛の手を、ぐっと引き寄せた。

 不意を突かれた凛が、バランスを崩して、俺の胸に飛び込んでくる。


「きゃっ!?」

「なあ、凛」


 俺は、彼女の耳元で、囁いた。


「俺は、勘違いなんかしてねえよ」

「……え?」


 俺は、彼女の体をゆっくりと離し、改めて、その瞳を見つめた。

 傾きかけた夕日が、彼女の潤んだ瞳に溶け込むように光を宿している。


「……あの店主の言う通りだな」

「え?」

「俺たち、ずっと、踏み出す一歩を怖がってたんだ」


 ずっと、好きだった。壊したくない日常を言い訳に、踏み出すことから逃げていただけだ。

 だが、あの無茶振りで触れた彼女の温もりと、唇に残る柔らかな感触が、俺の情けない強がりを打ち砕く。誰かに奪われるくらいなら、すべてを賭けてでも伝えたい。握りしめた手にぐっと力を込めた。


「凛」

「……なに」

「好きだ。俺と、付き合ってください」


 俺の、すべての誤魔化しを捨て去った、精一杯の告白。

 凛は、一瞬、驚きに瞳を揺らした後、その目からこらえきれなくなった涙をぽろぽろと零した。


「……う……うわああん!」


 凛は大きな涙を零し、そのまま声を上げて泣き出した。


「お、おい、なんで泣くんだよ!?」

「だって……! 悠真のばか! 遅すぎるのよ……! ずっと、待ってたのに……!」


 しゃくりあげながら、彼女は俺の胸を何度も叩く。その拳に強さはなく、ただ、彼女の後悔と喜び、そして重ねてきた月日の重みが直に伝わってきた。


「悪かったって。……で、返事は?」

「……っ!」


 凛は、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、俺を睨みつけた。


「……当たり前じゃない……! 私も、悠真のことが好き……! ずっと前から、大好き……!」


 その言葉を聞いて、俺は堪えきれずに彼女を強く抱きしめた。

 腕に伝わる華奢な温もりと、ずっと愛おしかった存在がここにある確かな重みを、噛みしめるように。


 こうして、俺たちの長かった幼馴染の関係は、終わりを告げた。

 カップル割引の代償は、ファーストキスと、そして、最高の恋の始まりだった。

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