紫蘭
夢を見ていた。
どんな内容だったかは覚えていない。だた、視界が紫色で埋め尽くされていて、怖くて目を閉じたことだけは覚えている。
「起きたか。」
見慣れた顔。聞き慣れた声。忘れていたもの。
「湊冬……」
寝起きの、カスカスの声で彼の名前を呼ぶ。
目の前に映る彼は、都合のいい幻像だろうか。だとするならば、この声に応えてくれるはずだ。夢は、自分にとって都合よくできているはずだから。
いくら待っても、望んだ声は返ってこない。ああ、これは罰だ。神様から与えられた天罰だ。
生ぬるい涙が頬をつたう。鬱陶しい鼻水が唇を濡らし、濡れた唇はカタカタ震える。
いつから自分はこんなに弱くなってしまったのか。美しい思い出を脚色して、現実から目を背けて。
いつだって、頭の中には彼の音楽が鳴り響いていて、片時も彼のことを忘れたことなんてない。これほどまでに愛していた彼を、彼の音楽を、どうして失ってしまったのかと、いっそ自分が生きていることすら疑問に思う。
彼が紫音の元を離れて早二年。
今、彼は何をしているのだろうか。連絡先は持っている。ただ、声をかける勇気がない。自分のせいで壊れてしまった彼に、自ら声をかける勇気がない。
どうしてあんなに生き急いでしまったのだろう。今になって後悔する。
得たものは、金と周囲からの嫉妬、賞賛、それに自分自身の経験。失ったものは、趣味と仕事と仲間と恋人。それと、紫音が何よりも愛していた湊冬の作る音楽。脳内ではいつもそれが聞こえているのに、自分の耳を通して彼の歌を聞くことはなかった。これ以上、彼に縋って生きるわけにはいかない。自立するために、制限した。
それでも彼の音は、紫音の頭の中で鳴り続ける。心の中に響き続ける。
何か他のことを考えたくて、テレビをつけた。そこで聞こえたのは、湊冬が作った曲を歌う、紫音の声だった。湊冬が、仲間が側にいる時の紫音の声だった。
その時、自ら儲けた制限は決壊した。
好きだ。好き好き好き好き好き。湊冬が作る音楽が好きだ。湊冬の隣で歌える環境が好きだ。
ーー湊冬が、好きだ。
この気持ちを歌にしたら彼に届くだろうか。この気持ちを歌詞に込めたら、彼らに届くだろうか。かつて青春を共にした彼らに。音楽の苦楽を共にした彼らに。バラバラになってしまった彼らに。
『あなたを忘れない』




