第8話 溶けるあとから 花が咲く。
「クロエちゃん、お客様ですよ」
そうクスティ国の国王陛下が薄暗い書庫に向かって声をかけると、山積みの書類の中から聞きなれた声がした。
「はーい。ただいま参ります」
なんだ。元気そうな声じゃないか。僕はクロエの返事にほっとする。
机に向かって、古い書籍の背表紙を直していたらしいクロエが、ぱんぱんっとスカートに落ちた紙くずを払って立ち上がる。見慣れたこげ茶の髪は僕の執務室にいるときと同じように三つ編みにしてある。
三つ編みを揺らして振り返ったクロエが…僕の姿を瞳に映して目を見開く。
「クロエ?」
僕に駆け込んでくるだろうクロエを受け止めようと両手を開いた。が…クロエはほんの少し眉を寄せて…踵を返して開いていた窓から逃げた。
「エアハルト殿下?固まっている場合じゃないですよ?」
書庫のドアに背中をもたれて成り行きを見ていた陛下に声を掛けられて…僕はようやく走り出した。もう…泣きそうだ。
クロエが飛び出していった中庭で、クロエに追いついて後ろから抱え込んだまま倒れこんだ。僕は…もう怖くてクロエの顔が見れない。さっきだって怯えるような顔だった。クロエの首筋に顔を埋めて…本当に僕はこのままクロエを失うのか…なぜ?そう思いながら…それでも抱きしめたクロエを離せなかった。
クロエのブラウスの肩口にシミを作ってしまうほど僕は泣いた。もう…どうしていいかわからなかった。なぜ?なぜこんなことになったんだろうと…。
僕の腕の中でくるりと回って僕を心配そうに見上げたクロエが、僕の頬を両手で挟む。
「まあ…エアハルト?あなたにも私の病気がうつってしまったの?どうしましょう?」
「ああ…そう言えば…何の病気なんだ?クロエ。大丈夫なのか?」
「原因はよくわからないの。エアハルト、あなたのことを考えると胸がぎゅっと苦しくなるのよ。涙も出てきちゃうし。空が青かったり、誰かにやさしくされたり、美味しいものを食べたり、花が綺麗だったりね。体がぷかぷか浮く温泉があったり、露天風呂って言う真っ裸で入る池みたいな温泉があったり…あなたに教えたくなるの。でも、これからはそんなことできないでしょう?そう思うとまた発作が起きるの。」
「…なぜ?今まで通りじゃだめなのか?」
「…だってそんなことしたら、ローザリンデ様に申し訳ないでしょう?私は秋から頑張って事務官になろうと思っていたんだけど、お二人を見るのもなんだかつらいし…。」
「…クロエ?」
「そしたらお医者様が、逃げてもいいとおっしゃってくれて…。」
ぽろぽろとクロエが涙をこぼす。
…なんだ…問題ないじゃないか。
ふっと力が抜けて…笑ってしまった。
起き上ってクロエを座らせて、向かい合って座る。右手の人差し指をクロエの鼻先にくっつけて、なるべく淡々といつもの事務連絡のように話す。
「クロエ?そんな大事なことを僕に相談も報告もしないで独断で決めたのかい?いつも君は新人の事務官に言っていたよネ?まずは上司に報告・連格・相談。判断はその後ね、って」
「え?…はい」
「まず、僕はローザリンデ嬢とは婚約も結婚もしない。僕が嫁にするのはクロエだから、いい?」
「え?…でも…公爵家から王子妃を出すのは合理的です。ユルゲン公爵殿は癖のある方なので、変に徒党を組まれても面倒だから取り込んでおいた方が後々楽だからです。ローザリンデ嬢はお美しいし。いい王妃になられると思います。」
「ユルゲン公爵家は本当に面倒だよね。いざとなったら潰そう。他には?」
「うちの実家の弱小伯爵家では…エアハルトのメリットは何もありませんし。」
「いや。クロエが手に入るでしょ?」
「だって…じゃあ、事務官としてだって一緒じゃないですか?」
「は?クロエ、ずっと君だけが好きだ。僕のところに嫁に来るね?」
「そ、そ、そんなこと急に言われても…」
うろたえるクロエ。…どういうこと?
「急?ずっと好きだった。わかってたでしょう?」
「わ…わかりませんでした!だってそんなこと一言も言ってくれなかったじゃないですか!エアハルトだって自分の秘書官によく言ってるでしょ?要点は明確に!湾曲しないで正確に伝えろ、って!!!」
泣きながら怒っているクロエの両耳を抑え込んで引き寄せてキスをする。怒っていてもかわいい。
「あのね…クロエを僕が囲い込んだ時、君はまだ9歳だったでしょう?君の父親とクロエが16歳になるまでは手を出さないと約束させられたんだ。でも…もういいね」
「な…なにがですか?」
耳まで真っ赤になったクロエを押し倒して7年分のキスをする。
「クロエ、ずっと君だけが好きだ。僕のところに嫁に来るね?返事は?」
まだ春の野の花が満開で、白や青や黄色の花に交じって、ヒメオドリコソウも花をつけている。クロエとのキスはほんのりと甘い。
*****
クスティ国の国王陛下とラウラさんもにこにこしながら並んで中庭を見ている。
私と、私の上司に当たるフランク師団長と近衛の同僚、侍従のライマーさんも廊下の窓から見ていた。
「まったく…隣の国まで来て何やってるんだかな?」
そう言いながらフランク師団長もにやにやと眺めている。
穏やかな春の青空。高いところで雲雀が鳴いている。
…これで原因不明だったクロエ様のご病気も完治しそうだな…そう思ってエルザは中庭でじゃれ合っている二人を半分ほっとして、半分呆れながら眺めた。
さて、国元に帰る前に、ひとっ風呂浴びてこよう。




