八話「準備と、それぞれの夜」
王都に滞在して、五日が経った。
その間、三人はそれぞれの「準備」をしていた。
ガリウスは毎朝、ギルドの訓練場に通っていた。地下での戦闘を想定した、閉所での動き方。松明なしでの索敵。魔素濃度が高い環境での魔法耐性トレーニング。
レインは資料室に通い詰めていた。バルトの協力を得て、百年前の調査記録、地下回廊の地図、枯死の疫病に関する論文を片っ端から読んでいた。夜、宿に戻ってくるときは決まって目が赤かった。
リコは、窓際で土を吸っていた。
ただ、それだけではなかった。
毎日、王都の地下に根を細く伸ばした。鉢から、床を通じて、地中へ。昨日より少し深く。今日より少し広く。地下回廊の魔根網に、少しずつ接続していく。地図を作るように、感覚で地下の構造を把握していく。
誰にも言っていなかった。心配をかけたくなかったから。
でも、五日目の夜、レインに気づかれた。
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「リコ」
夜中、ガリウスが寝息を立てている部屋で、レインが静かに言った。
「根を、地下に伸ばしていますね」
リコは、葉を止めた。
レインは羽ペンを置いて、リコの鉢の前に椅子を引いた。向き合う形で座る。
「隠していたのは、心配をかけたくなかったからですか」
花びらが、ゆっくり開く。正解。
「エルダ・ヴェルトの日誌と同じですね」レインは静かに言った。「マリアに黙っていた、あの人と」
リコは、動けなかった。
考えていなかった。でもレインに言われて、確かにそうだと思った。エルダは弟子に黙って一人で行った。リコも、二人に黙って一人で準備を進めていた。
「わたしは」リコは、声を絞り出した。今夜は雨が降っていないのに。感情が、また声を作った。「戻らないつもりはないです」
「わかっています」レインは言った。「でも、一人で抱えないでください」
沈黙。
「……わたしは、二人に迷惑をかけたくない」
「迷惑という言葉の使い方が間違っています」レインはきっぱりと言った。「迷惑とは、望まない負担を強いることです。私たちはあなたと一緒に行くことを望んでいる。それは迷惑ではない」
リコは、しばらく黙っていた。
「……レインは、どうして冒険者の護衛なんかしているんですか」
唐突な質問だった。でもリコは、ずっと気になっていた。レインはどう見ても研究者タイプだ。資料室の方が似合う。
レインは、少し間を置いた。
「研究者だったんです、以前は」
リコは、葉を動かさなかった。続きを待つ。
「王都の魔法研究所にいました。でも、五年前に辞めました」
「なぜ」
レインは窓の外を見た。
「研究所が、枯死現象のデータを隠蔽していたから」
リコは、根の奥で何かが動く感覚を覚えた。
「隠蔽、ですか」
「異常なデータが上がるたびに、『観測ミス』として処理されていた。私が問題提起したら、研究所を追われた」レインの声は平坦だった。でも、その平坦さ自体が、何かを抑えている感じがした。「だから今、外から調べています。ギルドを経由して、現場を歩いて」
「……ガリウスの護衛は、その手段ですか」
「最初はそうでした」レインは窓から目を戻した。「今は違います」
それだけ言って、レインは羽ペンを取り直した。
「地下の地図を作っているなら、私と共有してください。一人で持つより、二人で持つ方が精度が上がる」
リコは、花びらを一枚、レインのノートの上に落とした。
わかりました、のサイン。
レインは、その花びらをノートに挟んだ。栞のように。
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六日目の朝、ガリウスが訓練から帰ってくるなり言った。
「面白いやつに会った」
レインが顔を上げた。「面白い、というのは」
「訓練場で手合わせしたんだけど、めちゃくちゃ強くて。でも冒険者じゃないって言うんだ。行商人だって」
「行商人が訓練場に?」
「そこも変だろ。名前はオット。三十くらい?背が高くて、右手に手袋してた」
リコは、その話を聞きながら、根の奥で何かが引っかかった。
言語化できない。でも、何かが。
「明日また来るって言ってたから、紹介するよ」ガリウスは椅子に座って水を飲んだ。「あ、それと、訓練場の隅に変な草が生えてた。黒っぽい、見たことない草」
レインが顔色を変えた。「今すぐ案内してください」
「え、そんな急に」
「急いでください」
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訓練場の隅の、石壁と地面の境目に、それはあった。
小指ほどの細さの、黒い草。三本。
リコはガリウスに鉢を地面に下ろしてもらい、根を伸ばした。
触れた瞬間、わかった。
*寄生体だ。地下から這い上がってきた。*
リコは素早く浄化した。黒い草が、白い砂になって消える。
レインが周囲を見回した。「他にもあるかもしれない。王都の地上にまで出てきているとしたら……」
「封印が、もっと弱まってるってこと?」ガリウスが言った。
「または、誰かが意図的に広げている」
沈黙。
「誰かって、誰だよ」
「わかりません。でも」レインは声を落とした。「研究所がデータを隠蔽していた理由が、もしかしたらそこにあるかもしれない」
リコは、根を引き戻しながら、さっきのガリウスの話を思い返した。
行商人。右手の手袋。
*なぜ、手袋。*
夏が近い、暖かい季節に、片手だけ手袋をする理由が何かあるだろうか。
リコは、それを今は誰にも言わなかった。確信がないから。
でも、根の奥に、その引っかかりをしまっておいた。
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七日目、オットが訓練場に現れた。
ガリウスの言った通り、背の高い男だった。三十前後、短い茶髪、人の良さそうな笑顔。荷物は大きな行商人のバックパック。そして、右手だけに革の手袋。
「こいつがリコです」ガリウスが鉢を掲げた。「意思持ち草で、俺たちの仲間です」
オットは、リコを見て、少し目を細めた。
「へえ」オットは言った。「かわいいね。花、赤いんだ」
リコは、オットを観察した。
笑顔は自然だ。声も穏やかだ。ガリウスへの態度も、裏表がない感じがする。
でも。
右手の手袋の下から、かすかに、何かの匂いがする。魔素の匂いではない。もっと土に近い、でも歪んだ匂い。根を通じてではなく、花の感覚器官で感じる、微細な何か。
リコは、花びらを閉じた。
閉じたまま、動かさなかった。
ガリウスが不思議そうに「リコ?」と言ったが、リコは応えなかった。
オットは、リコの閉じた花を見て、何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、笑顔が止まった。
それはすぐに戻ったから、ガリウスには気づかれなかっただろう。
でもリコは、見ていた。
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その夜。
レインが地図を広げて言った。「今日、新しい黒い草を二か所で見つけました。訓練場の件と合わせて三か所。分布を見ると」
レインが地図に点を打った。
「……等間隔です」ガリウスが言った。「きれいに、等間隔に並んでる」
「自然発生ではありえない。意図的に配置されています」
リコは、根を通じて地図の点を確認した。
そして気づいた。
三つの点の中心に、何がある?
リコは、レインのペンを花びらで軽く叩いた。
「貸してほしい?」
レインがペンをリコの前に置いた。リコは花びらで、三点の中心に、小さく印をつけた。
レインが、その印を見た。
「……王立魔法研究所」
沈黙が、部屋を満たした。
ガリウスが、ゆっくりと言った。「レインが追われた、あの研究所か」
「そうです」レインの声は、静かだったが、何かが滲んでいた。「偶然とは思えない」
リコは、根の奥のしまい場所から、さっきの引っかかりを取り出した。
オット。右手の手袋。歪んだ匂い。
今夜も、まだ言わなかった。
でも、花びらを一枚、地図の上に落とした。研究所の印の、すぐ隣に。
レインが、それを見た。
「……リコ、何か知っていますか」
リコは、花びらを半分だけ開かせた。
確信はない、でも気になることがある、というサイン。レインはそれを読んだ。
「わかりました。急かしません。あなたが話したいときに話してください」
ガリウスが「俺には読めないサインだった」と少し拗ねた声で言った。
「練習してください」レインが言った。
「リコのサイン辞典でもあればな」
リコは、それを聞いて少し考えた。
辞典。
そういえば、まだ体系的に整理したことがなかった。自分のサインを。
*今度、レインと作ってみようか。*
根の奥に、小さな楽しみをしまった。
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八日目の夜、雨が降った。
魔素雨ではなかった。ただの雨だ。
でもリコは窓を開けてもらって、雨粒を葉で受けた。ただの雨でも、嫌いではない。
ガリウスが窓枠に肘をついて、外を見ていた。
「なあ、リコ」
葉が動く。
「お前、元の世界に帰りたいと思うか」
リコは、雨を受けながら考えた。
帰りたいか。
正直に考える。日本の土の感触。校庭の桜。部屋の窓際に並べていた多肉植物。母親の声。
懐かしい。でも遠い。まるで別の人間の記憶のような、薄い感触。
今の方が、土が豊かだ。根を張れる場所がある。声はないけれど、伝わるものがある。
リコは、葉をゆっくりと横に振った。
帰りたくない、ではない。でも、ここにいたい。
「そっか」ガリウスは言った。「よかった」
リコは葉を動かした。なぜですか。
「お前がいなくなったら、困るから」ガリウスは少し間を置いた。「俺が、困る」
さらりと言った。照れ隠しも、大声もなかった。
だから逆に、リコはうまく反応できなかった。
花びらを一枚、雨の中に散らした。雨粒に乗って、遠くへ流れていく。
ガリウスはそれを目で追って、それから笑った。
「返事はそれか」
リコは、花を全開にした。
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深夜、全員が寝静まった後。
リコは一人で、根を地下に伸ばした。
いつもより深く。今日は大地が雨で柔らかく、根が通りやすかった。
地下回廊を超えて、もっと深い層へ。
そして、リコは初めて、それに触れた。
最深部の、封印に。
エルダ・ヴェルトが百年前に張った、魔力の網。膨大な力が、ゆっくりと、でも確実に、薄れていく。
その中心に、何かがいる。
眠っている。でも、目覚めかけている。
リコは、急いで根を引き戻した。
心臓に相当するものが、あるとすれば、それが今、速く動いている気がした。
*急がないといけない。*
でも、一人では行けない。
リコは、眠っているガリウスとレインを、光の像で見渡した。
ガリウスは大の字で寝ている。レインは行儀よく、でも手だけはノートを抱えている。
*あたしには、根がある。根を張れる場所がある限り、揺れない。*
*そして今、根を張れる場所が二つある。*
リコは、花びらを一枚だけ、暗い部屋に静かに散らした。
誰も見ていない夜の中で。
それでも、散らした。
異世界メモ⑭ 寄生体の地上進出
寄生型汚染魔素が地上に「草」の形で現れたのは、記録上初めての事例だ。これまでは地下深くに留まっており、地上の生態系への直接的な影響は確認されていなかった。地上に出てきたということは、封印の弱体化が臨界点に近づいている証拠とも読める。またその配置が「等間隔」であることは、自然現象ではなく何者かの意図を示している。等間隔に配置することで、地上の魔素をより効率的に吸収できる「魔法陣」に近い構造が生まれるからだ。
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異世界メモ⑮ 王立魔法研究所
王都リュミエールに設置された国営の魔法研究機関。魔法理論の研究から新魔法の開発、魔素観測まで幅広い業務を担う。表向きは国民のための研究機関だが、その予算と人事は国王直属の委員会が管理しており、一般市民には内部の研究内容が開示されない。レインが五年前に追われたのは、この閉鎖的な体制に異議を唱えたためだ。現在の所長は五年前から変わっていない。名前はグラハム・ソーレン。六十代、魔法理論の権威とされている。
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異世界メモ⑯ 行商人という職業
この世界の行商人は、複数の街を渡り歩き、各地の物産を売買する。ギルドへの登録は任意で、冒険者ほど管理されていない。そのため、行商人という身分は「素性を明かさずに各地を移動できる」立場でもある。過去には諜報員や逃亡者が行商人を偽装した記録が複数あり、ギルドも行商人の身分申告を鵜呑みにしないよう内部規定で定めている。オットの荷物の中身は、まだ誰も確認していない。
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異世界メモ⑰ リコのサイン体系
リコが花びら・葉・香りで行う意思表示は、旅の中で自然に発達したものだ。花びら全開=強い肯定、花びら半開=曖昧・迷い、花びら閉じ=否定または警戒、葉を右に傾ける=右方向に何かある、葉を揺らす=笑い、花びらを一枚散らす=感謝または別れの挨拶、といった具合。ガリウスは感覚で読み、レインは論理で読む。二人の読み方は違うが、正解率はほぼ同じだ。リコ自身は、このサイン体系を文字に起こしたことがない。
閑話で書いてほしい話があれば知りたいっす(≧▽≦)




