十四話「花びらの記憶」
二日目の昼、レインが外へ出た隙に、ガリウスはリコに話しかけた。
人に聞かせる話ではない、という気がした。理由は分からなかったが。
「一つ聞いていいか」
ローズマリーの香りがした。聞いていい、という意味だとガリウスは受け取った。
「お前の名前。リコって、何で?」
沈黙。
それから、リコは香りを出した。何かを伝えようとしているのは分かった。でも複雑な何かで、ガリウスには読めなかった。甘いような、懐かしいような、遠い場所の匂い。
「前の世界の話か」
花弁が一度、揺れた。
「そうか」ガリウスは顎を引いた。「向こうでも、リコだったんだな」
花弁がもう一度揺れた。今度は少し強く。
ガリウスは頷いた。それ以上は聞かなかった。
リコは、ガリウスが追いかけてこないことを、少しだけ、ありがたいと思った。
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三日目の夜に、リコは倒れた。
正確には、倒れた、という言葉は合わない。植物に倒れるという動作はない。でも他に言葉がなかった。
突然、香りが止まった。花弁が閉じた。茎が、ほんのわずかに──傾いた。
レインが最初に気づいた。
「リコ?」
反応がなかった。
「リコ!」
ガリウスが飛び起きた。鉢を手に取ると、土が異様に冷たかった。部屋の温度と関係のない冷たさ。石の底から来るような冷気が、鉢の土を通じて伝わってきた。
「何が起きてる」
「分からない。でも──魔素が、急激に下がってる」レインが葉に触れた。「大地のネットワークに繋がろうとして、何かに引っ張られてる?王都の土に何かが──」
「引っ張られてる?」
「深いところに接続しようとして、そこに何かがいて、それが──」
レインは言葉を止めた。
リコの花びらが一枚、落ちた。
音もなく、卓の上に。
二人は息を飲んだ。
花びらの色が変わっていた。根本から先端へ向かって、金色が滲んでいた。蜂蜜を垂らしたような、でもそれより深い、燃えるような金色。
「これ」ガリウスが言った。「痛いのか、リコに」
答えはなかった。
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レインは革包みを出した。
アルマから渡されたもの。必要になったとき開けなさい、と言われたもの。
今だ、とレインは思った。
紐をほどいた。
中には薄い冊子が入っていた。手書きの調合書。古い紙に、丁寧な字で書かれた薬草の名前と分量。表題は「依代安定剤」。
依代。
レインは歯を食いしばりながら読んだ。材料は七種。そのうち五種は今持っている。残り二種は──王都の薬草商で手に入る可能性があった。
最後のページをめくると、調合書の筆跡とは別の、荒い字が一行だけあった。
インクの色が違った。最近書かれたものだ。
「この子に、選ばせなさい」
レインはその一行を、二度読んだ。
三度読んだ。
アルマ先生、とレインは思った。あなたはどこまで知っていたんですか。
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リコは、夢を見ていた。
夢、という表現も正確ではないかもしれない。植物が夢を見るかどうかは分からない。でも意識が遠くなって、別のどこかにいる感覚があった。
緑色の場所だった。
光だけがあって、土だけがあって、根だけがあった。前の世界でもない、この世界でもない、どこかの「間」のような場所。
声が聞こえた。
転生のときに聞いた、森のような声。
「起きているか」
「……起きてます、たぶん」
「倒れたな」
「引っ張られました。深いところに何かがいて」
「知っている」声は静かだった。「底にいる者だ。お前に気づいている。お前の根を伝って、力を引き込もうとした。無意識に」
「悪意があるんですか」
「ない。ただ、飢えている。長い間、底にいる。もう自分が何をしているか分からないほどに」
リコは沈黙した。
「あなたは誰ですか」とリコは聞いた。「転生させたのはあなたですか。わたしを器として、この世界に呼んだんですか」
長い間があった。
「そうだ」
「わたしが植物好きだったから、都合が良かった?」
「……都合が良かったのは、本当だ」
リコは笑いたかった。笑えなかった。
「じゃあ聞きます。これからわたしはどうなりますか」
「二つある」声は答えた。「一つ。お前が力を使えば、底の者を救える。だが神樹の花は二度咲かない。お前は──」
「終わる」
「そうだ」
「もう一つは」
「力を使わなければ、お前は残る。だが底の者は、満月の夜に封印石と完全に融合する。それは取り返しがつかない」
「つまり、わたしが死ぬか、あの人が死ぬか」
答えがなかった。
「第三の道は」
声が、揺れた。初めて、感情のようなものが混じった。
「──お前が」
そこで、声が途切れた。
ぷつ、と。糸が切れるように。
リコは呼んだ。答えはなかった。
緑色の場所が薄くなっていった。
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目が覚めた──という感覚があった。
花弁が開いた。
ガリウスとレインが、両側から鉢を覗き込んでいた。二人とも、顔色が悪かった。
レインが泣いていた。泣きながら帳面に何かを書き込んでいた。感情と作業を同時にこなす器用さが、いかにもレインだった。
ガリウスは何も言わなかった。
リコは、ローズマリーの香りを出した。
起きている。
ガリウスが、ほんの少し、肩の力を抜いた。
「名前」と彼は言った。「前の世界での名前、いつか教えてくれるか」
リコは答えなかった。答える手段がなかった。
でも花弁を、一度、開いた。
「うん」という意味だと、ガリウスは受け取った。受け取ることにした。
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卓の上に落ちた金色の花びらが、まだそこにあった。
レインがそれをそっと拾い上げ、小瓶に入れた。
「鑑定できなかった。成分が分からない。でも何かに使えると思う」
ガリウスが窓の外を見た。
夜空に半月より少し膨らんだ月があった。
「満月まで、あと何日だ」
「六日」
六日。
ガリウスは振り返り、リコを見た。リコの花弁は開いたままだった。
「決めるのはお前だ」ガリウスは言った。「俺たちじゃない」
リコは答えなかった。
でも、かすかに、苦い草の香りがした。
怒りの香り、とレインは覚えていた。
でも今夜のそれは、怒りより少し複雑だった。
覚悟、という言葉に一番近かった。




