十三話「枯れる庭」
朝になっても、リコは香りを出さなかった。
花弁は開いていた。萎れてもいなかった。でも、何も言わなかった。
レインは水をやりながら、葉の状態を確認した。色は悪くない。根も生きている。でも何か──何か、根本的なところで、リコが「遠い」感じがした。
「大丈夫?」
答えがなかった。
レインは帳面を開いて、昨日から気になっていたことを書き留めた。街に植物がない。門をくぐった瞬間にリコの香りが止まった。石壁の黒い筋。そして夜、宿の窓から見えた女神神殿の尖塔が、暗闇の中でわずかに赤く光っていたこと。
昼間は何も光っていない。
あれは夜にだけ現れるものだろうか。今夜も確認しよう、とレインは書いた。
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ガリウスが朝食を買いに外へ出て、十分で戻ってきた。
「市場がある。ただ──」
「ただ?」
「花屋が、一軒だけあった」
レインが顔を上げた。
「植物持ち込み禁止なのに?」
「布告は『外からの持ち込み』だ。元からあった店は別扱いらしい。で、その花屋の前を通ったんだが」ガリウスは椅子に座って、買ってきた黒パンをちぎった。「全部、枯れてた。店の中の植物が全部。でも店主はまだ店を開けてる。水やりながら。もう枯れてる鉢に水をやりながら」
沈黙。
「……声、かけたの」
「かけた。何があったか聞いた」ガリウスは窓の外を見た。「三週間で、全部駄目になったって言ってた。水を変えても、土を変えても、どこから持ってきても同じだって。何かが足りなくなってるんだと思う、って」
「魔素が」
「ああ。植物が育つための魔素が、この街の土から消えてる。だから枯れる」
レインは帳面に書き足した。三週間前。
「その店主、もう一個変なことを言ってた」
「何」
「うちの店の向かいに庭があった、って。女神神殿の庭。花が綺麗だったって、子供の頃から知ってたって。でも三週間前に、突然そこだけ全部刈られた。神殿の人間が夜中に来て、一晩で全部抜いて、更地にしたって」
レインの手が止まった。
「……神殿が、自分の庭の植物を、夜中に、全部抜いた」
「ああ」
二人は顔を見合わせた。
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その午後、見知らぬ男が宿を訪ねてきた。
四十過ぎ、薬草商の格好をした男だった。愛想がよく、声が低く、目だけが笑っていなかった。
「旅のお方でいらっしゃいますね。見習い薬師の方がこちらにいると聞きまして」
レインが出た。
「珍しい植物をお持ちだとか。よろしければ、見せていただけませんか。私、薬草の収集をしておりまして」
「誰から聞きましたか」
「門の衛兵から小耳に」男は笑った。「検疫の特例で通されたとか。珍しいことですので」
レインは少し間を置いてから、男を部屋に通した。
リコは窓から離れた棚の上にいた。男はリコを見た瞬間、ごく短く息を止めた。
「これは……」
「リコ草です。希少種」
「ええ、ええ」男はリコに近づいた。「美しい。非常に珍しい。よろしければ、譲っていただけませんか。お値段は」
「売りません」
「では、少しだけ──花びらを一枚でも」
「売りません」レインは繰り返した。「調合の材料ですので」
男の表情が、一瞬だけ変わった。笑顔の裏に、別のものが覗いた。それは強欲でも焦りでもなく、もっと──義務のような、任務のような、冷たいものだった。
そこに、ガリウスが部屋に入ってきた。
男を見た。男を見て、ガリウスの目が変わった。
「帰ってくれ」
声に感情がなかった。それが逆に、圧力になった。
「いや、しかし──」
「帰れ」
男は笑顔を保ったまま頭を下げ、部屋を出た。
廊下に足音が遠ざかった。
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ガリウスは廊下に落ちていた端切れを拾って、戻ってきた。
小さな布切れだった。神殿の紋章──女神の翼を模した刺繍──が縫い込まれていた。
男のものが落ちたのか、最初からここにあったのか、分からなかった。
でも、繋がった。
「神殿の人間だ、あれ」ガリウスは布切れを握った。「植物を集めてる。検疫令を利用して、外から持ち込まれないようにして、その上で自分たちは集めてる」
「何のために」レインが言った。
「分からない。でも」
ガリウスは棚のリコを見た。
リコは、じっとしていた。
でも──男が来てから、かすかに、何かの香りがしていた。ガリウスは何の香りか分からなかった。レインが小さく言った。
「苦い草の匂い。初めて嗅ぐやつ」
「何を意味する」
「わからない。でも……怒り、だと思う。あの人に対して」
ガリウスは布切れを上着の内ポケットに入れた。
「──妹も、植物が好きだった」
小さく言った。独り言のように。
レインは聞こえたが、黙っていた。
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夜になった。
レインは窓辺で帳面を広げ、神殿の尖塔を観察した。
二十分ほどで、光が見えた。
赤く、じっとりとした光。昨夜と同じ。でも今夜はよく見ていたから分かった。光は一定ではなかった。ゆっくりと、波打つように、明滅していた。
まるで、呼吸のように。
レインは月を確認した。今夜は半月。
帳面に、書いた。
昨夜が何月何日で、月はどれくらいだったか。今夜がそれからどれくらいで、月はどれくらいか。このまま毎日記録すれば、光の強さと月の満ち欠けの関係が分かるかもしれない。
もし連動しているなら、満月の夜に最も強くなる。
次の満月まで──レインは暦を確認した。
八日。
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真夜中近く。
眠れないリコは、静かに根を伸ばしていた。
王都の土は遮断されている。表層は何も届かない。でも今夜、リコは深く、もっと深く──石畳の下、建物の基礎の下、地下水脈よりさらに下へ、根の感覚を沈めてみた。
あった。
遮断されていない層が、深いところにあった。
封印石が掌握しているのは地表に近い部分だけで、地の底の方では、かすかに、まだ大地のネットワークが生きていた。細く、弱く、でも確かに。
リコはそこへ、そっと根を向けた。
繋がった。
ほんのわずかだけ。でも繋がった。
そして聞こえた。
底にいた「誰か」の気配が、また──戻ってきた。
王都の内側に入ってから消えていたその声が、深層の流れを通じて、届いてきた。
(やっぱり、いる)
しかも近い。地表で感じていたときより、ずっと近い。
存在の揺れが言っていた。
──ここ。
──ずっと、ここ。
──もう、長い。
リコは根を縮めるのをやめた。
怖かった。でも縮めなかった。
(待ってて)と、思った。
11話のときと同じ言葉だった。でも今度は、もう少し確かな意味を込めた。
根を向けたまま、夜明けまで、リコは起きていた。
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朝。
ガリウスが目を覚ますと、リコの花弁が全部、開いていた。
久しぶりに。
香りは、ローズマリーだった。
起きている、という意味の香り。
でもガリウスには、今日のそれが少し違って聞こえた。気のせいかもしれなかったが。
まるで、「行くよ」と言っているような香りだった。




