九話「オットという男」
オットは、気さくな男だった。
翌日から、自然に三人の輪に入ってきた。押しつけがましくなく、でも気づけばそこにいる。ガリウスとは訓練場で毎朝手合わせし、レインには各地の薬草情報を提供し、リコには毎日話しかけた。
「今日も赤いね、リコちゃん」
リコちゃん、と呼ぶのはオットだけだった。
リコは、最初の違和感を保留していた。確信がない。匂いも、ここ数日は感じない。右手の手袋も、傷跡を隠しているだけかもしれない。
何より、オットはガリウスに良い影響を与えていた。
「構えが甘い」オットが訓練場でガリウスに言った。「お前は反応速度で勝負するタイプだろ。だったら重心をもっと後ろに──そう、そこだ。そこから踏み込め」
ガリウスが言われた通りにすると、明らかに動きが良くなった。
「すごい」ガリウスが目を輝かせた。「なんで行商人がこんなに剣を知ってるんだ」
「昔、少しね」オットは笑った。「遠い昔の話」
リコは、その「遠い昔」という言葉を、根の奥にしまった。
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十日目の夕方、オットが言った。
「明後日、王都を発つよ。次の街に荷物を届けないといけないから」
ガリウスが「そっか、残念だな」と言った。レインが「お気をつけて」と言った。
オットはリコを見た。
「リコちゃんには、一つ渡したいものがあって」
オットが行商のバックパックを開けた。中から、小さな木箱を取り出した。
「土産物屋で見つけたんだけどね。リコちゃんに似合いそうで」
木箱を開けると、中に小さな陶器の鉢があった。今リコが入っている木の鉢より、ひと回り大きい。白地に青い模様。丁寧な作りで、底に水はけの穴が三つある。
リコは、それを見た。
綺麗だった。
ガリウスが「おー、いいじゃないか」と言った。レインが「品質の良い陶器ですね」と言った。
「気に入ってくれたら嬉しいんだけど」オットが言った。「どうかな、リコちゃん」
リコは、花びらを全開にした。
ありがとう、のサイン。
オットは、その花を見て、穏やかに笑った。
「よかった」
その夜、ガリウスが新しい鉢にリコを植え替えてくれた。白地に青い模様の、きれいな鉢。根が新しい土に触れる。清潔で、良い土だった。
リコは、新しい鉢の底に根を落ち着かせた。
*いい土だ。*
最初の違和感は、どこかへ消えていた。
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翌朝、十一日目。
リコが最初に気づいた。
土が、おかしい。
鉢の中の土から、かすかに、あの歪んだ匂いがする。昨日オットが持ってきた新しい土から。
リコは根を通じて調べた。
土の奥深くに、ごく微量の、寄生体の種のようなものが混じっていた。休眠状態で、今はまだ何もしていない。でも根が触れ続ければ、やがて活性化する。やがてリコの根に寄生する。
リコは、静止した。
*あの土は、最初から仕込まれていた。*
*オットが、意図的に。*
花びらが、震えた。
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「ガリウス」
声が出た。雨も降っていないのに。
ガリウスが飛び起きた。「リコ!?どうした!」
「鉢を、替えてください。今すぐ」
「え、なんで、昨日替えたばかりじゃ」
「お願いします」
ガリウスは一瞬戸惑ったが、リコの声が震えているのを聞いて、すぐに動いた。古い木の鉢を持ってきて、宿の庭の土を使ってリコを植え替えた。
新しい鉢に移った瞬間、リコは根から寄生体の気配が消えるのを感じた。
レインが起きてきた。「何事ですか」
リコは、白い陶器の鉢を花びらで指した。
「この土に、寄生体の種が入っていました」
沈黙。
レインが鉢を取り上げ、土を調べた。しばらくして、顔が白くなった。
「……本当だ。休眠状態の寄生体が。これは、自然には混入しない」
「オットが持ってきた土です」
また沈黙。今度は長い。
ガリウスが、立ったまま動かなかった。
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三人でオットの宿を訪ねた。
今日発つと言っていた。急がなければいけない。
オットの部屋をノックした。返事がない。ガリウスがドアを開けた。
部屋は、空だった。
荷物も、人も、何もない。まるで最初から誰もいなかったように、きれいに片付いていた。
ガリウスが、部屋の中を見回した。
テーブルの上に、一枚だけ紙が置いてあった。
レインが取り上げて読んだ。
「……『リコちゃんへ。気づくのが早かったね。さすがだ。でも遅かったよ。もう終わってる。ごめんね』」
ガリウスが紙をレインから取った。読んだ。
それから、机を殴った。
音が廊下に響いた。
「ガリウス」レインが言った。
「わかってる」ガリウスは低い声で言った。「わかってるけど」
リコは、紙を見ていた。
*もう終わってる。*
この言葉が何を意味するのか、まだわからない。でも、根の奥で、嫌な予感がする。
「戻りましょう」レインが言った。「ギルドに報告して、クレインに──」
そのとき、外から音が聞こえた。
鐘の音だ。
一つ、二つ、三つ。
王都の緊急警報だった。
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ギルドに向かう途中、街が騒然としていた。
人々が走っている。叫んでいる。
何が起きたのか聞こうとしたとき、レインが立ち止まった。
レインの視線の先を、リコは見た。
王立魔法研究所の方角から、黒い煙が上がっていた。
煙ではない。
煙に見えたのは、黒い霧だった。寄生体の、密度が高い塊。それが、研究所から溢れ出して、王都の空に広がっていく。
「走ってください」レインが言った。
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研究所に着いたとき、すでに手遅れだった。
建物の周囲、半径五十メートルの草木が、すべて黒く変色して枯れていた。地面が干からびている。石畳の隙間の苔も、街路樹も、植木鉢の花も。
全部、死んでいた。
研究所の正門前に、人が倒れていた。研究所の職員だろう。白衣を着た、四十代くらいの男性。意識はあるが、立てない。
レインが駆け寄って状態を確認した。
「魔素欠乏症です。周囲の魔素を一気に吸われた。安静にすれば回復する」
「中に人が、まだいる」男性が掠れた声で言った。「所長が、地下に……」
レインの表情が、固まった。
「所長というのは、グラハム・ソーレンですか」
「そうだ、先生が地下で何かを、止めようとして──」
ガリウスがレインを見た。
「行くか」
「行きます」レインは立ち上がった。それから、リコを見た。「リコ、無理はしないでください」
リコは、花を全開にした。
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研究所の地下は、回廊よりさらに深かった。
階段を降りるにつれ、黒い霧が濃くなる。魔素の流れが歪んでいる。根を通じて感じる情報が、ノイズで乱れる。
三層目まで降りたとき、ガリウスが止まった。
「人がいる」
壁際に、人が倒れていた。
老人だった。白衣。白髪。顔に深い皺。手に魔法陣の焼け跡がある。魔力を使い果たした痕だ。
レインが、顔を見て、息をのんだ。
「……グラハム先生」
老人が目を開けた。レインを見た。
「レイン、か」老人は掠れた声で言った。「来るとは思っていた」
「何をしたんですか」レインの声は静かだったが、固かった。「研究所が枯死のデータを隠蔽していたのは、先生の指示だったんですか」
老人は、少し間を置いた。
「そうだ」
ガリウスが「このじじい」と言いかけた。レインが手で制した。
「なぜ」
「封印が弱まっているとわかったのは、十五年前だ」老人は天井を見ながら言った。「報告すれば、パニックになる。王都の民が逃げ出す。経済が崩壊する。だから、秘密裏に対処しようとした」
「対処、というのは」
「封印を、強化しようとした」老人が言った。「百年前の聖女の術式を解析して、同じものを作ろうとした。十五年かけて。でも、足りなかった。魔力が足りなかった」
沈黙。
「それで」レインが言った。「オットを使った」
老人の表情が、動いた。
「オットを知っているのか」
「リコへの工作を通じて、関与を把握しました。あの男は何者ですか」
老人は、長い息を吐いた。
「研究所が、十年前から接触していた男だ。寄生体を培養する技術を持っていた。どこで覚えたのか、最後まで言わなかった。彼に頼んだのは、封印の強化に必要な魔力を、寄生体から逆算して作る術式の提供だ」
「逆算して」レインが眉をひそめた。「寄生体の技術を使って、封印を強化しようとした?」
「毒を以て毒を制す、という発想だ。愚かだったと今はわかる」老人は目を閉じた。「オットの術式は、封印の強化ではなく、封印の解除に向いていた。気づいたのが遅かった。今朝、彼が最後の術式を起動した。封印が、解けた」
リコの根の奥で、何かが、動いた。
深い場所で。
*目覚めかけていたものが、目覚めた。*
「逃げてください」老人が言った。「もう間に合わない。根源が目覚めたら、王都ごと──」
「間に合わせます」レインが立ち上がった。
「無茶だ。百年前の聖女でさえ、封じるのに全魔力を使い果たした。お前たちに──」
「リコがいます」
老人が、レインの腕の中のリコを見た。
リコは、花を全開にした。
老人は、しばらくリコを見ていた。それから、目を細めた。
「……意思持ち草か。本当に存在したのか」老人の声が、少しだけ変わった。「エルダ・ヴェルトの日誌に、書いてあった。いつか意思持ち草が現れたとき、もう一度やり直せる、と」
リコは、動けなかった。
「行きなさい」老人が言った。「最深部へ。でも」
老人は、レインの手を掴んだ。
「レイン。お前を追い出したことを、ずっと後悔していた」
レインは、老人の手を握り返した。
「後で、聞かせてください」
老人は、頷いた。目を閉じた。
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最深部への階段を降りながら、ガリウスが言った。
「封印が解けたってことは、あれが出てくるってことだよな」
「そうです」
「どのくらいやばい」
「王都が、消えます。そこから大陸全土に枯死が広がります」
「……そっか」ガリウスは、剣の柄を握り直した。「じゃあ止めるしかないな」
レインが、少し間を置いてから言った。
「ガリウス、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「怖くないんですか」
ガリウスは、しばらく黙った。
「怖いよ」ガリウスは言った。「めちゃくちゃ怖い。でも」
ガリウスはリコの鉢を、少し高く抱え直した。
「リコが行くって言ってる。だったら俺も行く。それだけだ」
レインは、それを聞いて、小さく頷いた。
「そうですね」
三人は、最深部へ向かった。
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そして、扉を開けた瞬間。
リコは、見た。
いや、感じた。
根源は、植物だった。
巨大な、黒い樹木。高さは五十メートルを超える。幹の直径は十メートル以上。枝が天井を突き破って、さらに上へ伸びている。全身が黒く変色しているが、内側に、かすかな緑の光がある。
生きている。
苦しんでいる。
リコは、根を通じて感じた。
*ずっと、苦しかった。*
*ずっと、目覚めたかった。*
*でも、目覚めるたびに、誰かに封じられた。*
「……生き物だ」ガリウスが呟いた。
「百年前から、ここにいた」レインが言った。声が震えていた。「エルダが封じて、それから百年間、ここで──」
リコは、根を床に伸ばした。
地下の魔素を吸い始めた。最深部は、これまでで最も濃い魔素に満ちていた。
根源が、リコに気づいた。
巨大な根が、リコに向かって伸びてきた。
ガリウスが剣を抜いた。
「待って」リコが言った。
「でも」
「待って、ください」
リコは、根を根源に向けて伸ばした。
触れた瞬間、情報が流れ込んできた。
感情の塊。
*痛い。苦しい。暗い。*
*ずっと暗い。*
*誰も来ない。誰も話しかけない。ただ封じられて、ただ眠って、ただ目覚めて、また封じられる。*
*なぜ。なぜ。なぜ。*
リコは、根を通じて、返した。
言葉ではない。感情で。
*わかる。*
根源が、止まった。
*声がなくて、動けなくて、ただそこにいるだけで、誰にも理解されない感覚。*
*わかる。あたしも、そうだったから。*
巨大な根が、ゆっくりと、止まった。
根源の黒い幹に、かすかな揺れが走った。
震えているのだと、リコは気づいた。
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それから、起きたことを、ガリウスは後から何度も話した。でも毎回、うまく言葉にできなかったと言う。
リコの花から、光が溢れた。
今までと違う光だった。浄化の白い光ではない。もっと温かい、柔らかい光。
根源の黒い幹に、その光が触れた。
剥がすのではない。溶かすのでもない。ただ、触れた。
根源が、震えた。
震えながら、少しずつ、黒が薄れた。
時間がかかった。どのくらいかかったのか、ガリウスにはわからなかった。一時間かもしれないし、三時間かもしれない。
その間、ガリウスはただそこにいた。レインも、ただそこにいた。
リコと根源が、根を通じて何かをやりとりしている。言葉ではない、でも確かに何かが伝わっている。その気配だけが、部屋に満ちていた。
そして。
根源の幹が、緑に戻った。
全部、ではない。半分以上は、まだ黒い。でも、内側から、緑の光が滲み出てきた。
根源が、動いた。
巨大な根が、ゆっくりと、リコの鉢に触れた。
それだけだった。
ガリウスは、それを見て、何も言えなかった。
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リコが気を失ったのは、その直後だった。
花びらが閉じた。葉がしおれた。光が消えた。
ガリウスが「リコ!」と叫んで、鉢を抱き上げた。
「生きています」レインが素早く確認した。「魔力を使い果たしただけです。休めば──」
「休めば、戻るよな」
「戻ります」
「絶対に」
「絶対に」
ガリウスは、しおれたリコを胸に抱えたまま、その場にへたり込んだ。
根源は、静かに揺れていた。
まだ黒い部分は残っている。完全に浄化されたわけではない。でも、寄生体の活動が止まった。魔素の逆流が止まった。
レインが、静かに言った。
「……封じるのではなく、対話した。リコは、封じるのではなく、対話したんですね」
ガリウスは答えなかった。
リコの閉じた花を、ただ見ていた。
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三日後、リコは目を覚ました。
最初に感じたのは、日光だった。
窓から差し込む、朝の光。
次に気づいたのは。
鉢が、違う。
白い陶器の鉢だった。青い模様。オットが持ってきた、あの鉢。
でも土が違う。あの歪んだ匂いはない。清潔な、良い土だ。
ガリウスが横にいた。目が赤い。眠れていなかったのだろう。
「……リコ」
リコは、花びらを一枚、開かせた。
ガリウスが、長い息を吐いた。
「よかった」
声が、震えていた。
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レインが後から説明してくれた。
「オットの鉢は、デザインが本当に綺麗だったので、土だけ入れ替えて使うことにしました。あなたが気に入っていたようだったから」
リコは、白い陶器の鉢を見た。青い模様。
オットが選んだ鉢。悪意で運ばれてきた鉢。でも、鉢そのものは、何も悪くない。
リコは、花びらをゆっくりと、全開にした。
ありがとう、のサイン。
「どういたしまして」レインが言った。
ガリウスが「俺は土の入れ替えを手伝った」と言った。
リコは、もう一枚、ガリウスに向けて花びらを散らした。
ガリウスは受け取って、また少し目が赤くなった。
「泣いてないからな」
「泣いていいと思いますよ」レインが言った。
「泣いてない」
リコは、葉を揺らした。
「笑うな」ガリウスが言った。
でも、ガリウスも笑っていた。
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その夜、リコは一人で根を地下に伸ばした。
最深部まで。根源に触れた。
根源は、眠っていた。でも今度は、違う眠りだ。苦しみの眠りではなく、疲れた者が休む眠り。
根を通じて、かすかに伝わってくる感情は。
*ありがとう。*
リコは、根を通じて返した。
言葉ではなく、感情で。
*また来ます。あなたが全部、緑に戻るまで。*
根源が、かすかに揺れた。
嬉しい、のサイン。
リコは根を引き戻した。
部屋に戻る。ガリウスが大の字で寝ている。レインが行儀よく、手にノートを抱えて寝ている。
リコは、新しい鉢の底に根を落ち着かせた。
白い陶器。青い模様。
悪意で運ばれてきた鉢が、今は自分の家になっている。
*根を張れる場所がある。それで十分だ。*
リコは、暗い部屋の中で、静かに花を開かせた。
誰も見ていなくても。
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異世界メモ⑱ 根源の正体
根源は、数千年前にこの大陸に存在した「始原樹」の成れの果てだと考えられている。始原樹はこの世界に最初に魔素をもたらした植物で、その死後も地下深くで魔素を循環させ続けていた。しかし長い年月の中で、地上から流れ込む「負の魔素」──戦争、破壊、憎悪によって汚染された魔素──を吸収し続け、寄生体を生み出すようになった。根源自体に悪意はない。ただ、苦しんでいた。
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異世界メモ⑲ 封じると対話の違い
百年前のエルダ・ヴェルトは根源を「封印」した。力で押さえ込んだ。それは正しい選択だったが、根本的な解決にはならなかった。封印は時間とともに弱まり、百年後に同じ問題が再発した。リコが行ったのは「対話」だった。根源の苦しみを感じ取り、共鳴し、寄生体ではなく根源そのものに働きかけた。完全な解決にはまだ至っていないが、根源が「止まる意志」を持てたことで、寄生体の活動が自発的に止まった。これはこの世界の植物魔法の歴史上、前例のない事象だ。
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異世界メモ⑳ オットという男の背景
オットの本名、出身地、所属は現時点では不明。ただ、いくつかの事実がある。剣の腕は相当なもので、ガリウスが「本気を出していなかった」と後から気づいた。右手の手袋は、寄生体を素手で扱うための保護具だったと推測される。そして彼がリコに贈った白い陶器の鉢は、王都の一般的な土産物屋では売っていない品質のものだった。どこで手に入れたのか。なぜあの鉢を選んだのか。彼が本当に「ごめんね」と思っていたのかどうか。それはまだ、誰も知らない。




