無垢な仔猫は、毒を隠して微笑む
途中から視点が変わります。
少しでも楽しんでもらえると嬉しいです。
ガナッシュは、逃げるように部屋を飛び出していった。扉の向こうから、階段を駆け下りる荒々しい足音が聞こえてくる。
(――ふぅ、やっと一息つける)
私は仰向けにひっくり返り、低い天井を見上げた。
ふと、数刻前の服屋での出来事を思い出す。
ガナッシュが私のズボンの丈を店主と言い合っている隙に、私はカウンターの端に置かれていた「救急用の備品」に目をつけた。
「これも、後で兄貴に請求しといてください」
店主にこっそり耳打ちして、束になった包帯を素早くポケットに滑り込ませたのだ。彼にバレた時はちょっとした「靴擦れの予防」だとでも言えばいい。
そして試着室。私は手早くシャツを脱ぎ、その包帯を胸にきつく、苦しいくらいに巻きつけた。いくらスレンダーな体型とはいえ、女の子特有の柔らかな膨らみはゼロじゃない。もしこれがバレたら、ガナッシュの隣という「最強の特等席」は、一瞬で消えてしまう。
私は包帯の端をしっかり止め、その上から厚手のシャツと、彼が買ってくれた新品の少年用ジャケットを羽織った。
(これでよし。ガナッシュが私を『男のガキ』だと信じ込んでくれている限り、この偽装は私の命綱だわ)
包帯で圧迫された胸が少し苦しいけれど、それ以上に、彼を翻弄しているというスリルが、私の心臓を心地よく弾ませている。
彼はきっと今頃、どこかの酒場で「自分はいつから男色の気がある変態になったんだ」と神に懺悔でもしているのだろう。
まさか、守っている「生意気な弟分」が、包帯の下に柔らかな秘密を隠した「女」だなんて、夢にも思わずに。
自分の服は一切買わず、私のために金を使って、相変わらず汚れの目立つ冒険服のままで。その不器用な献身が、少しだけ私の胸をちくりと刺した気がした。
「振り回してごめんね……でも、明日も、もっと『弟』として可愛がってもらわなきゃ」
私は首を振って気持ちを切り替え、今日のガナッシュの態度を思い出し、くすくすと笑いながら枕を抱きしめた。
「……クソッ」
宿の狭い部屋にリアを押し込み、鍵を預けた俺は、逃げるように夜の街へ飛び出した。
宿の食堂で飲み直すなんて正気じゃいられない。あそこには、さっきリアにウインクされて顔を赤くしていた女がいる。あいつの顔を見るだけで、また胸の奥がドロドロと焼け付くのが分かっていた。
俺は石畳を乱暴に蹴り、少し離れた路地裏にある、薄暗い大衆酒場の扉を蹴るように開けた。
脂ぎった空気と安酒の匂い。ここならいい。俺のような強面の冒険者が一人で酒を煽っていても、誰も気にとめない。
「……酒だ。一番度数の高いやつを、瓶ごと置いてけ」
カウンターに座り、店主にぶっきらぼうに告げる。出された酒を一気に煽るが、喉を焼く刺激よりも、脳裏に張り付いたリアの残像の方がよっぽど強烈だった。
(……落ち着け。落ち着けガナッシュ。あいつは、ガキだ。しかも、男だぞ)
何度も自分に言い聞かせる。だが、言い聞かせればさせるほど、服屋で上着の袖から覗いていたあの白い手首や、飯を食う時の無防備な口元が鮮明に蘇る。
今まで、戦場でも魔獣の前でも、俺の理性は鋼のように堅牢だったはずだ。それが、たかが身寄りのない少年一人に、ここまでボロボロに掻き乱されるなんて。
(……俺は、いつからこんな道外れの変態になっちまったんだ)
二杯目、三杯目と杯を重ねる。
そうだ。これは単なる「同情」だ。
あんな華奢な体で、装備も持たず森にいたあいつを、俺が守ってやらなきゃならないという義務感。それが、少しばかり過剰に反応しているだけだ。
「……あいつは弟分だ。生意気で、手が焼ける、ただの弟だ」
俺は低い声で呟き、拳を固めた。
明日になれば、この熱も引いている。あいつに合う服を買い、美味いものを食わせる。それは「兄貴」としての当然の振る舞いだ。そこにやましい気持ちなんて一欠片もありゃしない。……そうだ、そうに決まってる。
「……男だ。リアは男。俺の弟。男、男、男……」
呪文のように唱え、アルコールで無理やり思考を塗りつぶす。
十分な時間をかけ、これ以上ないほど「自己暗示」という名の壁を高く積み上げた。……よし、これなら大丈夫だ。今の俺は、あいつをただの「保護対象」としてしか見ていない。そうだ、今までだって森の中でふたりだったんだ。其れが密室でも変わらない。
そう確信して、俺は重い腰を上げ、冷たい夜風に当たりながら宿へと戻った。
宿の二階、廊下の突き当たりの部屋。
扉の前で、俺は最後にもう一度深呼吸をした。
「……よし。俺は兄貴だ。……完璧だ」
静かに鍵を開け、狭い部屋へと足を踏み入れる。
部屋は暗く、窓から差し込む青白い月光だけが、二つのベッドの隙間を照らしていた。
だが、その瞬間。俺の積み上げた壁は、音を立てて崩れ去った。
「…………っ」
隣のベッドで、リアが眠っていた。シャツ一枚の姿で丸まっている。
あいつは、俺の「隙を見せるな」という忠告も聞かずに、本当に無防備な顔で寝てやがった。
月光に照らされたリアの寝顔は、昼間よりもずっと、神々しいほどに整って見えた。
少しだけ開いた柔らかな唇。規則正しい静かな寝息。
そして、シャツの襟元から覗く、細くて白い首筋――。
(……なんで、そんなに白いんだよ)
さっきまでの自己暗示が、霧のように消えていく。
「男だ」と脳が叫んでも、視界に入るその姿は、あまりにも可憐で、守らなければならないという本能を通り越して、もっと別の……ドロリとした熱を俺の腹の底に溜めさせていく。
(……あんなに細いのか。俺の手なら、簡単に折れちまいそうだ)
俺の大きな、タコだらけの無骨な指先が、無意識にリアの頬へと伸びようとする。
触れたい。
その柔らかな肌に触れて、確かめたい。
こいつが本当に俺と同じ「男」なのか。それとも、俺を狂わせるために現れた何かなのか――。
「…………っぶねぇ……!」
指先がその頬に触れる寸前、俺は自分の右手を、左手で力任せに掴んで引き戻した。
危うく、寝ている弟分に手を出そうとした自分に、猛烈な嫌悪感が込み上げる。
(……何が『完璧』だ! ガナッシュ、お前、救いようのねぇ変態じゃねぇか……!!)
俺は背中を向けるように自分のベッドに倒れ込み、毛布を頭から被った。
狭い部屋のせいで、リアの静かな寝息が、すぐそこで響いている。
あいつの体温と、微かに漂う石鹸の匂いが、逃げ場のない密室を支配している。
「……寝ろ。寝るんだ。……あいつは男だ……。男、男……クソ、なんでこんなにいい匂いがするんだよ……」
呪文を唱える声は、もう自分でも信じられないほど震えていた。
石畳の街の夜。俺にとって、どんな戦場よりも過酷な拷問が、今始まったばかりだった。
【リアの工作ログ】
• 隠密行動:ガナッシュに気づかれず包帯の調達・装着に成功。
• 物理的距離:ベッド間わずか30cm
【ガナッシュの精神ログ】
• 自己暗示成功率:マイナス100%(寝顔を見た瞬間に完敗)
• 心理状態:絶望的な自己嫌悪と、抑えきれない熱の板挟み。
• 今後の懸念:リアが寝ぼけて寝返りを打つだけで、理性が爆発する可能性。




