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この迷い猫は、あざとく笑って俺を惑わす  作者: サハラ


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27/27

IF:猫になった弟分。

「悪いな、リア。今回は少し足の速い連中を追わなきゃならねえ。今回はお前を連れては行けねぇんだ」


 宿の玄関先で、ガナッシュはそう言って私の頭を無造作にかき回した。大きな手のひらの熱が、髪越しに伝わってくる。彼は一人で、数日間の護衛と追跡の依頼を受けて出掛けていくところだった。戦えない私を気遣っての判断だと分かってはいても、やっぱり面白くない。


「はいはい。精々、泥だらけになって泣きながら帰ってこないでくださいね。……気をつけてね、ガナッシュ」


「ああ。お前こそ、変な奴らに絡まれないようにな。夜は絶対に、絶対に出歩くなよ」


 名残惜しそうに何度も振り返りながら、彼は馬に跨がり街の外へと消えていった。

 残された私は、彼が脱ぎ捨てた古い上着を畳みながら、急に静かになった一室を見渡した。



 それからの数日間、私は親父さんの店――満腹の斧亭で帳場を手伝うことにした。ただ宿で待っているなんて、私の性に合わないし、何よりガナッシュがいない間の寂しさを紛らわせるには、あの騒がしい店がちょうど良かった。


「おい、リア! あっちのテーブル、会計だ。計算、間違えるんじゃねえぞ」


「大丈夫ですよ!親父さん。今まで間違えた事ないでしょ」


 厨房から聞こえる親父さんの怒鳴り声に、私は小気味よく言い返す。ガナッシュがいない間の私は、客達の会話をBGMに、淡々と会計とオーダーを処理していく「しっかり者」だ。けれど、ふとした瞬間に店の扉が開く音を聞くと、つい視線が入口へと向いてしまう。


「……なんだ、お客さんか」


「ガハハ! リア、お前さん、そんなにあの猛獣が恋しいかよ」


 親父さんに冷やかされるたびに、私は帳簿で顔を隠した。


 そして、いよいよあいつが帰ってくる予定の日。


「親父さん、今日はもう上がりますね。兄貴、予定通りならそろそろ帰ってくるはずだから」


「おう、行ってやんな。惚気にあてられる前に追い出そうと思ってたところだ。ほれ、これは今日の分とおまけのお駄賃だ」


 ニヤつく親父さんから幾らかの賃金を受け取り、私は市場へと急いだ。彼が帰ってきたら、まずはお腹一杯に肉を食べさせてあげたい。厚切り肉のローストと、新鮮な野菜、そして長旅の疲れを洗い流すための強い酒。


 私が店主に肉を包んでもらっている間、店の隅にいたお婆さんと目が合った。


「……おや、お嬢さん。今日はまた一段と張り切ってるねえ」


 その言葉に、私は一瞬だけ虚を突かれたように目を見開いた。自分が「女」として扱われたことに驚きつつも、どこか誇らしげに微笑みを返す。

 お婆さんがくすくすと笑いながら、荷物の隙間に小さな琥珀色の瓶を滑り込ませた。


「これはおまけだよ。愛しい相手を待つ夜には、最高の『潤い』が必要だろう?」


「……リフレッシュ用の飲み物? ありがとうございます」


 宿屋への帰り道、私の足取りは自分でも呆れるほど軽かった。

 部屋に戻り、買ってきた食材をテーブルに並べ終えると、ようやく一息ついた。夕闇が差し込む室内で、喉の奥がカラカラに乾いていることに気づく。


「ちょうどいいわ。さっきの、飲んじゃおう」


 先程もらった小瓶を手に取り、栓を抜いた。野性の花を煮詰めたような、驚くほど甘く濃密な香りが立ち昇る。それを一気に、喉へと流し込んだ。


 ……異変は、その直後だった。


「……っ!? なに、これ……熱っ!」


 胃の腑からマグマが逆流してきたのかと思うほどの熱量が、一気に全身の血管を駆け巡った。視界が激しく揺れ、心臓の鼓動が耳元で早鐘を叩き始める。私はたまらずベッドに倒れ込んだ。


「あ、つ……。ヤバい、なに、これ……っ」


 今はいないガナッシュに助けを求めようとした口から、信じられない音が漏れた。


「にゃ、にゃあ……あ、っ!?」


 ……は? 今、なんて言った、私?

 自分の声のあまりの甘ったるさに背筋が凍ったけれど、変化は止まらない。

 頭のてっぺんに、何か「異物」が生えてくるような猛烈な痒み。そして腰のあたりに、内側から肉を押し広げられるような異様な圧迫感。

 自分がどうなっているのか正確にはわからない。でも、明らかに「何か」がおかしい。身体が熱くて、感覚が研ぎ澄まされすぎて、壊れてしまいそう。

 パニックになりそうな私の耳に、階下から聞き慣れた、重く力強い足音が近づいてきた。


(ガナッシュだ。……早く来て!)


 バタン! と勢いよく扉が開く。


「リア! 今帰ったぞ、悪い、予定より少し遅く……」


 数日ぶりの再会。革と鉄、そして彼特有の、落ち着く香りが部屋に流れ込んできた。

 でも、ガナッシュの言葉は途中でフリーズした。無理もない。私がベッドで、変な声を出してのたうち回っているんだから。


「……リア? お前……なんだその姿」


 ガナッシュが呆然とした声を出す。熱に浮かされながら、私はなんとか助けを求めようとした。


「なに、か変なの……。私どうなってる?……にゃあっ!?」


「……耳。黒い猫の耳が生えてるぞ。それに、お前の腰から出てるその……ふさふさした長いのは何だ。……おい、お前、どう見ても『猫』みたいになってるぞ」


「ね、猫ぉ!?こんな時に、冗談言わないでよ、……っ」


 言い返そうとしたけれど、ガナッシュが心配そうに歩み寄ってきた瞬間、私の理性の堤防が音を立てて決壊した。

 鋭敏な嗅覚が、ガナッシュの匂いをこれ以上ないほど鮮烈にキャッチしたのだ。


「……にゃ、にゃう……。ガナッシュ……なんで、そんなに、いい匂いなのよ……っ」


「……リア?」


「早く……近くに来て。……なんだか、ガナッシュの匂い嗅いでないと、頭がおかしくなりそうなの……っ」


 自分でも引くぐらい甘えた声が出て、喉の奥から勝手に「ゴロゴロ」と音が漏れる。縋り付くように逞しい腕に手を伸ばすと、ガナッシュの瞳が、光を帯びてギラついた。


「……お前、自分が今、どんな顔で俺を誘ってるか分かってんのか。……牙もない、戦いもできないくせに、俺を食うつもりか?」


「ねぇ、早く……! ……にゃあ、私に触って……っ」


 彼の瞳から、最後の一滴の理性が蒸発したのがわかった。

 ドサリ、と剣を放り出す音がして、次の瞬間には私はベッドに押し倒されていた。


「……数日我慢した上に、こんな格好で迎えて来るとはな。……覚悟しろよ。その耳が、俺の名前を呼ぶ声にしか反応しなくなるまで、徹底的に可愛がってやる」


「……きて。……熱でどうにかなりそう………にゃあ……っ!」


 宿屋の薄い壁の外では夜の帳が静かに下りていったけれど、私たちの部屋だけは、猛獣と化したガナッシュと、私の、熱くて長い再会が夜明けまで続くことになった。




 翌昼、目覚めると耳も尻尾もちゃんと消えてた。

 知らない人から貰った物を、安易に服用するのはやめようと痛む腰を押さえて私は心に誓った。

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