幕間:看板息子(偽)の誕生:胃と理性の限界
いつかどこかであった……かもしれない話。
少しでも楽しんでもらえると嬉しいです。
「いいかリア、背筋を伸ばせ。ナメられたら終わりだ。……あと、俺の側を離れるな。いいな?」
ギルドの扉の前で、ガナッシュが何度も私の顔を覗き込んでくる。
その大きな手で肩を叩かれるたび、緊張で張り詰めていた私の体は、壊れそうな時計のバネみたいに跳ね上がった。
(……大丈夫、落ち着いて。私は『リア』。ただのしがない弟分……)
心の中で何度も呪文を唱える。
もし、ここで女だとバレたら。兄貴の隣にいられなくなったら。
そんな最悪の想像が、足元をすくおうとしてくる。
私は逃げ出したくなる衝動を抑え、兄貴の服の裾をぎゅっと握りしめた。
「はい、兄貴……!」
返事と同時に、兄貴が荒っぽく扉を押し開けた。
途端に押し寄せる、安酒と汗の、むせ返るような男たちの匂い。
「おいガナッシュ! そのチビはなんだ? 予備の食料か?」
下品な笑い声が突き刺さる。
私は思わず、彼の広く分厚い背中の後ろへ隠れた。
大きな盾のようなその背中からは、使い込まれた革の匂いと、朝の空気を吸い込んだような清々しい熱が伝わってきて、それだけで私の心臓の暴走が少しだけ収まるのがわかった。
「俺の弟分だ。指一本でも触れてみろ、その汚ねぇ面を地面に埋めてやる」
地鳴りのようなガナッシュの声。さっきまで騒いでいた荒くれ者たちが、一瞬で静まり返る。
……やっぱり、この人はすごい。
この背中についていけば、どこへだって行けるような気がしてしまう。
受付に促され、私は震える指先でペンを握った。羊皮紙に『リア』という名前を書き込む。
たった二文字。
けれど、それを書き終えて、冷たい鉄のギルドカードを受け取った瞬間、私と彼の「新しい繋がり」が形になったような気がして、胸の奥が熱くなった。
「……よし、登録は終わりだ。だがな、リア。お前、今日は魔物退治なんて行かせねぇぞ」
「えっ、でも……」
兄貴は私の返事も待たず、私の細い手首を大きな掌で包み込んだ。引きずられるようにしてギルドを後にしながら、私はカードを握りしめる。
これからどんなことが起きても、この大きな手だけは、絶対に離さないと決めていた。
「いいかリア、皿を割るなよ。……あと、客に余計な愛想を振りまくな。いいな?」
馴染みの定食屋『満腹の斧亭』の厨房裏で、俺はこれでもかと念を押した。今日から数日、リアはここの店子として働く。魔物の討伐依頼を受けさせるには、こいつはあまりにひょろすぎる。せめて街の中で、俺の目の届く範囲で仕事に慣れさせようと思ったのが運の尽きだった。
「わかってますって、兄貴! ほら、もう開店ですよ。行ってきます!」
リアは、サイズが少し大きい前掛けの紐を器用に背中で結び、元気よくフロアへ飛び出していった。
……なんだ、あの後ろ姿。腰のラインが細すぎて、前掛けの紐が余ってんじゃねぇか。あんな細っこい男が、荒くれ者の相手なんて務まるのか?
俺はたまらず、フロア全体が見渡せる隅の席に陣取った。
「……おう、ガナッシュ。お前、今日は仕事休みなのか、珍しいな」
店主の親父が持ってきたエールをひったくり、俺は不機嫌を隠さずに吐き捨てた。
「おい親父。前から思ってたんだが、看板に『斧』なんて物騒なもん掲げてるから、変な奴が集まるんじゃねぇのか? リアを働かせるには、もっと……こう、『白鳥の羽亭』とかそういう店の方が良かったんじゃねぇか?」
「……はぁ? お前、この店の名前にケチつけたのは二十年付き合ってて初めてだぞ。だいたい『白鳥』ってなんだ、ガラじゃねぇだろ」
親父の呆れ顔も無視して、俺は鋭い眼光をフロアに走らせる。視線の先では、リアが「いらっしゃいませ!」と精一杯の声を張り上げていた。
注文を聞き取り、慣れない手つきでスープを運ぶ。
だが、問題はそこじゃない。
「ちょっと、そこのボク! おまけでこれ食べていいわよ、はい、あーん!」
「まぁ、なんて可愛らしい子。ねぇ、うちのパーティに来ない? 毎日美味しいもの食べさせてあげるわよ」
奥の席に座った女冒険者たちの集団が、リアを囲んで離さない。リアは困ったように頬を赤く染めながら、「あ、ありがとうございます……!」なんて、あろうことか俺にも見せたことがないような「困り顔のハニカミ」を振りまいてやがる。
(……おい。なんだ、あの女どもは…………いや、待て。落ち着け。弟分が女にモテてんなら、兄貴として笑ってやるのが筋だろ……なのに、なんでこんなに胸糞悪ぃんだ?)
さらに、逆側のテーブルではガテン系の野郎どもが、リアの細い肩に腕を回そうとしていやがる。
「おい坊主、よく働くじゃねぇか! ほら、景気づけに一杯……おっと、お前にはまだ早ぇか。がはは!」
「おい、そんな重いもん持つな。俺が運んでやるよ。代わりに後で名前教えてくれや」
男だろうが女だろうが、どいつもこいつもリアの隙に付け入ろうとしていやがる。
リアの頭を撫でる女の指先、リアの背中を叩く男の大きな掌。その一つ一つが、俺の逆鱗を逆なでする。
(……やめろ。そいつは俺の弟分なんだぞ!)
俺の胸の奥が、どろりとした熱い塊に掻き回される。
あいつが「男」なのはわかってる。わかってるんだが、誰に可愛がられてるのを見るのも、その手を甘んじて受け入れているリアを見るのも、吐き気がするほど面白くねぇ。
「……おい親父。あの客ども、いつまであいつを拘束してやがる。仕事の邪魔だろ。追い出せ」
「バカ言え、あいつらのおかげで今日の売り上げは倍だぞ。……お前、男女問わずそんな怖い顔してんのかよ? 独占欲も大概にしろよ」
「……独占欲じゃねぇ! あいつは、その、俺の弟分なんだよ! 悪い虫がついたらどうする!」
俺はエールのジョッキをテーブルに叩きつけた。
男だろうが女だろうが関係ねぇ。
リアが俺以外の誰かに触れられ、俺以外の誰かにあんな柔らかい顔を見せている。その事実だけで、俺の理性が、そして自分の「男としての本能」がぐちゃぐちゃにかき乱される。
「おい、あそこのテーブルの三人組……。リアがスープを置くたびに、ニヤニヤして指先を見てやがる。……叩き斬るか?」
「よせ。営業妨害だ。あいつらはただ『可愛い店員だな』って思ってるだけだろ」
「可愛い……!? 男に向かって何言ってやがる!」
だが、否定しきれない自分がいる。
湯気で少し顔を上気させ、一生懸命にメモを取るリア。客に「ありがとう」と言われるたびに、花が咲くような笑顔で「はい!」と答えるあの顔。……あれを「可愛い」と思わない奴は、この街にはいねぇ。
「あ、兄貴! あの、皆さんからお裾分けもらっちゃいました! 後で兄貴と一緒に食べようと思って……」
リアが小走りで俺のテーブルに駆け寄ってきた。
そのキラキラした瞳。……あんな連中に、こんな顔を見せたのかと思うと、胸の奥がキリキリと痛む。
「……リア、後ろ向け。紐が解けかけてる」
「えっ、さっき結んだばかりですよ?」
「いいから、向け」
俺はリアを強引に後ろ向かせた。
指先が震えないように、そして他の誰にも付け入る隙を与えないように、前掛けの紐をこれでもかというほどキツく、頑丈な結び目で固定してやる。
「……ひゃっ、兄貴、苦しいです……!」
「我慢しろ。……これは、悪い虫からお前を守るための……鎧だ」
「え?……虫ですか……?」
リアが不思議そうに首を傾げたが、俺は答えなかった。
男だろうが女だろうが、俺からこいつを奪おうとする奴は、全員敵だ。
そして、そんな風に思ってしまう自分は……一体、どこへ向かおうとしてるんだ。
結局、俺はその日、一番安いエール一杯で、閉店までその席を動かなかった。
客がリアに話しかけるたびに、俺の握力でジョッキがミシミシと悲鳴を上げる。
「ガナッシュ、もう帰れ。お前の顔が怖すぎて、新規の客が逃げ出してるんだよ」
親父の呆れた声も、今の俺には届かない。
店子として働くリアの可愛さが、俺の胃と理性を同時に破壊しようとしていることに、俺自身が一番絶望していた。
【リアの精神ログ】
• 緊張度:測定不能(バレたら死ぬ、という恐怖と戦い抜いた)
• 安心感:500%(ガナッシュの背中が広すぎて、世界で一番安全な場所に思えた)
• 兄貴の匂い評価: 革の匂い。無骨だけど、不思議と落ち着く。悪くない。むしろ好き。
【ガナッシュの精神ログ】
• 迷走度:120%(店の改名まで提案し始めた。末期症状)
• 監視対象: リアに鼻の下を伸ばす全人類。
• 心理状態:迷子。(自分の抱いている感情が『友情』でも『兄弟愛』でも説明がつかなくなってきているが、認めたら負けだと思っている)




