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白昼の底なし沼

少しでも楽しんでもらえると嬉しいです。


(何度か修行を重ねて、ガナッシュもだいぶ『耐性』がついてきたみたい。……でも、呼吸の深さままでは隠せていないわね)


満足に剣も振れない私だけど、相手が「何をされたら正気を保てなくなるか」を察知することに関しては、誰よりも長けている自信がある。

背中越しに、彼の心臓が今日一番の速さで打ち鳴らされているのがわかる。


(……もう一押し。今日は、いつもより深く踏み込んであげましょうか)


私はわざと力を抜き、完全に彼の厚い胸板に体重を預けて寄りかかった。

そのまま、少しだけ声を潜めて、彼の耳に届くか届かないかの音量で囁く。


「……ねぇ、兄貴。私……兄貴にこうして支えてもらってる時だけは、自分がここにいてもいいんだって、思えるんだ」


見上げれば、ガナッシュは喉仏を大きく揺らし、限界を超えた顔で硬直していた。


「……っ、休憩だ! 今日は、もう終わりだ!」


ガナッシュが弾かれたように離れ、背を向けて宿の方へ歩き出す。

その後ろ姿は、最強の戦士というより、狡猾な罠にかかった手負いの獣のようだった。

私は、地面に突き刺した木剣を杖代わりにしながら、彼の広い背中を見送る。


「……ふふ。やっぱり、こういう駆け引きじゃ私の勝ちだね、兄貴」


………でも、これは嘘じゃないよ。







勝手口の扉を乱暴に開け、俺は宿に転がり込んだ。

背後でリアの声が聞こえた気がしたが、振り返る余裕なんてなかった。

窓から差し込む真っ白な光が、俺の頭のてっぺんから足の先までを容赦なく照らし出している。


(……クソ、隠れる場所もねぇのか)


一階の薄暗い洗面所で、俺は桶の水を頭から被った。

水飛沫が飛び散り、濡れた髪から滴る水滴が首筋を伝うが、心臓の辺りに居座る居心地の悪い熱だけは一向に引く気配がない。

自分の顔がどれほど熱くなっているか、見なくてもわかる。明るい光の中で、この茹で上がったツラを誰かに見られたら、それこそ最強の戦士の威厳も台無しだ。


(ただの弟分だろ。……守ってやるべき、ひ弱なガキじゃねぇのかよ)


あの日、森で俺が見つけた迷子。

ただの気まぐれで拾い上げただけの存在。

それなのに、今の俺はどうだ。

何の変哲もない日常の中で、あいつに囁かれた一言に、魔物と対峙する時より酷い顔で狼狽えている。


「……ふぅ。……落ち着け。水だ。水を飲めば、少しは冷静になれる」


俺は自分を騙し込むように深く息を吐き出し、まだ客のまばらな食堂の椅子に腰を下ろした。

だが、喉を通る冷たい水の味なんて、一つも分からない。

今も俺の鼻腔には、数分前に嗅いだアイツの香りと、俺の腕の中で身をよじった柔らかな感触が、呪いのようにこびり付いている。


「兄貴ー! 置いてかないでってば!」


勝手口が再び開き、裏庭からリアが飛び込んできた。


(……来るな。今は、こっちに来るな)


心の中で叫んでも、リアは当然のように俺の向かいの席に滑り込んできた。


「もう、兄貴。あんなに急に切り上げるなんて、やっぱり私の筋が良すぎて驚いちゃいました?」なんて、茶化すような笑顔。


(……勝てるわけがねぇ)


俺は、手元のコップを握りしめた。

自分の理性が音を立てて崩れていくのを、俺はただ耐えることしかできなかった。


さっきまで裏庭であんな熱い視線と囁きをぶつけてきたくせに、こいつの切り替えの早さはどうなってるんだ。


「兄貴、そんなに水を被って……。風邪引いちゃいますよ?」


リアが可笑しそうに笑いながら、自分の懐から取り出した手拭いで、俺の首筋の雫を拭おうとしてくる。

そのたびに、あいつの指先が、首の薄い皮膚を掠める。


「……触るな。すぐ乾く」


俺はあいつの手を軽く払い、不自然なほど勢いよく立ち上がった。

このまま座っていたら、心臓の音が食堂に響いちまいそうだ。

とにかく、この場を、この空気から逃げ出したかった。


「お、おい。……市場に行くぞ」


「えっ? 市場ですか? 夜の買い出しにはまだ早いですよ」


「いいから来い。……お前に何か、美味いもんでも買ってやる」


俺はあいつの返事も待たずに、宿の表通りへと踏み出した。

こうして連れ回して「兄貴」としての主導権を握り直さないと、さっきの囁きで狂わされた頭が元に戻らない気がしたんだ。俺がこいつを導き、守っているのだと、自分に言い聞かせるための時間が必要だった。


表通りに出れば、真昼の太陽が容赦なく降り注いでいる。

人々の活気に満ちた賑わいの中に身を置けば、少しは火照った頭も冷えるだろうと期待したんだが……。


「わあ、兄貴! 見てください、あっちの露店、珍しい果物が並んでますよ!」


リアが、俺の腕に自分の細い腕を絡めてきた。人混みを言い訳に、当たり前のように距離を詰めてくる。服越しに伝わる、あいつの体温。市場の生臭さや埃っぽさの中で、あいつの周りだけが、あの甘い香りに包まれている。


(……くそ。逆効果だ)


周囲の男たちが、ちらちらとこちらを見ているのがわかる。「綺麗な弟分を連れてるな」なんて、値踏みするような視線。そのたびに、俺の腹の底でどす黒い独占欲が鎌首をもたげる。

あいつは、愛想良く店主と交渉を始めた。


「おじさん、この果物、もうちょっとおまけしてくれませんか?」


小首を傾げて、上目遣いで、相手の懐に滑り込むような声。店主のオヤジが鼻の下を伸ばして、「しょうがねぇな、坊主には負けるよ」なんて言っている。


(……誰にでも、あんな顔を見せてるのか)


俺は、リアの肩を抱き寄せるようにして、強引にその場から引き剥がした。あいつの「笑顔」が俺以外に向けられるのが、猛烈に不愉快だった。あんな顔を見せていいのは、俺の前だけだ。


「……おい、リア。あんなオヤジに媚びを売るな。俺が買ってやると言ってるだろ」


「えへへ、そうでした。でも、兄貴に甘えてばかりじゃ申し訳ないから、少しでも助けになりたくて。……ダメですか?」


リアが、俺の腕を抱きしめるように力を込め、下から覗き込んできた。真昼の光を反射する、潤んだ瞳。あいつは、俺の「兄貴」としての自尊心と、男としての独占欲を、同時に、正確に、抉り取っていく。


「……好きにしろ。だが、俺から離れるなよ」


俺は、あいつの手を振り払うどころか、その細い手を握り潰さない程度の強さで、しっかりと握り返してしまった。市場の喧騒なんて、もう耳に入らない。自分の理性が、この白日の下で、あいつという名の底なし沼に沈んでいくのを、俺はもう止めることができなかった。


【リアの工作ログ】

• ミッション: 「庇護対象」から「独占対象」への昇格。

• 工作内容: 他人への愛嬌で嫉妬を煽り、「兄貴の助けになりたい」と健気に追撃。

• 収穫: 「俺から離れるな」という事実上の拘束宣言をゲット。

• 感想: チョロい、けど握り返された手の熱さに私まで毒されそう。

【ガナッシュの精神ログ】

• 精神状態: 嫉妬で沸騰。理性を独占欲が完封。

• 理性度: 15% (「弟を守る義務」という名目の重度依存)。

• 収穫: 「迷子防止」という大義名分で、リアの手を握り続ける権利を確保。

• 本音: 俺が一生囲い込んでなきゃ誰に食われるか分かったもんじゃねぇ。

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