離縁いたします!
「……ふぁあ」
王太子妃アリアナは、窓の外がほんのり白み始めた空を眺めながら、三度目のあくびをした。
腕の中では、生後三ヶ月の王太子嫡男——
テオドール殿下、愛称テオ——
が、ご機嫌斜めに眉間へしわを寄せている。
「テオ……」
アリアナはテオを一定の間隔で揺らす。
寝息を確認しながら、細心の注意を払いそっとベビーベッドに下ろす……
「テオ……お願いだから……」
祈るように、ベビーベッドに寝かした瞬間——
テオは口をへの字に曲げたかと思ったら、盛大に顔を歪め……
「ぎゃあああああああ!!!!」
「なんでぇ!?」
アリアナは思わず素の声を上げた。
乳母たちは交代で仮眠を取らせてやっているし、夜中は自分がついている、と張り切ったのは他でもないアリアナ自身だ。
しかしそれは昨日の話である。
昨日のアリアナは、まだ正気だった。
授乳、げっぷ、おむつ、授乳、げっぷ、おむつ、抱っこ、抱っこ、おむつ、抱っこ、抱っこ、授乳、げっぷ——
そして気づけば、さっきと同じ夜だった。
「……もう、いい」
アリアナはふらりと立ち上がった。
頭の中が、綿菓子でいっぱいになっているみたいにふわふわしている。
好きなタイミングで座れない。
トイレすらままならない。
「わたくしは……限界です」
きりっ、と宣言した。テオに向かって。
テオは「うぎゅ」と言った。
「この三ヶ月、わたくしはあなたに虐げられ続けました」
テオは再び「ぷぎゅ」と言った。
「眠れない。ご飯は冷める。髪は爆発している。もはやわたくしは王太子妃の体裁を保てておりません」
「あーうー」
「……というか今、寝巻きのままですらありません。何かの布です」
「あーうー」
「そうですとも。あーうーです。ゆえに——」
アリアナは人差し指をぴしりと立てた。
「わたくしは、あなたと離縁いたします!!」
テオが、きょとん、とアリアナを見上げた。
つぶらな瞳。ぷくぷくのほっぺ。
「…………」
小さな手が、アリアナの指に、ぎゅ、と巻きついた。
「………………!!!」
アリアナはしばらく固まった。
「…………やっぱり可愛いですわ!!!離れられるわけがありません!!!離縁はやめます!!!!」
完敗だった。
「アリアナ? まだ起きていたのか」
低い声とともに扉が開き、王太子エルリックが執務着のまま入ってきた。
夜通し政務があったのだろう、目の下にうっすら隈がある。
それでもアリアナよりはずっとまともな顔をしていた。
「……殿下」
「顔色が悪い。というか目が虚ろだ」
「虚ろで結構です。わたくし今、テオと離縁しようとしたのですが、敗北いたしました」
「……勝てると思ったのか」
「ええ、三秒ほど」
「……それはどういう」
「指を握られました。瞬殺です」
エルリックはアリアナをじっと見てから、すたすたと歩み寄り、そっとテオを抱き上げた。
「代わろう」
「え、でも殿下だって」
「執務は終わった。俺の方が今は元気だ」
当然のように言って、エルリックはテオをゆったりと揺らし始める。
大きな手に、すっぽりと収まるテオ。
「ほら。お前は寝ろ」
「…………」
「アリアナ」
「……では、三十秒だけ」
アリアナはそのまま、寝台に倒れ込んだ。
三十秒で起きるつもりだった。
起きたのは、昼過ぎだった。
「…………あ」
カーテンから差し込む光が、完全に午後のものだ。
アリアナは跳ね起きた。
「テオ!?」
「ここにいる」
エルリックが肘掛け椅子に深く腰かけ、テオを胸元に抱いてうとうとしていた。
テオはすやすやと眠っている。父子そろって、幸せそうに。
「……殿下」
「ん、起きたか」
「ずっといてくださったのですか」
「乳母に頼もうとしたら、お前が心配だからこのままでいい、と言った自分を思い出したので」
アリアナは枕に顔を埋めた。
「……恥ずかしい……」
「よく眠れたか?」
「……はい。それはもう、死ぬほど」
「それは困る」
笑いを含んだ声がして、エルリックはテオをそっとベビーベッドに戻し、寝台の端に腰を下ろした。
「頑張りすぎだ、お前は」
「でも、テオが——」
「テオはそのうち寝るようになる。少しずつな」
大きな手が、アリアナの爆発した髪をそっと撫でた。
「俺もいる」
「…………」
アリアナはぐずぐずと布団から出てきて、エルリックの肩に頭をもたれさせた。
「……殿下も少し寝てください」
「お前が起きてるのに寝られるわけがないだろう」
「強情」
「誰に似たんだか」
しばらく、ふたりで黙って、すやすや眠るテオを眺めた。
「……かわいいですわね」
「ああ」
「虐げられていますけど」
「それはお前が負けすぎだ」
「指を握られたら誰だって負けます」
「まぁ、俺も負けるがな」
エルリックが小さく笑った。
耳元に唇が触れて、アリアナは耳まで赤くなった。
「虐げられた分、俺がお前を甘やかす。明日も頑張れそうか?」
アリアナはテオを見た。
ぷくぷくのほっぺ。小さな拳。天使みたいな寝顔。
「……はい」
間髪入れず答えてから、付け足した。
「でも、また離縁を宣言するかもしれません」
「そのたびに抱き込むから安心しろ」
「……どちらの話ですか」
エルリックは答えなかった。
ただ、少しだけ、引き寄せる腕に力が入った。
その夜も、テオは元気いっぱい泣いた。
でも二人がかりなら、きっとなんとかなる。
ただし翌朝、今度はエルリックのほうが先に『離縁』を口走っていた。
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