第九十九話
店長は、モエが置いたハンカチ――その上にあるはずの、しかし自分にも輪郭しか捉えられない「石」を、険しい顔で見つめていた。
「……それで」 店長は、タバコに火をつけながら、モエに尋ねた。
「あの婆さん……ぬらりひょんは、どれくらい騙しておける?」
「んー……」 モエは腕を組み、真剣に考え込む。
「私の一世一代の出来だけど……相手が悪いからねぇ。持って一週間、下手したら三日くらいでバレるかも?」
「……はあ。使えねえな。人を化かすのが得意な大狸様だろうに」
「誰を相手にしてると思ってるのよ!」 モエは、店長の軽口にカッと反論した。
「こっちだって胃が痛い思いしてやってんのに!」
「はいはい」 店長は、気のない返事をする。 その時、モエは店内の壁際で何か妙な動きがあることに気づいた。 見れば、いつの間にか店の中でトラとホシが、二人して黙々と床や壁に、チョークのようなもので複雑な術式を描き回っていた。
「……? ねえ、酒呑ちゃん。さっきから、あの二人、何してるの?」 モエが、不思議そうに尋ねる。 店長は、そちらを一瞥すると、タバコの煙を吐き出しながら答えた。 「ああ。これから(・・・・)に必要な事だ」
店長は、テーブルの上の「石」に視線を戻す。
「だが……まず先に、この石とバイト君の『縁』を切らなきゃな」
「縁切り……。何するの?」
店長は、モエを見た。
「バイト君に、この店で『捨てて』もらう」
「捨てる?」
「ああ。物々交換だ」
***
モエにあの奇妙な石を預けてから、五日目。 継人は、大学の講義もろくに頭に入らないほど、憔悴していた。
(……うるさい)
あの日以来、耳元で聞こえる囁き声は、日に日に明らかに大きくなっている。 店長に教わった「無視しろ」「『うるさい』と念じろ」という対処法も、気休めにしかならない。
(昨夜は、眠れなかった……)
ベッドに入り、ようやく微睡んだ瞬間。 はっきりと、女とも子供ともつかない声が、耳元で囁くのだ。
『―――どこに行くの?』
ビクッと体を震わせて跳ね起き、恐怖と緊張でまんじりともせず、朝を迎えた。
(今日のバイトで、店長に相談してみようかな……。もう限界だ)
継人が、重い足取りで学内を歩いていると、前方から見慣れた顔が駆け寄ってきた。
「廻くん!」 芝モエだった。
「あ、モエさん。どうしたんですか?」
「ごめんね、やっと捕まえた!」 モエは、息を切らしながら、バッグからハンカチに包まれた物を取り出した。
「これ、預かってた石……」
「!」
「それで……何かわかりましたか!?」 継人は、期待を込めて尋ねた。 しかし、モエは申し訳なさそうに、首を横に振った。
「ううん……ごめん。色々調べてみたんだけど、結局、何も分からなかった」 モエは、ハンカチごと石を継人に返した。
「……そうですか」 継人は、落胆を隠せない。唯一の頼みの綱だったモエでも駄目だった。 (もう、店長に頼むしかない……)
継人が深くため息をついた、その時。 ポケットに入っていたスマホが震えた。 画面を見ると、表示されていたのは、先日ようやく交換したばかりの名前――『店長』だった。
(店長から!? 珍しい……) 継人は、慌てて通話ボタンを押す。
「も、もしもし! 店長!」
『……ああ、バイト君か』 電話の向こうから、いつもの気だるげな声がした。
『単刀直入に言う。君が聞こえてる音……それを止めるかもしれない方法が、見つかった』
「えっ!?」
『店の『交換』のルールを使う。……協力してほしい』




