第六十四話
大学の門前で芝さんと名乗る女性と別れた継人は、さっき交換したばかりの連絡先を見つめ、どうにも胸のモヤモヤが晴れないままだった。店長の忠告と、飲み会の『誑かした』という単語。 (……考えすぎ、だよな) 継人は、頭を振って気持ちを切り替え、そのままバイト先の引き戸を開けた。
「おはようございます」
「ん」 店長はいつもの定位置で、いつものように雑誌を読んでいた。
「あ、店長。スマホ、充電してきました」 継人は、昨日に電池切れで果たせなかった用件を切り出す。
「あの、よかったら連絡先、交換しませんか? 店長が言ってた、万が一の時のために」
「……」 店長は、面倒くさそうに雑誌から目を上げると、自分のスマホを無言で差し出してきた。
「あ、ありがとうございます!」 無事、連絡先の交換を終える。たったそれだけのことなのに、継人は妙な達成感を覚えていた。
(……相変わらず、暇だ) 客の来ない店内で、雑誌をめくる音と、時計の秒針の音だけが響く。 継人は、手持ち無沙汰に店長を眺めた。
「あの、店長って、趣味とかあるんですか?」 言ってから、(あ、何聞いてんだろ、俺)と思う。鬼の頭領の趣味。想像もつかない。
店長は、継人の質問に、雑誌から目を離さないまま、読んでいたページを指でトントン、と叩いた。 (雑誌……) いや、違う。彼女が指しているのは、雑誌の横に置かれた、いつものタバコの箱だった。
「これ」 それだけだった。
(……でも) 継人は、これまでのやり取りを思い返す。 酒呑童子であることも、なぜ店長をしているのかも、聞けば(はぐらかすこともあるけど)ちゃんと正直に答えてくれている。
(この人、本当に『人は騙さない』んだな……) そう思うと、ずっと気になっていた、一番根本的な疑問を聞いてみたくなった。 「あの、店長。俺の『弁償』って、あとどれくらい残ってます?」
ピタリ、と雑誌をめくる音が止まった。
「……」
「いや、だって、弁償のために働いてるわけですし。一応、ゴールが見えないと……」
「……今日は、雲が多いな」
「え? 快晴ですけど」
「……」 店長は、再び雑誌に視線を落とし、完全に継人を無視した。 (やっぱり、はぐらかされた!)
「いや、店長! 俺、今後の円滑な関係のためにも、そこはハッキリしといた方がいいと思うんですよ!」 継人は、自分でも「円滑な関係のため」というのが、ただ店長ともっと話したいだけの口実だと分かりつつ、食い下がろうとした。
「だから、俺の食べた『飴玉』の価値って、一体……」
「バイト君」 店長が、手で継人の言葉を制してきた。 (あ、ヤバい。しつこすぎたか……?) 継人が咄嗟に口をつぐむと、店長は雑誌を静かに閉じ、継人の方を真っ直ぐに見た。
その顔は、怒っているわけでも、呆れているわけでもなかった。
「クッキーだが」
「え?」
「……ありがとうな。美味しかったよ」
店長は、そう言うと、ふわりと笑った。 あの、味噌汁の時と同じ、不意打ちのような、優しい笑顔で。
「あ……」 継人は、その笑顔に、今言おうとしていた全ての言葉を奪われた。 (……ダメだ) それ以上、何も追求できなくなってしまった。




