第五十九話
朝食の後、継人はダイニングキッチンで使った食器を洗っていた。 (……味噌汁、美味かったな) 二日酔いの体に染み渡る優しさが、まだ残っている。
その後ろ姿を、ダイニングの椅子に座ったままの店長が、じっと見つめている。
「じゃ、行ってきます、お頭!」
「カシラ、またあとで」 食器棚の場所などを教えてくれていたラキさんとホシさんが、身支度を整えて店の表から出かけて行った。
ダイニングに残されたのは、店長と二人きり。 水の音だけが響く。 以前までなら、この沈黙はひどく気まずかっただろう。だが、最近は、この静かな時間も悪くないと思い始めている自分がいた。 店長の(酒呑童子としての)正体や、意外な一面(泣き暴れ、不貞寝、パジャマ姿)を、少しずつでも知れているからだろうか。
「ふぅ」 皿洗いが終わり、継人は手を拭いた。
「ごちそうさまでした。あの、俺が寝てた布団、干してきます」 継人が居間に向かおうとすると、店長が気だるげに制した。
「そっちは、さっきラキたちがやっておいたよ」
「え……」 (何から何まで……) 泊めてもらい、朝食をご馳走になり、布団の片付けまで。継人は、ありがたさと申し訳なさで、なんだかムズムズした気分になった。
「で」 店長が、コーヒーカップを置いた。
「昨日、なんかあったんでしょ」 朝食の時の話の続きだった。
「あ、はい」 継人は、濡れた手をタオルで拭きながら、どう話すべきか迷った。 記憶は混濁しているし、あの『誑かした』という単語だけで騒ぐのも、自意識過剰な気がする。
「……うまく言えないかもしれないんですけど」 継人は、分からないことは分からないまま、時系列で正直に話すことにした。
大学の友人との飲み会。 人がどんどん増えていったこと。 店長のことを根掘り葉掘り聞かれたこと。 そして、泥酔してテーブルに突っ伏した時、友人の友人(らしき誰か)に囁かれた、あの言葉。
「……」 店長は、黙って継人の話を聞いていた。
「『どうやってあの美人店長を誑かしたの?』って……。ぬらりひょんさんが言ってたのと同じ言葉だったんで、気になって。……それで、寝たフリしてたら、いつの間にか本当に寝ちゃってて……」 継人は、駅のロータリーで起きたところまで話した。
「あとは、カネさんに拾ってもらったんで、ご存じの通りです」
「……」 店長は、黙って立ち上がると、継人に手招きをした。 継人が後に続くと、店長はダイニングを出て、暖簾をくぐり、店のカウンターまで戻った。
いつもの定位置の椅子に座り、店長は、今日初めてタバコに火をつけた。 (ダイニング、やっぱり禁煙だったんだな……) 継人がそんなことを考えていると、店長は紫煙を吐き出し、継人に向き直った。
「『ソレ』が次に見えたら、電話して」
「え?」
「ぬらの婆さんの知り合いだろうね。」
「! はい。……でも、俺、店長の電話番号、知らないです」
「……」 店長は、面倒くさそうにタバコを灰皿に置いた。
「スマホ」
「あ、はい!」 継人は、急いでズボンのポケットからスマホを取り出した。 (番号、交換してくれるんだ) 少しだけ浮かれて電源ボタンを押す。
……しかし、画面は真っ暗なままだった。
「あれ?」 (やべえ!) 継人は、昨夜の暗闇の廊下を思い出した。 (ライト、つけっぱなしになってたんだ!)
「……すみません。電池、切れてるみたいで……」 店長のジト目が、呆れの色を濃くした。
「……肝心な時に。……まあいい。今度教える」
その日は、継人は店長の電話番号を知ることはできなかった。




