第三十四話
継人はいつものようにカウンターの隅の椅子に座った。 店長も、定位置でタバコに火をつける。 奥からはラキさんたちが慌ただしく準備を進める音が聞こえるが、店先はいつもの静けさだ。
(……) だが、継人の頭の中だけは、まったく静かではなかった。 ぐるぐると、いくつもの言葉や光景が回っている。
たけまるさんが店長を呼んだ「酒呑」という名前 。 先日、店長自らが「冗談」のように言った、「私はな、実は酒呑童子だ」という告白 。 ラキさん、くまさん、カネさんが店長を「お頭」と呼ぶ(あるいは、呼びそうになる)こと 。 さっき聞いた、お酒での大失敗の話 。 そして、「鬼になった」原因だという、恋文の話 。
(全部、繋がるじゃないか……) 点と点が線になり、一つの、ありえない結論を指し示している。 (本当に……?) 継人は、隣で気だるげに紫煙をくゆらせる店長の横顔を盗み見た。
試してみるか? 継人は、ゴクリと唾を飲んだ。もし、違ったら。もし、本気で怒らせたら。 (いや、でも、知りたい) 継人は、カネさんが漏らした「ラブレターを捨てた」という逸話 と、酒呑童子にまつわる伝承(昔、何かの本で読んだ気がする)の、ある一つの名前を思い出した。
「……あの」
「ん?」
「外道丸さん」
継人がその名前を口にした瞬間。 ピシッ、と。店長の動きが、時間が止まったかのように固まった。
店長は、タバコを口から離したまま、ゆっくりと、本当にゆっくりと継人を見た。 その顔は、継人が今まで見たことのない表情をしていた。 いつもの気だるさも、ジト目も、怒りも、笑いも消え。 ただ、耳まで真っ赤にして、ひどく狼狽し、心の底から恥ずかしがっていた 。
「……っ」 店長は何か言おうとして口を開閉させたが、やがて、か細い、蚊の鳴くような声で絞り出した。
「……その、なまえは……やめてくれ……」
あまりの反応に、継人は即座に我に返った。
「あ、ご、ごめんなさい! すみません!」 (やべえ、地雷だった!)
店長は、長い前髪で顔を隠すように俯いてしまい、気まずい沈黙が流れた。 奥であんなに騒がしかったラキさんたちの物音も、なぜか今は聞こえない。
少しの間。 継人は、恐る恐る、もう一度口を開いた。 「……あの。やっぱり、本当に……酒呑童子、なんですね?」
店長は、俯いたまま、顔を上げなかった。 だが、やがて、小さく息を吐き出すと、いつもの気だるげな声で……しかし、その声には「ようやく信じたか」と言いたげな、ほんの少しの安堵と嬉しさが混じっているように、継人には聞こえた。
「……前にも言ったじゃないか」
「……」 継人は、言葉を失った。 (……マジか) この人、本当に、あの鬼の頭領。
「あ、じゃあ……」 継人は、どう接していいか分からなくなり、慌てて尋ねた。
「これからは、酒呑童子さん、とか……呼んだ方がいいですか?」 すると、店長は、やはり継人と目を合わせようとしないまま、ボソリと、だがキッパリと言った。
「……店長、と呼べ」




