第百二話
店の中は、いつもと違っていた。 シンと静まり返っているのに、空気だけがピリピリと張り詰めている。トラさんとホシさんが描いていた術式の線は見えなくなっていたが、その気配だけが濃密に残っているようだった。 店長はカウンターの後ろに立っていた。いつもの椅子には座らず、手には火のついていないタバコが挟まれている。
「いいか、バイト君」 店長が口火を切った。その声は低く真剣で、いつもの気だるさは欠片もなかった。
「電話でも言った通り、今から君に聞こえてる音を止める。この店のルール……物々交換を使ってな」
「物々交換……ですか」
「ああ。原因は、君が持ってる『石』だ」
「―――えっ!?」 継人は、思わずポケットに手を入れた。 (石? なんで店長がそれを!? モエさんから聞いたのか? いや、それより先に……)
「その石との縁を、ここで切る」 店長は、継人の動揺には構わず続けた。
「だが」 店長は、暖簾の奥を一瞥した。
「すんなりとは行かないだろう。恐らく……邪魔が入る。もし何かあっても、心配するな。ラキたちが控えてる」
ゴクリ、と唾を飲み込む。邪魔。誰が、何のために。聞こえる囁き声か? それとも、もっと……。
「よし」 店長は短く息を吸った。
「始めるぞ。君は『客』だ。……その石を、棚に置け」
頷き、震える手でポケットからティッシュに包まれた石を取り出す。妙に重く感じる。 一番近くの棚へ歩み寄り、ガラクタの間に、そっとそれを置いた。 指が離れた瞬間、耳元の囁き声が一瞬だけ大きくなり、そして奇妙なほど静かになった。まるで、息を潜めたように。
「次に」 店長の声が響く。その目は、扉の方を警戒するように見据えている。
「代わりの物を選べ。何でもいい」
俺が棚に向き直り、この呪われたような石の代わりに何を選べばいいのかと迷った――その時。
ガラガラガラッ!
引き戸が、乱暴に開け放たれた。 だが、そこにいたのは、ただの客ではなかった。 先日会った、あの妖艶な女性――ぬらりひょん。しかも、彼女は一人ではなかった。
「モエさん!?」 俺は叫んだ。ぬらりひょんは、ぐったりとしたモエさんの首根っこを掴み、まるで荷物のように店の中へ引きずり込んできた。モエさんは抵抗する力もないのか、苦しげに顔を歪めている。
「な、何してるんですか! その人を離してください!」 俺は、咄嗟に二人の間に割って入ろうとした。
「おや、小僧」 ぬらりひょんは、俺を敵意なく、しかし軽く制するように片手を上げた。
「少し待っておくれ。今、この頑固者(店長)と大事な話があってねぇ」 彼女は、モエさんを床に放り出すと、店長に向かって、氷のように冷たい声で言った。
「酒呑。私に隠れて、その石を皮切りに、小僧との縁切りを目論んでいたそうじゃないか。……させないよ」
彼女は、ゆっくりと店内へ歩みを進め、床に描かれた術式の痕跡を一瞥し、そして店長を真っ直ぐに見た。
「ようやくお前さんが、人間との深い縁ができそうなんだ。それを、みすみす手放すというのかい? そろそろお前も、人に寄り添うなら、人間を近くに置いてもいい頃だろうに」 まるで諭すように、店長を説得しようとする。 床に倒れたモエさんが、苦しそうに俺を見て、小さく「ごめん…」と呟いた気がした。(なんでモエさんが謝るんだ…?)
だが、店長は、ぬらりひょんの言葉を完全に無視した。 その視線は、俺だけを捉えている。
「バイト君。何と交換する?」 声は静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。
混乱しながらも、俺は棚に目を戻す。ぬらりひょんの威圧感と、床で苦しむモエさんの姿、そして店長の切迫感に挟まれて、頭がうまく働かない。 目の前にあった、一枚の、長方形の厚紙。玉藻前が置いていった名刺だ。何の価値もなさそうだ。これでいい。
「こ、これ……」 俺は、その名刺に手を伸ばした。
指先が、名刺に触れた――その瞬間。
ガラガラガラ……。
また、店の扉が開いた。
(一日に…こんな立て続けに……) ボーッとした頭で、俺は入口を見た。 午後の陽の光を背に受けて、そこに立っていたのは。 驚いたように目を見開き、俺を見つめている――元カノだった。




