【エッセイ】祖母は語らじ
(※)このエッセイには差別的な表現が登場しますが、決して差別を助長する意図のものではありません。当時の時代背景や関係者の発言を踏まえ、そのまま記述したものとなります。不愉快に思われる方もいるかもしれませんが、何卒ご了承ください。
令和七年八月十三日。
現在、私は昭和の高度経済成長期を舞台にした小説を書いている。
この作品は、基本的に異能伝奇ラノベという、若者に向けた娯楽バトル作品だが、その背景には「戦後」という舞台が存在する。
これは、もともと予定していた現代舞台の作品の過去編的な外伝作を書こうとしただけであり、意図的に反戦などをテーマに据えるつもりは無かったのだが、反面でその公開時期(八月中旬)も踏まえて、色々と考えることが増えた。
そこで少なからず、当時の日本についても調べて、不誠実な内容にならない物語を書こうという気持ちになった。
その中で、いくつか思い出した私の過去の経験がある。
無知な私の知る数少ない「戦時下の経験」として、私の祖母の話をしたいと思うので、よろしければ聞いて頂きたい。
* * *
私は三十台半ば。若くはないが、それでも「あの戦争」とは遠くに産まれた世代である。
私が生まれる直前に、両親や兄と同居していた祖父は亡くなった。入れ替わるように生まれた私は、生まれ変わりのようだということで、その名前を一部受け継いだ。
祖母は、とにかく私に甘かった。幼少期、自分の部屋の無い私は祖母の部屋で一緒に寝起きしていた。やんちゃ盛りの私にとって、一番身近な身内は祖母であった。
祖母は戦時世代である。幼い頃は満州にいたそうだ。産まれつき脚に難病を負って、周囲にいじめられた過去を持っていたらしい。
各種メディアやドキュメンタリーでも多々見るように、戦前の日本の空気は体育会系を通り越し、全体が軍隊的な雰囲気の厳しいものだった。当時は、同じ日本人こそ「軟弱な存在」に厳しかったのだろう。
それでも、祖母は勉学で見返してやろうと頑張った、という話を聞くことも多かった。また、日本人より現地の中国人と仲が良かった、といった話もよく聞いた。
* * *
私の実家は家父長的な気質が強く、一家で最も発言力を持つのは父だった。
基本的に一家全体がそれを容認する価値観の家庭であったため、最年少で甘やかされつつも、同時にその意向が軽んじられがちだった私は、「家庭」という存在に対して複雑な心境を持っている。
祖父の生前の実家の空気がどうであったのか、私は知らない。だが、祖母は家の中でも大人しく、どこか申し訳なさそうに振舞うことが多く、父も祖母に当たりがきついことは多かった。
父も決して、祖母を愛していないわけではなかったと思う。だが「父を叱ってくれる存在」のいない家庭は、著しくパワーバランスを欠いていたというのが私の見解だ。
近年は父も老いて丸くなったが、当時はある種の機能不全を抱えており、私の人格形成に影を落としたのは、事実であるようにも思う。
小学生の生意気盛りのガキだった自分は、成長していくにつれ「最年長は婆ちゃんなんだから、オトンにももっと強く出ればいいのに…」と、ヤキモキする部分が大きかった。そうした不満もあり、祖母との距離は少しずつ開いていった。
しかし、実家のマンションは部屋数がそう多くなかった。開いた距離感などどこ吹く風で、私は夏になると冷房を目当てに、祖母の部屋で寝起きをしていた。現金な子供である。
兄弟も義務教育を終え、体格は既に立派なものとなっていた。大の男の増えた所帯において、兄弟皆が子供部屋で過ごすには、いささか我が家は狭かったのである。
祖母は時々、眠っている時に大きな寝言を言った。
それは絶叫や命乞いにも近いものであり、かと思えば「アンタ、金をとる気か」「かかってこい」と勇ましい声をあげることもあった。
その時の私は「普段、オトンの振る舞いでひっこんでいるけど、ストレスたまっているのかもなぁ…」と、そんな事を考えながら、びっくりさせられたことに不満を持ったりもしていた。
私は、祖母の口から直接戦争体験を聞いたことはほとんどなかった。ありきたりな「学校の課題」として、提出を求められたことが無いのも一因だが、私から進んで聞こうとすることも、あまりなかった。
「はだしのゲン」「火垂るの墓」のビデオを学校で見せられた私には、それが陰鬱な話になることも目に見えていたし、当時の私にとって「満州」という物が良く解かっていなかったのだ。
小学校高学年の社会科で満州国についてを習ったことで、ようやく祖母が戦前何処にいたのか、それを把握した。なるほど、祖母は中国に渡っていたのか、と。
満州は、「はだしのゲン」「火垂るの墓」がトラウマとして焼き付いていた私にとって、空襲と無縁の「安全圏」にも映っていた。実際は、満州にも空襲が行われた地域もあったようだが、祖母の住んでいた大連は戦火とは遠い環境であったらしい。
本土に投下される焼夷弾。原子爆弾。これらは映像としてとても分かりやすく、「戦争の悲惨さ」を象徴する。
反面で、大陸の戦線は満州事変、日中戦争、南京事件など、旧日本軍の加害行為を象徴する事件を習うことが多い。
子供心に「中国は日本軍がイケイケでひどいことをした戦場」「本土や南方はアメリカに蹂躙された悲惨な戦場」という意識が強かったのだ。
それは、私の無知からくる漠然とした認識ではあったが、一方で「優しい祖母」が「戦争加害者」としての一面を持つことへの気づきでもあった。
それでも、祖母は身内であり、私にとってはやはり、甘く引っ込み思案な祖母の姿の印象の方が強かった。
逆説的に、それらの加害的な過去に口を閉ざし、戦争を語らなかった祖母の一面に、私はイヤな感情を持つようにもなっていた。
* * *
それから時は流れ、高校生の頃だったと思う。
当時の私はネットに被れた若造の御多分に漏れず、「図書館に置いてあった思想マンガ」の影響で、ある種のネット右翼的な一面に傾倒しつつも、祖母の満州話の記憶もあって「でも同じ人間だろう」という気持ちとの間でふらついていた。
私は受験の失敗から、もやもやした気持ちの行き場を求めてさまよっていた。だがそれでも、祖母の経験談から「人種や国家で人を判断すべきではない」という価値観を、根底の部分に持っており「外国から日本を守れ!」という言説に完全に巻き取られることはなかった。
そんなある日だった。夕食を食べながら、何かしらの海外ニュースを見ていた時の話だ。ニュースの詳しい内容は覚えていない。だが祖母は、普段からは信じられないほど低い声で、その言葉を発した。
「……『露助』が」
平素の横暴な父に対してすら向けたことの無い、本心からの憎悪が、その一言にはこもっていた。
私は慌てた。何を言ってるんだ、婆ちゃん。直球の差別用語じゃないか。普段から穏やかな婆ちゃんらしくないぞ、と。
その時は、心底から引いた記憶がある。その後、気まずい空気が流れた。
祖母のいない部屋でそのことをぼやいた私に、兄は言った。
「婆ちゃんは戦争経験者なのだから」と。
私は「それにしたって……」と思った。この時点での私は「価値観のアップデートされていない老人」としてしか、祖母を認識していなかったのだ。
私は、この時点でも、まだまだボンクラのガキだった。祖母が満州にいたこと。アメリカや中国に対しては言及しないのに、ロシアに対しては非常に敵対心をむき出しにしていたこと。
その意味を、まったく分かっていなかったのである。
……後日、テレビの戦時ドキュメンタリーで満州引き揚げの話が流れた。ソ連によって占拠された満州。そこに残された若い女性たちは、「身を守るために」髪を丸刈りにしていた、という表現。
ここに至って、私はようやく祖母の戦争体験の全体像を理解した。
「満州」「寝言の悲鳴」「ロシア人への憎しみ」「戦争への不言及」
これらの持つ意味が、ひとつの直線上で繋がったのだった。
* * *
祖母は、私が大学生の頃に亡くなった。年齢的にも大往生であり、死に顔も安らかに感じられた。
だが、私の心の中にはいまだに引っかかりが残っている。「祖母にとって、あの戦争の時代はどんなものだったのか」と。
それを知ることは、戦後に産まれた自分の責任でもあるように思うし、物書きとして「秘められた世の中の真実」を知り作品に活かしたいという、下種の勘繰りと紙一重な私欲にも近い好奇心もある。
しかし、祖母が戦争を具体的に語らなかったことは、ひとえに「家族に知られたくなかった」面もあったのではないか、とも考える。
それを詳しく話すことなく眠りにつけたことは、戦時という不幸な時代に青春を送った祖母にとって、救いだったのではないかとも思う。
そうであれば、自身の無関心さが招いた「深く聞かない」という行いは、祖母にとっても救いであったのかもしれないと、無関心だった自己を正当化し言い聞かせるように、常日頃から考えている。
総力戦下においては、すべての国民が加害者になり得るし、被害者にもなり得る。
祖母が「仲良くしていた」現地の中国人も、その本心として祖母をどう思っていたのかは、定かではない。
言うなれば日本人はみな「招かれざる客」だ。その中で不遇の目にあっていた祖母を憐れみ、寄り添ってくれたことには、人種や民族の隔たりなく温かな情を与えようとした、人間の持つ普遍的な優しさが伝わり、感謝に尽きない。しかし、同時に侵略の被害者として辛酸を舐めながら生きていた彼らに対し、気まずい思いをさせてしまったかもしれないことに、親族としては申し訳なくなる気持ちも感じる。
かつてのソ連だって、祖母の身に降りかかったであろう出来事を考えれば、口が裂けても「紳士的な軍隊だった」などとは言えない。一方で、国民すべてが悪党だったわけでもないだろう。
* * *
戦地に赴いた祖父はどうだったのだろう。私の祖父は産まれた年代的に、軍において高い地位を得られる年齢ではなかったはずなので、積極的に参与したわけではないだろうが、それでも終戦間際の武器も人手も不足した中にあっては、相応の働きは求められていただろう。
産まれる前に亡くなった祖父のことは解からないが、もう一人地方に住む母方の祖父についても、戦争の話は聞かない。
自分が進んで聞かなかったというのもそうだが、彼らがそうした話を自ら進んでしなかった、というのもある。私たち孫の前で、祖父母はとにかく好々爺であり続けた。
母の話したエピソードでは「バカでもチョンでも」という言葉を使ってしまう程度には、昔の人間であったとも聞く。……私自身は聞いたことはないのだが、もしかすると私の前に兄の帰省の時にでも漏らして、苦言を呈され控えるようになったのかもしれない。
(※この言葉の原義は「朝鮮」を意味するものではない、という反論もあるかとは思うが、彼らがその言葉が蔑称となることを知らないとも考えにくいので、その悪口の使用を続けたということ自体が、「無配慮」「無神経」という形の差別の表出であったことは否定しにくいだろう)
一方で、彼らの住んでいた地域は巨大なコリアンタウンが存在する地域でもあった。
彼らの根底に、戦前から続く差別心や偏見があったことは否定できない。しかし一方で、歴史的経緯で互いを快く思わない民族が、戦後の混乱期に同じ街で暮らす中で、衝突や憎悪、隔離意識が芽生えたのは想像に難くない。
……もちろん、それを平成まで引きずってしまったことは批判されて然るべきだろうが、家族を危険に近づけたくない一心から、過剰反応していたという「愛」も、否定できないと思う。「誰かを守ろうとする愛」は決して光の面だけではなく、ときに排他的で差別的な影の面も持つ。
孫に優しい祖父母も、その時代の情勢や常識の中で生きた結果、現代においてはとても聖人とは言えない一面を持っていた。祖父母は戦火の被害者と加害者、両方の側面を持っていた。
その良し悪しを現代から推し量るのは難しいが、私がこの世に生を受けたのは、彼らが彼らとして家族とともに生きた結果であるということ。その一点だけは否定できることではない。
私は、この平和な時代、この世に生を受けて、それなりにつらい事もあるが、なんだかんだ楽しんでいる。祖父母たちとの楽しかった思い出も、人生に彩りを加えている。
ゆえに、「彼らが居てくれたから私がいる」ということには、素直に感謝したい気持ちが強い。
* * *
両祖父について、親を伝って「戦時中は戦場で働いたらしい」という話を聞くことはあった。しかし、祖父たちが「直接人を殺した」のかは、気になっても聞けなかっただろう。
きっと戦争経験者には、戦後に口を噤んできた言葉がある。そこにはきっと「殺人」「暴行」「略奪」「強姦」「慰安所」などと言った、生々しくて、とても子供に話せない話もあったのだろう。
現代において、それらの行動はすぐにニュースになり、社会復帰不可能なほどに拡散され、制裁となる。だが、当時の戦場において行われたそれは、現実的に裁き切ることなどできなかったし、世論もこれを裁く気などなかっただろう。
穏やかな老人たちが口を閉ざしてきた中には、平和な世界では決して口にできない「闇」もあったのだろうと、そう思っている。
彼らは、彼女たちは、紛れもなく私にとって、優しくて大好きな身内であった。
しかし、その人生に横たわる「戦争」という出来事は、やはり後年まで大きな影を落としていた。
現代日本を生きる私にとって、信じられない非常識の世界。それは間違いなく、八十年前のこの東アジア地域に存在していた。
そして、その事実を挟み「大切な家族の名誉や、自分のアイデンティティを穢したくない」想いと「人として誤った行いは、誰であっても許されるべきではない」という想いが、八十年もの長い時を経てなお、本邦では火花を散らし続けている。
* * *
……ありていな反戦論だが、「戦争や搾取なんて起こらないで欲しい」というのが、祖母を見て感じた私の素直な気持ちである。どんな時代にあっても、人間が人間として生きられない、人間を人間と見られなくなる……そんな世界は、地獄そのものだろう。
私は「あの戦争は誰々が悪い」という責任論に終始すべきとは思わない。無論、当時の権力者の罪を矮小化する意図はないし、組織的に行われる悪辣な行為には、嫌悪感と批判の意識も持つ。
だが、程度の差はあれ本邦の人々は被害と加害、その両側面を抱えつつ、戦後はその実態に口を噤みながら、残された生を懸命に生き抜いた。
あの戦争は「世界大戦」だ。責任の所在を話すにも、本邦だけに限って話すことでもないだろう。互いを人間性の欠如した殺し殺されの地獄に追い込み、良心を失い突き進んでしまったこと。それは、あの時代を生きていた人類の共有する、ひとつの大きな罪なのではないか、とも思う。その一側面として、この日本という国に対しても「罪」と「悲劇」は同居する。
後世を生きる私たちとしては、こうした悲劇について、客観的かつ学術的に検証し、それが起こってしまった要因を見極めること、また繰り返されることの無きよう後世に警鐘を鳴らすこと。
陳腐ではあるが、それでもやはり、これらが大人としての責任のようにも思う。
* * *
さて、私が書いている小説について、今回のエピソードが非常にセンシティブでありながらも、終戦記念日を避けることなく公開を選んだのは、こうした思い出に感じる部分があったからである。
亡き祖母に「向こうで本作を読んで欲しいか」というと、そこは微妙である。当事者からすれば戦争の解像度が低い児戯のような話かもしれない。あるいは嫌な記憶を思い返させてしまうかもしれない。
……何より、この作品は歴史的真実を書いた話ではない。
忍者やら、超能力やら、必殺技やら、異種族恋愛やら、イケオジやら、エログロやら……単に私が楽しく書きたいだけ、という欲も入った、ガキっぽい娯楽ファンタジー作品だ。亡き祖母どころか、自分の両親に対しても「ちょっと、これは今の子向けの話だから…」と誤魔化して、見せないようにしたい気持ちも強い。
……ただ、それでも「あなたがこの世界に産まれたから、私はこの小説を書いている」ということは、伝えられたらいいなと思う。
次に実家に帰るときは、仏壇に線香を焚いて、報告してこよう。
八月十五日。
今年も終戦記念日がやって来る――
――――【あとがき】――――
「百鬼の忍」
~戦後を終えた日のもとで、役立たずの忍はバケモノを喰らう鬼の姫と出会う~
https://ncode.syosetu.com/n6964kv/
本文でも述べた通り、このエッセイはこの小説を書くにあたって書いたものだ。このことを踏まえ、補足的なあとがきを書き加えたい。
この作品は、戦後の高度経済成長期を取り扱う関係で、「あの戦争」の傷跡について触れることも多い。このエッセイは、本作を読んだ方に、作者たる私の政治信条を誤解されないように、あるいはこれから本作を読む方に安心して楽しんでいただくために書いたものである。
娯楽創作という物は、とにかく暴力やエロスといった「刺激」と相性が良い。本作も、異能伝奇アクションというジャンルであるため、その御多分に漏れず、そうした要素を多数盛り込んでいる。
令和と比べて、ダーティーで前時代的な世情、社会的混乱や因習に翻弄される悲しみ、それでもなお、幸せを掴もうと諦めない「過渡期」ゆえの希望。
そうした「昭和」の空気感の中で、各登場人物が懸命に生きていく様を書いていければ、というのが本作の趣旨だ。
反面で、私は比較的反戦志向の強いタイプの人間であり、イデオロギーとしても「国家」よりも「個の尊厳」を大事に思う気持ちが強い。ただ、そうした思想はこの作品において強く押し出さず、「どんな思想を持った人でも楽しめるフラットな娯楽活劇」を目指した。
そのため、本作の登場人物の中には「自分(作者)とは絶対にわかりあえないなぁ…」というイデオロギーを持ったキャラクターも登場する。しかしながら、その人にもまた人生があり、悲しみや葛藤を抱えている、ということを可能な限り書いていければと思っている。
人間には多面性が存在する。自分でも説明できない矛盾や、口を噤みたい秘密を持っていることもある。
それらを鑑みた上で、人々はわかりあえなかったとしても「その時代、そこに生きていた」という、ただそれだけは、とても尊い事として、互いに思いを馳せられるようになれればと、地道な世界平和の願いを記しつつ、ここに筆を置かせてもらいたい。
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