八十三話 暴走気味な母心
繭奈の立ち去ったリビング、そこのソファに座ったまま頭を抱えているのは彼女の母親、唯那だ。サラサラの黒い髪を伸ばした彼女は、どこか幸薄そうな顔立ちであり、その綺麗な肌も相まって大人の女性としての魅力があった。
先ほどのやり取りをキッチンから見ていた繭奈の父の舞智が、妻である唯那にそっと手を重ねて、目線を合わせて声をかけた。
「そんなに心配することでもないと思うよ。龍彦くんは良い子だったし」
「そうは言っても、親としては心配よ。その龍彦って子がどういう人か私は知らないし、なにより繭奈に恋愛なんてまだ早いわ」
繭奈を愛するあまり、過保護になっている唯那。彼女にとって繭奈はまだまだ子供であり、だからこそ交際を認めたくはないと思っているようだ。
どちらかというと、父親の方が娘の交際を認めないことが多いが、舞智としてはその限りではないようで、むしろ娘の成長に喜びを感じている様子。
もし龍彦が明らかに非行少年のような風体や軽薄な印象であれば、さすがにその関係に心配を抱くだろうが、龍彦はそうではなくむしろ真面目そうな印象。
そしてなにより、繭奈自身がとても幸せそうだったことで、その時間を尊重したいと考えている。
「夏休みのときだって友達とお泊まりに行ってたけど、それだってきっと龍彦くんと行ってるはずよ」
「でも、冬夏ちゃんと行くって言ってたんだろう?確認も取れてるし、心配しすぎさ。それに、繭奈が恋をするってことはもう年頃なんだよ。早いも遅いもないさ、見守ってあげようよ」
「でも……」
「口出ししてばかりが親じゃないよ。繭奈の心を信じてみよう、もし道を踏み外しそうになれば、その時はきちんと話をすればいい。それでこの話は終わり、もうすぐできるからそろそろご飯にしよう」
子離れのできない唯那をゆっくりと諭していこうと決めて、舞智は立ち上がる。唯那は呟くように返事をして、キッチンへと向かった。
夕飯を終えて繭奈が自室に戻ったあと、憂鬱な気分を払えないままの唯那に、舞智がふと口を開く。
「もう年頃なんだし、二人とも一線は越えたかな?」
「えっ?」
一線とは、つまりそういうことである。年頃の男女であればなんらおかしい話ではないが、唯那はその言葉に軽いショックを受けた。
「えっ?えっ?まっまさか繭奈に限ってそっそんなこと、っぁあるはずないじゃない」
「そうは言っても、僕たちだって同じくらいのものだったじゃないか」
「うぐっ、それはそうだけど……」
大いにあり得る可能性を舞智から聞かされたことで、唯那は目に見えて狼狽するが、舞智の言葉に言い返せず歯噛みするほかなかった。
「繭奈はもう、一人立ちの準備段階に入ったと言っても差し支えないんじゃないかな?人間はいつか自分の責任で生きていかなきゃならない。僕たちがいつまでもあの子の判断に口出しをするということは、その責任感を育む邪魔になるかもしれない。理解するのは大変かもしれないけど、ここはひとつ一緒に飲み込んでいこうじゃないか」
「……舞智くんは受け入れてるかもしれないけど、私はやっぱり耐えられないわ。言ってることは分かるけど、うぐぐ……」
舞智の説得は、なかなか唯那に響かない。というより、彼女はまだまだ子離れのための心の準備ができていなかったみたいである。
そんな言葉に、舞智は苦笑して返した。
「まぁとりあえず、お風呂に入っておいで。もう沸いてるからさ」
「……そう、ね。すこし頭を冷やすわ」
落ち着かない唯那は、風呂に入るために準備を始めることにした。もやもやとした心を落ち着かせるために、今日はしっかり休もうと考えたみたいである。
「あっそういえばあなた、いつのまに龍彦って子と会ってたの?」
リビングから出た唯那は、ふと思い出したかのように、舞智にそう尋ねた。
「あぁ、夏休み前にね」
「いっいつのまに……お風呂入ってくるわ……」
想定外の回答だったのか、唯那は目を点にしながら、ふらふらとした足取りで風呂に向かった。そんな彼女を見た舞智は、少しだけ罪悪感を感じながら苦笑した。
「──やれやれ、長い道のりになりそうだ」
リビングでひとり残った舞智は、そうポツリと呟いた。嫉妬深く甘えたがりな、そんな妻に寄り添おうと。そして、彼女が龍彦に変なことを言わないよう、自分が目を光らせようとも考えながら。




