九話:『塔』(五)
──七階層まで到達したライオはそこで引き返した。
地図のある五階層までは容易い道のりだったと言える。地図を貰えたことに改めて感謝をする必要があるだろう。
グリズたちが単なる好意で渡してきたとライオも考えてはいない。その裏になんらかの思惑が隠されていることは承知している。それでも今回の探索行で大いに助けられた。
二階層の草原を越えた、──転移させられたと言うべきか、先は岩石砂漠であった。
三階層は荒れ果てており、あちらこちらに土の柱が乱立した平野だ。舞い上がる砂埃に苦しめられながらも数時間歩き通したライオは、終点のオアシスで魔物の一団と戦った。
どうもそこを巣にしていたらしく、ボレアティ十匹の群れへの対処を迫られたわけである。さすがにこれは堪えた。やはり数の暴力は恐ろしい。一人しかいないライオは一匹一匹堅実に減らして行かなければならなかった。時間も体力も消耗した彼は、オアシスの泉で一休みしてから次の階層へと向かう。
四階層は森だ。
幹の太さが一抱えほどもあるような立派なケヤキが鬱蒼と繁る樹海で、ライオは地図を片手に彷徨うこととなった。
薄暗い木々の間を、魔物に襲われながら目印を探すのは実に大変なことだった。うっかりすれば目印を見失い、来た道すらも分からなくなりかねないのだ。ライオもかなり神経をすり減らした。
また、ボレアティたちは枝を器用に使って立体的な攻撃を仕掛けてきた。猿に似ているだけのことはある。剣の届かぬ間合いを計って宙を跳ね回り、挑発するように動き回る魔物どもにライオは苦戦を強いられた。なんせ構造上の問題だ。人体の形からして斜め上方向に剣を届かせるようには出来ていない。
それでも全て斬り伏せて、ライオは森を踏破した。
五階層に着いた彼は白い空間に出迎えられた。
雪原だ。日の陰った灰色の空といやに明るい銀世界に、さすがのライオも眩暈を覚える。
点々と立てられた赤い旗が目印なのだが、それ以外には何一つ存在していない空間は気が滅入るものだった。起伏すら存在しないのだから、恐ろしいほどに変化がない。
魔物たちは雪の中から襲いかかってきた。見上げた根性である。ライオは戦闘を喜び、必ず魔物を迎え撃った。数少ないアクセントであるからだ。
精神修養かとすら思う雪中行軍を乗り越えた先は花畑だ。しかしそれらはただの花々ではない。動き回り人を襲う白百合の群生であった。その花の大きさは人の頭を一回り大きくしたほどもあり、背丈もライオを越えてくる怪物だ。
見舞いに不向きとされるだけあって、百合の香りは強烈だ。これが一輪であれば芳しいで済むものだろうが、目に入る全てが花粉を撒き散らしているとくればその臭気は推して知るべし。布を口元に当てていても、あまりの刺激にライオの目からは涙が止まらなかった。
この白百合は魔物である。仕留めた獲物を地中に埋めて養分にするという物騒な生態を持つこれらは、あまり賢いと言えないボレアティであっても近づこうとしない凶悪な連中だ。囲いこんで香りで相手の動きを鈍らせてから、触腕のように発達した根で絞め殺す。
ワサワサと集まってくる悪魔のような花の群れを、ライオは涙で滲む視界に苦労しながら片っ端から刈っていった。不幸中の幸いか、ボレアティと違ってこちらは金になる。元になった百合が虫媒花であるからか、花の蜜が採れるのだ。虫などここにはいないと言うのに。ただ、大きさに見合った量が採れるため、ライオは刈り倒したものからせっせと集めた。ガラスの小瓶が六本も充たせたのは良い収入だろう。
そうして七階層にまで進んだライオを出迎えたのは、聳り立つ塔であった。この塔こそが魔窟の呼び名の由来であり、これまでの道中はその前段階にあたる。歪みから溢れた魔力によって拡張をされた魔窟の、後付けのオマケだ。
さすがにこれから無計画に塔を登るのは危険だと判断し、ライオは引き返してきたわけである。
元よりこれは決死行などでなく。ライオからすると初回は試しであり、どのような感じか慣らすための探索行である。
帰還したギルドで戦利品の換金をしてみれば、数日分の宿代が精々な額となった。まともな収穫がガラス瓶数本分の蜜しかないのだから当然と言えば当然か。
まったく金にならない。これでは人気など出るはずもないと、ライオは嘆息した。
目的が金とは別にあるからライオはまた日を改めて挑戦するつもりだが、これで良くできた方だと言われれば、それは人など集まるはずがない。
むしろ、グリズのような連中が不思議に思えてくるものだ。
どうやったとしても赤字な探索行を終えて、ギルドの酒場にやってきたライオを出迎えたのは、なんだ死ななかったのかという視線であった。
グリズたちはもう居なかったが、まだ最初のイベントシーンで取り巻きをしていた連中が残っていたようである。
煩わしいと思いながらも、ライオは何もしない。
ここで視線を向けてくる奴らに文句を言うのは簡単だが、この段階ではただの難癖にしかならないからだ。それを分かっているのか、不躾な視線は無くならないが、ここは我慢するべき場面だと努めてライオは平静を装う。装いきれずに彼の口角は下がっていたが。
カウンターの席に腰かけたライオは、とりあえずオススメを頼むことにした。
味覚の再現性を探ることで他の感覚の再現度を類推しようと考えたのだ。
それと現実で下戸な人間が飲酒出来るのかを試してみたい気持ちもあった。
「一番人気な奴をくれ」
すぐに出てきたグラスには琥珀色の液体がほんの少し注がれている。
わずかに浮き足立つ心を感じながら、ライオはそれに口をつけた。
くい、と一口。
それから彼はグラスをまじまじと見つめた。
味がなかったのである。
アルコール特有のあの喉を焼く感覚も、食道を流れ落ちる感触も、身体が軽くなるような高揚感も。何一つありはしない。
おかしいと思い、もう一口含む。
ただの水と変わりない、いや真実ただの水と同じであった。
「マジかよ……」
少し落ち込んだ彼は、つまみに出されたナッツを口に放り込む。
するとどうだ。
こちらは塩気と香ばしさが、それとほろ苦さがあるではないか。
ライオは目を見開いた。
「マジかよ……っ」
店主から怪訝な目を向けられていることに気付かず、ライオはナッツをポリポリとつまむ。
酒の味がしなかった時には味覚が再現されていないのかと思ったものだが、この様子ではアルコール飲料が再現されていないのかもしれない。
「サラミもくれ」
出されたスライスサラミを一口かじり、ライオは頷く。
脂身の風味、濃い塩気。肉の甘味を追いかけるように後からわずかな鉄臭さがやって来る。
血の処理が甘いのだろう。だがその臭みが、肉を食べているという実感を彼に与えてくれる。
思わず笑みがこぼれた。
ニコニコと微笑みながら、サラミをさらに二切れ三切れと口に放り込んでいく。
店主はむっつりと彼を見つめているが、ライオはそれを気にも留めない。実に不思議なことだが安物のサラミが美味しくて仕方なかったのだ。
──これで飲み物に味があれば……。
一縷の望みにかけて、ライオはジンジャーエールを注文した。勿論、ノンアルコールの物だ。
酒でないなら食べ物と同じように味わえるのでは。そう考えたのである。
見た目と中身の不一致は思いの外堪えた。ライオが飲んだのがブランデーの類いであったからこの程度で済んだのだ。例えば、ミルクでこれが起きたとしたら。それは惨事と呼ぶ他ないことだろう。
仏頂面の店主が差し出したコップを前に、ライオはじっと中身を窺い見る。ぷくぷくと気泡が弾けるそれは、一見すると普通の炭酸飲料だ。
ライオは躊躇いつつも勢い良くそれを呷った。
喉を焼く刺激、かぁっと襲いくる辛さ。鼻を抜ける清涼感は脂っこいサラミを押し流してスッキリとさせてくれる。
一気に呷ったために、ライオの目の奥では火花が弾けるようだった。
格別に美味い訳ではない。これより上質な物をコンビニでも買うことが出来る。
だが、それでも。
サラミを噛り、ジンジャーエールを飲む。
ライオはコップが空になるまでそれを繰り返した。すぐに飲み干してしまった。
「おめぇさん、ミュエルのとこの倅だろ?」
店主の問いかけにライオは是と答える。
急にそんなことを問うとはどうしたのか。彼が問い返せば店主は厳つい顔をしかめて言った。
「なんだか初めて飲み食いするみてぇだからよ」
ライオの様子が店主に疑問を抱かせたらしい。
あそこは息子に満足な食事も与えないのか。店主はそう言いたげだった。
ライオの体格を見ればそのような事がないと察することは出来るだろう。それでもライオの振る舞いが良くない印象を与えてしまったようだった。
それは困る。ミュエル商会に悪いイメージを持ったのが店主だけであったとしても、ギルドの酒場を仕切る男なのだ。その人脈は計り知れない。
蟻の穴から堤も崩れるのだ。噂になれば回り回ってどのような形になることやら。
この町で磐石な実家とて足元を掬われることに繋がりかねない。
初めて魔窟を探索し、そこから戻ってきて緊張が緩んで食事が美味しいのだ。ライオはそのように誤魔化した。様子が少しばかり他人と違ったのは命のやり取りの影響だと。
店主は納得した。
「……そうかい。精々長生きしてウチを儲けさせろ」
「いや、儲けるのは無理じゃないかな……」
悲しいかな。ライオの今日の稼ぎは、この食事だけで大分トんでしまっていた。
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